SSブログ

豊臣秀吉の莫大な財宝を探せ! 『豊臣家埋蔵金』ツーリング 後編(坑道突入編) 【兵庫県 多田銀山跡】 [ふしぎ探検隊シリーズ]

さてさて、今回は前回の続き、いよいよ多田銀山の間歩(坑道)に突入しますよ~。^^

多田銀山資料館「悠久の館」にバイクを停め、歩いて銀山橋を越え、代官所跡へ向かいます。

IMG_0633_R.JPG

IMG_0635_R.JPG




途中、オモシロ石灯籠を発見!^^

IMG_0641_R.JPG

あはは、すごく重そうです。(笑)

絢爛豪華な豊臣家を支えるために、下々の者はこんな感じだったのでしょうか。ツライわ~。TT



こんなところを通って代官所跡へ・・・

IMG_0643_R.JPG

IMG_0648_R.JPG


この辺の岩肌って違うんですよ。

IMG_0646_R.JPG

どう見ても普通の岩石ではないですよね。これも鉱石なのでしょうか。




代官所跡に到着~。

IMG_0649_R.JPG



この代官所跡は先程の『悠久の館』の川を挟んだ真向いにあります。

IMG_0652_R.JPG

IMG_0626_R.JPG



ちなみに、かつてはこんな感じだったそうです。^^

IMG_0620_R.JPG

江戸時代の代官所の復元模型です。ここでお代官さまが目を光らせていたわけですね。^^



代官所跡に石碑を発見!

IMG_0653_R.JPG

IMG_0655_R.JPG

この石碑も鉱石っぽいですよね。^^




さてさて、代官所跡からメインストリートに戻って埋蔵金探索を続けます。

IMG_0659_R.JPG

IMG_0660_R.JPG

IMG_0672_R.JPG

IMG_0673_R.JPG

メインストリートといっても車1台が通れるぐらいの幅しかありません!

が、かつて多田銀山の盛山期のこの辺りは、「銀山三千軒」と言われるほどの賑わいを見せたそうです。

古絵図を見てみると、銀山の谷筋に沿って、ビッシリと建物が画かれています。

今は、自然の中に埋もれて行ったかつての面影が残るだけです。



立派な門構えの家屋の前にやって来ました。

IMG_0678_R.JPG

IMG_0676_R.JPG

「銀山代官所の門」だそうです。

先ほど見た代官所の中門だったの門をここに移築したとのこと。本来は馬に乗ったまま通れるくらいの高さだったそうですが、民家用に低くしたみたいです。^^




おっ、川沿いにかつての「平炉跡」を発見!

IMG_0680_R.JPG

IMG_0683_R.JPG

野面積みの石垣が歴史を感じさせます。

ここで、鉱石から銀や銅が製錬されていたのですね。^^



さ~て、「平炉跡」の近くにある「金山彦神社」に寄り道しますよ~。^^

IMG_0695_R.JPG

IMG_0705_R.JPG

IMG_0729_R.JPG

ING_0706_R.JPG

この神社は平安時代の大同2年(807年)に建立されたと伝えられる歴史ある神社です。

古来より鉱山の神で、現在でも地元の人々からの篤い信仰をあつめています。

IMG_0766_R.JPG

IMG_0738_R.JPG



おっと~、境内にはハイカーを装った多くのトレジャーハンター達が昼食をとっています!

IMG_0721_R.JPG

ここ多田銀山跡には観光客を装ったトレジャーハンター達や、ラブラブカッポーを装った男女のトレジャーハンターもいます。油断出来ません!

自分もこんなところでグズグズしてるヒマはありません! 先を越されてなるものか~。(笑)




さあ、間歩(坑道)へ行ってみましょう。

IMG_0755_R.JPG



おおっ、ついに青木間歩の坑道入り口を発見しました!^^

IMG_0777_R.JPG

こ、この奥に豊臣家の埋蔵金が眠っているのでしょうか~。



意を決して、坑道へ突入します。いざ~!

