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世界遺産『白川郷』と悲劇の城『帰雲城』 [歴史ロマンシリーズ]

世界遺産の『白川郷』合掌造り集落は岐阜県北部の庄川流域にあります。

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とても美しい合掌造りの萱葺き屋根の民家は訪れる人の心を魅きつけます。

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『白川郷』といえば城山展望台から撮った写真が有名ですが・・・

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ここは、その名のとおり、かつて存在した荻町城(おぎまちじょう)の城跡なのです。

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【堀切】IMG_2651_R.JPG

【土塁】IMG_2654_R.JPG

【本丸跡】IMG_2675_R.JPG

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築城年代は未詳ですが、南北朝時代に南朝の公家達が隠れ住んだ城だと言われています。

江戸期は天領だった白川郷ですが、戦国期の荻町城はこの地を支配していた内ヶ島氏の支城として、家臣の山下氏が代々居城としていました。



白川郷にいつ頃から人が住むようになったのか定かではありませんが、源平合戦の初期に、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたと言われています。

もともと白川郷をはじめ飛騨の多くは、白山信仰を中心とする天台系密教の強い地域でありました。そんな中、鎌倉初期の建長5年(1253年)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊上人が庄川沿いに浄土真宗の布教を行います。

【嘉念坊善俊上人】IMG_4471_R.JPG

白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊上人は熱心に教えを説き、次第に農民たちの間に浄土真宗が広まってゆきます。


一方、寛政元年(1460年)信州より内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。豊富な金銀資源によって繁栄し、足利義政の「銀閣寺」造営のための献金をするほどだったといわれています。内ヶ島氏の居城は、現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる『帰雲城』(かえりくもじょう)でした。

当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るっていた時代でした。

白川郷でも浄土真宗のもとで団結した農民たちと領主の内ヶ島氏は激しく対立し、数度にわたって武力衝突しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。



白川郷は陸の孤島と呼ばれ攻め難く守りやすい地域であった為、戦国期内ヶ島氏の支配は120年続きます。

しかし織田信長が本能寺で討たれ、時代は豊臣秀吉の世と成りつつありました。


時の内ヶ島氏理は越中の佐々成政と関係を通じていたため、天正13年(1585年)秀吉による「富山の役」では佐々成政の援軍として越中に赴いていました。

天正13年(1585年)閏8月、豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて飛騨を攻撃しました。

内ヶ島氏理はただちに飛騨へ戻りましたが、金森長近は浄土真宗の照蓮寺勢力と手を結んだため、内ヶ島氏理はたまらず降伏します。

金森長近は内ヶ島氏の金銀資源に目を付けたのか、内ヶ島氏理の所領を安堵し居城の帰雲城に帰してやります。



そして、運命の天正13年(1585年)11月29日(旧暦)がやって来ます。

この時、帰雲城では所領安堵の祝いとして、能役者を招き、宴を催していたといわれています。

そして夜半、東海・北陸・近畿地方などを襲った巨大地震により、帰雲山に大崩落が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられています。

【帰雲城址】(かえりくもじょうあと)
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この時の巨大地震はM8.0~M8.1とも言われ、帰雲城は、内ヶ島一族、在家三百余軒、男女数百人とともに、埋没してしまったそうです。

450年近く経った今日でも、帰雲山の大崩落ははっきりと見て取れます。阪神・淡路大震災の時はM7.3、関東大震災の時はM7.9ですので、それ以上の、わが国の内陸直下地震としては最大規模の大地震だったみたいです。

越中では木舟城が倒壊し、前田利家の弟である城主の前田秀継夫妻など多数が圧死しました。美濃では、大垣城が崩れ焼失、城下で多数の家屋が倒壊し、また近江では、山内一豊の居城である長浜城が全壊し、一豊と千代との間に生まれた一人娘で、6歳になる与弥姫が、乳母とともに圧死したそうです。



戦国期に白川郷を支配した内ヶ島氏が、各地に多大な被害をもたらしたこの「天正大地震」により、一瞬のうちに滅亡した事実を知ったとき愕然としました。

敵に攻め滅ぼされ歴史から消えていった戦国武将はあまたいますが、巨大地震によりその居城、一族、城下町もろとも一瞬に消えていった戦国武将は、内ヶ島氏理だけでしょう。

内ヶ島氏はその豊富な金銀資源により、大きな勢力を誇っていました。天正大地震によりその金銀財宝もろとも地下深く埋もれてしまった・・・。そうです、ここには埋没金伝説があります。