IMG_0861_R.JPG

IMG_0786_R.JPG

IMG_0791_R.JPG

坑内はこんな感じですが、写真はフラッシュ撮影していますので、実際はもっと薄暗いです。



IMG_0792_R.JPG

ねっ、薄暗いでしょ。坑内には照明も所々ありますが、ここは薄暗い沈黙の世界です。



現在ではライトによる照明がありますが、江戸時代の坑内はどうだったのでしょう。

IMG_2176_R_R.JPG

多田銀山資料館「悠久の館」でもらった資料の中に、江戸時代の採掘現場のあかりについての説明が載っていました。

それによると、サザエの貝殻に油を入れて火を灯していたそうです。それでも暗過ぎますよね~。



豊臣家の埋蔵金を求めて、奥へ奥へと突き進みます。

IMG_0802_R.JPG

坑内の温度は7℃ぐらいです。ひんやりとしています。



IMG_0812_R.JPG

鋭く削り取った鉱脈の跡が生々しいです。



おおっと、こんな注意書きがありました!

IMG_0813_R.JPG
ヒィー((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル



IMG_0814_R.JPG

これは鉱石っぽいですよね。^^



IMG_0818_R.JPG

説明案内によるとこの鉱脈は白亜紀後期の6400万年前に生成されたものだそうです。

凄いですね~。今、自分は6400万年前の地層の中にいます。^^

それにしても、鉱石1トンに対して銀が600g弱しか採れないんですね。銅は20kgぐらいは採れるみたいですけど。




さらに奥へズンズン進むと・・・

おっと。これはいったい何だ~。

IMG_0823_R.JPG

IMG_0822_R.JPG

あ~っ、行き止まりだ~。

残念~、これ以上進めません!


う~ん、ここには豊臣家の埋蔵金はなかったか~。TT



IMG_0775_R.JPG

ここ青木間歩は、多田銀山跡で唯一坑道内を体感出来るので、観光客を装ったトレジャーハンター達に人気です。

午前9時から夕方5時まで自由に見学出来ます。^^




さて、多田銀山の間歩(坑道)はここだけではありませんので、次の間歩へと向かいます。

IMG_0899_R.JPG

IMG_0901_R.JPG
【瓢箪間歩大露頭(露出岩部分)】

凄いですね~。鉱脈が地表に大規模に露出している部分です。


IMG_0902_R.JPG

ここは、穴を掘らなくても地表から採掘出来たんですね。ノミやタガネの跡が迫力ありますね~。


なので、この辺は鉱石らしき欠片がゴロゴロしています。

IMG_0906_R.JPG




そして、やって来ました『台所間歩』

IMG_0911_R.JPG

ING_0912-1_R.JPG

大坂城の台所(財政)を潤すほどの大量の銀・銅の産出量を誇ったことから、『台所間歩』っていう名称がついたといわれています。解りやすいけど、えげつな~いネーミング~。^^

いくら、武力で天下を統一したとはいえ、潤沢な財政の裏付けがなければ、豪華絢爛な豊臣政権は維持出来なかったでしょうね。

ちなみに江戸時代のこの辺りはこんな感じになっています。

IMG_0912-2_R.JPG

沢山の間歩(坑道)があったみたいです。^^



さて、台所間歩に突入・・・。えっ!

IMG_0917_R.JPG

はっ、入れない~。TT


奥を覗くと、どうやら崩れているみたいです。

IMG_0919_R.JPG

奥に、妖しげに光っているのは、銀鉱脈でしょうか。それにしても残念だ~。




まあ、豊臣関係の間歩(坑道)はここだけではありませんので、『瓢箪間歩』へ向かいます。

IMG_0927_R.JPG

ついにやって来ました『瓢箪間歩』



しか~し・・・

IMG_0935_R.JPG

IMG_0941_R.JPG

IMG_0943_R.JPG

こちらも入れませ~ん。TT

代官所のお役人さまが見張っています。


それでも、お役人さまの目を盗んで、カメラを突っ込んで中の様子を撮ってみます。

IMG_0945_R.JPG

う~ん、厳重に入り口は閉じられていますね~。これは怪しいぞ~。この奥にはもしかすると豊臣家の埋蔵金が・・・。




IMG_0928_R.JPG

IMG_0928-2_R.JPG

この『瓢箪間歩』は豊臣秀吉が自身の馬印である「千成瓢箪」を掲げることを許したと伝えられるほど、銀・銅の産出量が多かったといわれている間歩(坑道)です。他の間歩に比べて坑道の入り口がデカイですね~。秀吉が馬にまたがったまま入坑したというエピソードが残されています。



結局、多田銀山跡で豊臣家の埋蔵金を発見することは出来ませんでした。

そうですよね、ここは昔から多くのトレジャーハンター達が豊臣家の埋蔵金伝説に魅かれて宝探しをした場所です。なかにはこの地に居ついて埋蔵金探しに人生を捧げちゃった人もいるぐらいですから、そう簡単には見つかるわけはありません・・・。

夢は永遠に夢なのか・・・。

今は静かな多田銀銅山跡ですが、かつての繁栄ぶりに想いを馳せながらこの地を後にしました。





しか~し、この埋蔵金探しはまだ続きがあります。

「豊臣家の埋蔵金」といえば、天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)と言われていますが、実際のところ、天正長大判ってどんな大判なのか見てみたいですよね~。^^

フフフ・・・、実は天正長大判って『とある場所』にあるんです。

後日、日を改めまして、その『とある場所』へ天正長大判を見に行ってきました。^^



それはココ・・・

IMG_1754_R.JPG

IMG_1745_R.JPG
【造幣局】 大阪市北区

造幣局は、大阪市に本局、東京都及び広島市に支局をもつ独立行政法人です。春には「桜の通り抜け」で有名なところですね~。^^

ここの造幣局の構内に『造幣博物館』があります。

IMG_1615_R.JPG

造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風建物です。

昭和44年(1969年)に建物の保存を図り、当局が保管していた貴重な貨幣などを一般公開し、造幣事業を紹介するため当時の外観をそのままに改装し、「造幣博物館」として開館しました。

ここに、秀吉の天正長大判があるんです。


では、どうぞ~。

IMG_1708_R.JPG
豊臣家の埋蔵金ついに発見いたしました~。^^


【天正長大判】
IMG_1710_R.JPG
《表面》

IMG_1717_R.JPG
《裏面》


【天正菱大判】
IMG_1712_R.JPG
《表面》

IMG_1719_R.JPG
《裏面》


IMG_1716_R.JPG

説明文によれば、『天正長大判』は秀吉が造らせた長さ17.5cm 幅10.2cmもある世界最大級の金貨で、当時この大判一枚で30年分の米が買えたそうです。

『天正菱大判』は現存する枚数が極めて少ないため、評価不能とのこと。一説によればこの一枚が一億円以上するといわれています。

『天正長大判』も『天正菱大判』もすべて本物です。

て、いうか大判・小判に限らず造幣博物館に展示してある貨幣はすべて本物だそうです。係の人が自信ありげにそう言ってました。さすが造幣局の博物館です。本物の大判、小判のド迫力が味わえます。^^

IMG_1738_R.JPG

IMG_1705_R.JPG

宝の山ですよ~。大判、小判がザックザク状態です。ここにある貨幣の全ての鑑定額を合計したらいったいいくらになるんでしょうか~。^^

あ~っ、もう秀吉の埋蔵金の本物が見れただけでも幸せです。はたして多田銀山の坑道奥深くに、この大判が4億5千万両も眠っているのでしょうか~。永遠の謎ですね。^^





さあ、ふしぎ探検隊は大坂城へ・・・

IMG_1934_R.JPG

IMG_1870_R.JPG

IMG_1872_R.JPG



現在の大坂城は「大阪城公園」として、たくさんの人で賑わっていますが、天守閣の北側にひっそりとした一角があります。

IMG_1990_R.JPG

IMG_1981_R.JPG

IMG_1989_R.JPG

慶長3年(1598年)夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。自分の死後の秀頼の身を案じた秀吉は、勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させた・・・。

これが「豊臣家の埋蔵金」伝説の始まりでした。


それから17年後の慶長20年の大阪夏の陣において、大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀君がこの地で自刃して果てました。

豊臣家の滅亡とともに、「豊臣家の埋蔵金」も深い謎に包まれてしまいました。

IMG_1816_R.JPG

IMG_1831_R.JPG

何思う太閤秀吉公・・・。


なにわのことは夢のまた夢・・・なのですね。



では、また。


豊臣秀吉の莫大な財宝を探せ! 『豊臣家埋蔵金』ツーリング 前編 【兵庫県 多田銀山跡】 [ふしぎ探検隊シリーズ]

このあいだ、なにげにナビのスポットセレクトを見ていたところ、こんな文字が目に留まりました・・・。

ING_1056_R.JPG
【豊臣家の埋蔵金】・・・?