現在この地には「帰雲城址」の石碑が立てられていますが、崩落し地中深く埋まっていますので、「帰雲城」が何処にあったのかはわかっていません。



近くに「帰り雲神社」が建立されています。

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『流れる雲は常にこの山頂に至り もと来た空に帰るという』・・・帰雲山の由来ですね。



さっきまで帰雲山に雲はありませんでしたが、雲がかかってきました。

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この雲ももと来た空に帰るのでしょうか・・・。



Ninjaで庄川の河原に降りてみました。

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山が半分ありません。

450年前のこの地は内ヶ島氏の帰雲城の城下町として賑わっていたでしょうが、現在は荒涼とした風景が広がります。


かつて白川郷を支配した内ヶ島氏とその一族、そしてその城下に住んでいた人々が一瞬のうちに消えてしまったか思うと、祈らずにはいられません。

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では、また。




【おまけ】

白川郷で疲れたネコ発見!

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まるで、オレみたい・・・。

でも、前向きにガンバルぞ~。^^



【おまけ2】


関ヶ原の影に隠れた籠城戦 『おあむ物語』 【岐阜県 大垣城】 [歴史ロマンシリーズ]

まだまだ、暑い日が続きますね。皆さんいかがお過ごしでしょうか。

今回は7/31(土)の記事ですよ~。

朝起きてツーリングでも行こうと空を見上げたら、どんより曇ってました。

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う~ん、こりゃ一雨降るかな~。でも、バイク乗れる日は今日しかないしな~。

というわけで、今日は近場ツーリングすることにしました。もちろんレインウエア持ってね~。^^

今日は久しぶりにKSRで行くことにしましたので、バイクカバーを外そうと近寄ってみたら・・・

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あはは、小さなカエル君がチョコンと乗っていました。(笑)

まあ、梅雨時はよくあることなんですが、夏場は珍しいですね。

ありがとう、今日も無事にカエルからね~。^^

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国道365号線を岐阜県方面に・・・



途中、立田小学校で微笑ましい看板を見つけました。

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『ホタルの里 立田小学校』

イラストの子供達、とっても味わいがあって大好きです。

男の子が着ている服は、タンクトップではなくてランニングシャツでしょうか。(笑)

ここ立田小学校は高原の山の麓にあり、自然豊な処にある小学校です。山村留学もできますよ~。^^





さあ、まずはここに寄り道~。^^

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『水嶺湖』・・・すいれいこ

とっても美しい言葉の響ですね。なんだか魅かれます。^^

考えてみたら、今週も湖に来てますね。ダム湖ですけど・・・。(笑)



『水嶺湖 日本昭和音楽村』

岐阜県大垣市上石津町、緑に囲まれた美 しい湖「水嶺湖」の湖畔に日本昭和音楽村はあります。 日本昭和音楽村には、作曲家「江口夜詩」を顕彰し建てられた音楽ホール「江口夜詩記念館」、フォークニューミュージックにスポットをあて、レコードジャケットなどを展示したFN音楽館、イタリア料理のレストラン、宿泊施設(コテージ)、カナディアンカヌーなどの施設があります。

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そう、今日はカナディアンカヌーを乗りに来ました。^^

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さあ、カヌー乗り場で・・・

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ライフジャケット着て・・・

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このカヌーに乗って・・・

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このパドルで・・・

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いざ、水嶺湖へGo!^^

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うお~ 気持ちいい~

今までボートといえば、足漕ぎスワンボートや手漕ぎボートなどに乗ってみましたが、カナディアンカヌーが一番いいですね。^^

スワンボートは見た目かわいいので楽そうに見えますが、ペダルを漕ぐのがけっこう大変なんです。船体が重いからですかね~。(笑)

手漕ぎボートは後向きで漕ぐので、景色を楽しみながら進んでいくのはちょっといまいちかな・・・。

カナディアンカヌーは船体も軽いし何よりも前向きで進めるので、景色を楽しみながら進めます。



ここ水嶺湖はダム湖ですけど、水鏡がとても美しい湖です。

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湖上を吹く風がとっても気持ちいいです。^^

ここ水嶺湖は自分が住んでる所から遠くないので、たまにカナディアンカヌーを乗りにやってきます。

カヌーはゆっくり漕いでもいいし、力いっぱい漕いでもいいし、湖上を漂っていてもいいし、とっても自由です。(^^)

あっという間に時間がたってしまいます。

たまに乗るとカヌーもいいな~。また、来よ~っと。^^





さあ、岐阜県の大垣市に来てますので養老町のあの滝を見に行くことにします。

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『養老の滝』

居酒屋チェーンの『養老乃瀧』じゃないですよ~。本物の滝で~す。(笑)

メッチャ涼しい~。 とても真夏だとは思えません。

マイナスイオン浴びまくり~。ここから動きたくないなぁ~。^^


この「養老の滝」には、貧しいけれど一生懸命に働き親をいたわった親孝行な息子の「養老孝子伝説」があります。

「養老孝子伝説」

ちなみに居酒屋チェーンの『養老乃瀧』の名称はここからきてるそうです。創始者の木下藤吉郎さん(←あはは、スゴイ名前デス)は、この「養老孝子伝説」に心うたれて「親孝行と勤勉」を社是とし、社名を「養老乃瀧」としたそうです。

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さてさて、養老の滝に来たのなら、養老の滝名物の「流しそうめん」を食べましょうか~。^^

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皆さんは、流しそうめんといえばこんな感じの流しそうめんを想像するかと思いますが・・・

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《流しそうめんのイメージ図》



ここ養老の滝の流しそうめんはこんな感じです・・・

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確かにそうめんが流れています。(笑)

まあ、養老名物の流しそうめんは、かなり昔からこんな感じなので、ご存知の方も多いと思います。^^

それでは、イタダキマス。

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水流がかなり早いのでそうめんがグルングルン回っています。



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そうめんGet!



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ミカンGet!



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キュウリGet!



水流が早いのでそうめんが少なくなってくると、そうめんを掴むのがだんだん難しくなって来ますが・・・

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な~んだ。箸を水の中につけたままにしておけば、自然とそうめんが引っ掛かってくれるではありませんか。(笑)


いや~、なかなかオモシロいっす。水流が早いのでスピード感があって見てても楽しいデス。

それにブルーの背景にそうめんの白が映えて涼しげで綺麗ですね。ごちそうサマーでした。^^



もちろん食後の一杯は、もう一つの養老名物である養老サイダーですね。

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ほ~っ、程よい甘さですね。自分好みです。




さあ、岐阜県の大垣市に来たのなら、大垣城に行ってみます。

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それでは、大垣城の天守をどうぞ~

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あはは、改修工事中でわかりませ~ん。(笑)


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工事案内を見てみると、天守と乾隅櫓の瓦葺き替えと外壁の改修工事ですね。

工事金額まで書いてますね。しかも税込みだって。(笑)

しめて2億2千万円弱也~。

でも、工事金額が書かれてある工事案内って初めて見ました(笑)


この大垣城の天守は昭和34年(1959年)に、乾隅櫓は昭和42年(1967年)に鉄筋コンクリート構造によって復元されたものですけど、それにしても億のお金がかかるんですね。歴史的文化財を維持するのも大変ですね~。


まあ、このままではなんなので、工事フェンスに改修工事前の大垣城の天守の写真がありましたのでどうぞ~。

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この復興天守は昭和42年(1967年)に再建されたものですけど、戦前は天守が現存していて国宝でした。

残念ながら、太平洋戦争時の空襲で消失してしまいましたが・・・。TT

この工事フェンスには戦前の国宝天守の写真もありましたのでどうぞ~。

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この国宝天守、前の復興天守と見比べたらわかりますが、詳細部分が若干違うだけでほぼ同じです。

現在の大垣城の天守は鉄筋コンクリート造の復興天守ですが、往時の天守の姿を偲ぶことができますね。(^^)/



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江戸時代初期の大垣城の様子ですね。現在は本丸、二之丸址は大垣公園として整備されています。


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大垣城の修復工事は外側だけですので、中の展示室には入場することが出来ます。