『ん!』

IMG_1060_R.JPG

と、豊臣家の埋蔵金~~。なんだそりゃ~。


【豊臣家の埋蔵金】伝説
慶長3年(1598年)夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。自分の死後の秀頼の身を案じた秀吉は、勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させた。その量は天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)といわれるが、もしこれが本当なら、黄金の価値だけでも約5兆円!場所は現在の兵庫県猪名川町の多田銀山の坑道内。瓢箪間歩を中心に間歩21カ所に埋めて山を閉じた。 指揮は勘定奉行幡野三郎ら三人のみが任され、場所の詳細は文書と絵地図に記され大切に保管されたという。やがて豊臣方は敗れ、多田銀銅山も徳川幕府の手に落ちた。幕府は必死に埋蔵金を探すが見つからなかった。文書と絵地図は、幡野らの没後、伊賀の亀井家の蔵に厳重保管されていたそうだが、時流れて第2次大戦後、混乱の中で散逸したという。 長い間さまざまな人によって豊臣家の埋蔵金の探索が続けられてきたが、まだ黄金はかけらも見つかっていない・・・。

うほ~、黄金の価値だけでも約5兆円ですか~。それに天正長大判ですか~。天正長大判といえば、豊臣秀吉が作らせた長さ17.5cm、幅10.2cmもある世界最大級の金貨で、1枚数千万円~1億円以上するといわれていますので、4億5千万両っていったいいくらになるんでしょうか~。^^ とりあえず1枚5千万円として・・・

5千万円×4億5千万両=EEEEE・・・

だぁ~、自分の持ってる電卓はエラーが出て計算できません。とにかく天文学的な金額になることは間違いありません!

フンガ~。と、とにかく落ち着け~俺~~。



とりあえず、多田銀山ってどこだ~。



兵庫県猪名川町銀山ですか~。そのまんまや~ん。^^

兵庫県なら高速使えば日帰りで帰って来れるな~。コイツは行かねば~。^^



というわけで、埋蔵金探索の準備を整え・・・

IMG_1079_R.JPG



『豊臣家埋蔵金』ツーリングへGo!

IMG_0576_R.JPG

IMG_0584_R.JPG

この日は三重県の鈴鹿ICから高速に乗りました。F1の日本GPの翌日だったので、F1の横断幕がまだありましたよ~。



途中、新名神のサービスエリアで休憩しました。^^

IMG_0587_R.JPG

IMG_0589_R.JPG

Ninja君だけに『忍者の里 甲南』で休憩デス。(笑)


おおっ、フードコートでこんなもの発見!

IMG_0590_R.JPG
「忍者バーガー」^^


フフフ、モチロン注文しました~。

IMG_0593_R.JPG

IMG_0592_R.JPG

忍者バーガーは、黒影米、もち米、白米を混ぜて炊きあげたご飯をハンバーガー状にして表面をこがし、鶏ミンチとキャベツ、レタスを挟んだライスバーガーです。地元甲南高校とのコラボで生まれたバーガーだそうです。