入場料はなんと100円(高校生以下無料)です。 安っ!^^

それにエアコンが効いてて涼しい~。

やっぱり夏場のお城巡りはエアコンの効いてる復興天守がいいですね。(笑)

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大垣城を訪れたのは今回が初めてではありませんが、好きなお城の一つですね。

入場料が100円っていうのもあるんですが、展示内容が映像を駆使した関ヶ原の戦いの説明があったりと、お手軽に楽しめるからなんですね。^^

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今回もここのDVDで関ヶ原の戦いに至るまでの映像を楽しみました。



展望室からの眺めです。

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工事中です。(笑)


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瓦の葺き替え工事です。でもこんな天守の姿って珍しいでしょ。貴重な写真ですね。今だけ~。(笑)

現在、国宝姫路城も修復工事に入っていますが、工事が本格化したら見に行こうと思ってます。^^




以前から、大垣城に行ったら購入しようと思っていた本がありました。それは・・・

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『おあむ(おあん)物語』

この大垣城が歴史の舞台に大きくクローズアップされるのは、慶長5年(1600年)の天下分け目の戦いの時でした。

石田三成は、東軍を迎え撃つべく大垣城に入場して西軍の本拠としました。徳川家康率いる東軍は、大垣城を見下ろす西北の赤坂岡山に布陣します。西軍は前哨戦である「抗瀬川の戦い」に勝利しましたが、攻城戦を避けたい東軍側が流した「東軍は赤坂岡山の陣を離れ大坂へ向かう」との情報を信じ、大垣城に三成の縁者である福原長尭ら兵7500人を残し、関ヶ原へ移動します。東軍も大垣城の抑えとして15000人の兵を残し、関ヶ原へと向かいます。そして9月15日の関ヶ原での一大決戦となるわけです。

西軍と東軍が関ヶ原での天下分け目の戦いの一方で、大垣城でも攻防戦が展開されました。この時、大垣城に籠城していた中に「おあん」という娘がいました。
「おあん」(実名ではないようですが・・・)は石田三成の家臣であった山田去暦の娘で、この時十六才だったみたいです。その「おあん」が歳を取り、毎日のように子供たちに語った思い出話を記録したのが、この「おあむ物語」ですね。籠城している側の様子がどのようだったのか、家臣の娘と言う視点から見た籠城戦、とても興味があります。

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もちろん自分の購入した「おあむ物語」は【翻刻文】に【現代語訳】が付いています。

原文のままだと読めないですもんね~。(笑)


「おあん」一家は父親が三成の家臣だったので、近江国彦根(佐和山城下)に住んでいましたが、三成の大垣城入城にともない、一家で大垣城に入ったようです。戦時に妻や子を連れてお城に入ることに驚かされますが、当時はこれが普通だったんでしょうか。
女性は炊事のほかに、鉄砲玉の製造を行なっていたようです。

それから、女性の仕事として、敵の首化粧もおこなっていました。恐ろしや~。

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物語の中にありますが、味方が取った敵の首は天守に集められて、白歯の首には身分を高く見せるためにお歯黒などをつけたそうです。なれれば全然怖くないみたいで、血臭い首がゴロゴロしてるなかで平気で寝てたそうです。もう、話を聞くだけで卒倒しそうです・・・。

大垣城の攻防戦は関ヶ原で西軍が敗れてからも続いておりました。攻め手は城中の者を怯えさせるために、夜中に叫び声をあげたり、大砲を撃つ前に触れを行なってから大砲を撃つなど、籠城戦ならではの神経戦も展開されてたようです。

物語では「おあん」の14歳になる弟が鉄砲の弾にあたって死んでしまったことも書かれています。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、無駄な兵力の損失を避けたい攻め手は、城内に籠もっている者への切り崩し工作に出ます。「おあん」の父・田中去暦の元にも城から出るように矢文が来たそうです。去暦は家康の手習いの師匠だったようで、「由緒あるものだから城から逃れたければ助けるから何処へでも落ちなさい」との矢文の内容でした。

城中は、敵方の内応工作もあり二之丸・三之丸が開城して敵方の手に落ち、明日にでも本丸が攻め落とされる状況で「おあん」たちも死を覚悟し不安だったみたいです。「おあん」の父は一家を連れて、城塀から梯子や吊り縄で堀へ降り、たらいを船代わりにして場外へ脱出しました。