ライスバーガーなので、新作おにぎりを食べている感じですが、鳥ミンチがとっても美味しくてレタスとよく合っています。ウマ~。^^


さ~て、今回は「ふしぎ探検隊シリーズ」の『豊臣家埋蔵金』探索の極秘ミッションを帯びていますので、グズグズ出来ません! さっそく、出発です。^^

IMG_0599_R.JPG

新名神から名神高速~中国自動車道~阪神高速池田線というルートを通り、池田木部で高速を下りて多田銀山に向かいます。



多田銀山近くで怪しげな穴ボコ発見!^^

IMG_0605_R.JPG

IMG_0608_R.JPG

中を覗いて見たけど、崩れてて奥深くに入ることは出来ないようです。これも多田銀山の坑道の一つなのでしょうか。この奥にはもしかすると・・・。




もう、気分は上々、盛り上がりまくり~で、多田銀銅山『悠久の館』に到着。^^

IMG_0614_R.JPG

ここ『悠久の館』は、多田銀銅山に関わる絵図や古文書、鉱石・鉱山道具などの資料を展示してる資料館です。

ここで、多田銀山の情報を収集しましょう。^^

IMG_0616_R.JPG

IMG_0618_R.JPG

ふむふむ、なるほどね~。多田銀銅山っていうのは、その歴史は古く、奈良時代の東大寺の大仏鋳造の銅を寄進した伝承にまで遡るのですね。その鉱床も広範囲に渡っていて、この辺りには約2000もの間歩(まぶ)と呼ばれる坑道があったのですか・・・。そして、豊臣秀吉のゆかりの間歩(坑道)として、「台所間歩」や「瓢箪間歩」があるみたいです。よっしゃ~。^^


そして、「多田銀銅山 悠久の館 周辺マップ」をGet!

img012_R.JPG

バイクは「悠久の館」に停めて、歩いて埋蔵金探しをすることにします。

目指すは秀吉の「台所間歩」、そして「瓢箪間歩」です。^^




でもね~、今回はここまで~。あはは、残念でした~!

次回はいよいよ間歩(坑道)突入編です。

IMG_0861_R.JPG

はてさて、豊臣家の埋蔵金を手にすることが出来るんでしょうか~。


驚愕の結末は次回を待て~。^^



では、また。



築城の名人 藤堂高虎公の生誕の地へ行ってみようツーリング 【滋賀県 甲良町】 [日記]

秋となり、食欲の秋にふさわしく食いだおれています今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。

この日も午前中の用事を済ませ、ランチは四日市の中華料理屋さんへ・・・。

IMG_0019_R.JPG

IMG_0026_R.JPG

まあ、中華料理といってもラーメンとチャーハンのランチメニューなんですけどね・・・。(笑)


この日は朝御飯食べていなかったので、もう一品頼みました。^^

IMG_0035_R.JPG
『芝えびのマヨネーズ炒め』

自分はマヨラーなので、『芝えびのマヨネーズ炒め』って大好きなんですよ。

プリプリの芝えびにマヨネーズソースがよく合っていてウマ~。^^




ランチの後は地元菰野町に戻ってきて、ここで一杯・・・。

IMG_0007_R.JPG

IMG_0009_R.JPG

一杯といってもお酒ではありませんぜ、ダンナ。(笑)



IMG_0013_R.JPG

お茶です。^^

菰野町は伊勢茶の産地のすぐそばで、町内でもお茶を作っているところもありますので、お茶は身近なんですね。

延々と続く茶畑の風景ってとても美しいので、新茶の頃に写真を撮ってブログUPしたいと思いま~す。^^




さてさて、午後から時間も空いたし、天気もいいし、こりゃ絶好のバイク日和ダナ~。^^

やっぱり近場で行くとなると、琵琶湖方面かな~。最近行ってないし~。




そんなわけで、最近ご無沙汰のKSRで国道306号線の鞍掛峠を越えトコトコと・・・

IMG_0047_R.JPG

IMG_0056_R.JPG

「気持ちいい~」 もう、最高ですね~。^^





というわけで、今回はここに来てみました~。^^

IMG_0078_R.JPG
《滋賀県 甲良町》


位置的にはこんな感じデス。^^

甲良町だよ.jpg




甲良町でまず最初に訪れたのは・・・

IMG_0084_R.JPG
【高虎公園】 甲良町在士(こうらちょう ざいじ)



そうです、今回はこの方にお会いするためにやって来ました。^^

IMG_0108_R.JPG

IMG_0114_R.JPG
伊勢津藩32万石の大名であり築城の名人だった 《藤堂高虎公》

甲良町在士はその昔、近江国藤堂村と呼ばれていました。

そう、ここは藤堂高虎公の生まれ故郷なんです。^^





藤堂高虎は、弘治2年(1556年)に藤堂村の土豪・藤堂虎高の次男として生まれました。藤堂氏は先祖代々、在地の小領主だったそうですが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民と変わらぬ状態になっていたようです。幼名は「与吉」です。

高虎が元服の15の時には身の丈が6尺3寸(約190cm)もある巨漢だったそうです。当時の人々の身長からすると、見上げるような大男だったのですね。^^

父、虎高は湖北の雄「浅井家」に仕え、高虎もそれに従って初陣は、浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が激突した「姉川の合戦」でした。このときの戦いで、高虎は武功を挙げたそうです。





高虎公園から200mぐらいのところに在士八幡神社があります。

IMG_0178_R.JPG

IMG_0195_R.JPG

IMG_0193_R.JPG

IMG_0177_R.JPG

ここが、高虎公の出生地みたいです。^^

この在士八幡神社は、藤堂家の先祖を祠る神廟として藤堂家との関係が深く、年々五十石の祭祠料が藤堂家から給せられ、改築修理も伊勢から大工がやって来て行なっていたそうです。八幡神社は藤の名所で、今日でも5月の「藤切祭」には藤の花を桐の箱に詰め、東京の藤堂家へ届けているそうです。


ここでもう一度、甲良町「高虎公園」の『藤堂高虎公』の像を見てみましょう。^^

甲良町の高虎だよ_R.JPG

甲良町の高虎のアップだよ.JPG
『甲良町 藤堂高虎公像』




そして、三重県津市の津城跡にある『藤堂高虎公』の像

津城の高虎だよ_R.JPG

津城の高虎のアップだよ.JPG
『津城跡 藤堂高虎公像』

この津城の高虎公の写真は、以前、津城を訪れたときに撮った写真なんですけど、全く同じですよね。

たぶん、甲良町の高虎像のほうが新しそうなので、津城の高虎像を模して作ったと思います。^^

こうしてみると甲良町在士の方々の高虎公への思い入れの強さを感じますね~。伊勢国と近江国、国は違えども高虎公と繋がっているんだと・・・。^^




8月に愛媛県の今治城に行ったときも高虎公の像がありましたね。

IMG_0501_R.JPG
『今治城 藤堂高虎公像』

こちらの高虎公の像も騎馬姿ですね。どの像の馬も名馬といわれた高虎の愛馬「賀古黒」でしょうか。^^

高虎公の騎馬姿っていいですよね~。戦国の世を己の力だけで生き抜いてきた力強さを感じます。
「何も恐れず突き進め」って言ってるようです。^^

実際、高虎公の体には50ケ所に及ぶ刀傷があり、指も何本か失っていたようです。



高虎公は築城の名人との名を残していますが、秀吉の弟であり秀吉軍の要「羽柴秀長」に仕えたことが、高虎の運命を変えたのでしょう。秀長の元でめきめきと頭角をあらわし、各地の戦いで武功を挙げ、所領も順次加増されていきました。

天正13年(1585) 紀伊国平定のため秀長に従い、戦功により5,400石加増され10,000石になり大名格の身分となりました。そして秀長の和歌山城築城に普請奉行として携わり、この経験がのちの築城の名人となるきっかけとなったようです。




高虎公園に『高虎公ゆかりの残念石』がありました。

IMG_0096_R.JPG

IMG_0100_R.JPG
『高虎公ゆかりの残念石』

この巨石は徳川大坂城を再建するために高虎公が京都の大野山から切り出させた巨石ですが、使われること無く木津川に取り残されてたものだそうです。まさに「残念~」ですね。^^


IMG_0098_R.JPG

クサビの跡がくっきりと残っていますね。重量が約11tもある巨石を切り出すのは容易ではなかったと思います。


藤堂家の記号がわかるかな~。^^

IMG_0103_R.JPG




そしてこんなものもありましたよ~。

IMG_0161_R.JPG

IMG_0163_R.JPG

IMG_0159_R.JPG
『藤堂家家紋入り灯篭』

おおっ、藤堂家の家紋がしっかり入っていますね。^^



そしてこの灯篭を寄贈したのはもちろん・・・

IMG_0158_R.JPG

現在の藤堂家の御当主さまです。

ここにも甲良町と藤堂家との関係の深さが垣間見えますよね。

高虎公が没してから数百年が経っているのに、今日までず~っと繋がっているんだなと思うと何だか嬉しくなってきました。^^




さてさて、高虎公の像を見た後は、甲良町をブラリンしました~。^^

IMG_0170_R.JPG

IMG_0206_R.JPG

古き時代を偲ばせる風情ある町並み。歴史が現在の生活に自然と溶け込んでいる、そんな感じですね。


甲良町のキャッチフレーズの「時のながれとせせらぎの町」、まさにそのとおりの優しさ溢れる町並みでした。

IMG_0259_R.JPG

IMG_0252_R.JPG

IMG_0211_R.JPG

IMG_0244_R.JPG





今回は甲良町に来ていますので、やっぱり湖東三山の一つである「西明寺」にも行かないとね~。^^

IMG_0271_R.JPG

IMG_0281_R.JPG
天台宗 龍應山 『西明寺』

一千数百年の歴史を物語る天台の名刹。天台宗の寺院ということで総本山は比叡山延暦寺です。

平安時代、仁明天皇の勅願により三修上人が開山したと伝えられます。




西明寺の境内はこんな感じです・・・

西明寺境内図_R.JPG

西明寺の本堂へは麓からも登ってゆくことが出来ますが、今日は中腹にある駐車場までKSRで行きま~す。^^



IMG_0284_R.JPG

本坊の門前には見事なもみじが・・・。秋が深まって紅葉の季節になったらとても美しいでしょうね。



IMG_0288_R.JPG



本坊の庭園「蓬莱庭」を見ながら登って行きます。

IMG_0293_R.JPG

IMG_0291_R.JPG

IMG_0301_R.JPG

IMG_0295_R.JPG

池には糸が張り巡らされていました。琵琶湖は野鳥の宝庫ですので、鯉を守るためでしょうか・・・。^^

これはこれで、絵的に面白いです。^^



IMG_0300_R.JPG

IMG_0314_R.JPG

IMG_0363_R.JPG



これが国宝の本堂です・・・

IMG_0332_R.JPG

IMG_0343_R.JPG
『西明寺 本堂』

本堂は、鎌倉時代初期に建立されたもので、国宝第1号に指定されたそうです。釘を一本も使っていないそうですよ~。^^

本堂の中に入れてくれていろいろ説明を聞きました。^^

御本尊は薬師如来さまで、秘仏だそうです。一住職一代につき一回しか御開帳しないそうで、4年前に御開帳されたそうですよ~。ちょっと残念かな。^^



そして、こちらが同じく国宝の三重塔です。

IMG_0351_R.JPG

IMG_0349_R.JPG

IMG_0342_R.JPG
『西明寺 三重塔』

鎌倉時代後期に建立された総檜造りの三重塔で、内部は極彩色に彩られているそうです。^^

やっぱり総檜の三重塔は見てて迫力がありますね。「ほお~っ」て感じデス。^^



織田信長は比叡山延暦寺の焼き討ちのときに、近江国にある比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じました。ここ西明寺も天台宗の寺院ということで、信長配下の手の者によって焼き討ちされたそうです。でも、僧侶や住民の機転により、山奥に位置する本堂や三重塔は焼失をまぬがれたといいます。

しかしまあ、よくぞ信長の兵火から逃れることが出来たなあって思います。おかげでこうして国宝の寺院が現在でも見ることが出来るんですからね~。^^




さあ、今回は琵琶湖の湖東に来ていますので、やっぱり琵琶湖は見なくちゃね~。^^

午後からのお出かけだったので、けっこういい時間になってきました。

というわけで、フィナーレは琵琶湖の夕景を見にGo~!



IMG_0407_R.JPG

IMG_0522_R.JPG

やっぱり、琵琶湖はいいなあ。心が洗われます。^^

この美しい夕景を、信長も秀吉も見たんでしょうね。そして若き日の藤堂高虎も・・・。



では、また。



この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。