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『おあんの松』

現在大垣城天守の西側に「おあんの松」二代目植えつぎがあります。修復工事のために近くまで行けませんでしたが、写真の松だと思います。初代の松は戦前に枯死したそうです。天守からおあんの松を伝い、脱出したとの言い伝えがあります。

無事に脱出した「おあん」一家はその後、親類を頼って土佐に行ったそうです。やがて「おあん」は雨森儀右衛門に嫁ぎ、寛永年中に齢八十余で亡くなりました。

9月15日の明け方に始まった大垣城攻防戦ですが、同日に西軍が関ヶ原の戦いで破れ、味方の裏切りのため、9月18日には二之丸・三之丸が開城し、唯一抵抗していた本丸も、東軍の説得により9月22日に降伏しました。守将の福原長尭は伊勢朝熊山で蟄居ののち自害させられました。





さあ、さすがに城外に出ると暑いです。

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こんなときは涼しげな甘味でも食べましょう。^^

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大垣名物『水まん氷』

ん、水まんじゅうって滋賀県の長浜でも見たような・・・。ま、細かいことは気にしない、気にしない・・・。^^

ツルリンとした水まんじゅうにかき氷を添えて白蜜をかけた涼味です。かき氷の中に水まんじゅうが3つ入っています。冷や冷やでとっても美味しかったですよ。でも3つじゃ足りないな~。(笑)





さ~て、チョコットだけ寄り道して帰ります。

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【住吉燈台】【船町港跡】



では、また。



夏だ~ 涼だ~ 諏訪湖へGo!ツーリング 後編 【長野県 諏訪市 高島城】 [歴史ロマンシリーズ]

【高島城】

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天正18年(1590年)当時の諏訪領主 諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移りますが、小田原征伐の功績により、日根野高吉(ひねの たかよし)が諏訪に転封、豊臣秀吉より2万7000石が与えられ諏訪の領主となりました。

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日根野高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手だったそうで、文禄元年(1592年)に高島城の築城を開始し、慶長3年(1598年)まで7年ほどかかって完成させたそうです。

当時の高島城は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれました。

当時の高島城の城郭はこんな感じです。

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本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をはぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と河川に囲まれた難攻不落の水城でした。現在は、二之丸、三之丸などは市街地となっており遺構は残っていませんが、図の赤丸の本丸部分とその面影を残すお堀が往時の高島城を偲ばせます。

関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に属した諏訪氏は、慶長6年(1601年)に旧領の諏訪領に封ぜられ、以後、諏訪氏10代 約270年の長きにわたってその威容を誇りました。

明治になって廃藩置県により城郭が撤去され、本丸跡は公園となりましたが、昭和45年(1970年)に天守閣が再建され、同時に冠木門・角櫓なども復興されました。

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それでは冠木門から城内へ・・・。

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冠木門脇にある大木が迎えてくれました。何百年というお城の歴史を見守って来たのでしょうか・・・。




本丸跡は高島公園となっており一般に開放されています。

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趣のある日本庭園です。




おっ、こんなもの発見!

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各地のお城でおなじみの「顔出しパネル」ですね。^^

武田信玄の側室であり、武田勝頼の母である「由布姫」と「山本勘助」ですか。あはは、豊臣時代の築城である高島城とはあまり関係がないんだけどなあ~。(笑)

2007年の大河ドラマ「風林火山」の影響でしょうね~。恐るべし大河ドラマ・・・。

なので、顔出しパネルで遊んでみた。^^

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いかがでしょうか。ダースベーダーっぽくないッスカ。(笑)




それでは、天守閣へ・・・。

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遠くからの見た目は木造っぽかったけど、鉄筋コンクリート製ですね。

昭和45年(1970年)に復元されているので、築40年ですか。すごいな~。^^



三層の天守閣ですが一階と二階は資料室となっています。残念ながら撮影禁止ですけどね~。(笑)

最上階の三階は展望室になっていたので、諏訪の街を撮ってみた。

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築城当時は諏訪湖が城際まで迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城ですが、江戸期の干拓などによって諏訪湖が遙か向こうへ行っちゃってます。(笑)

まあ、江戸時代という平和な時代になって、敵から攻められる心配もなくなり、なによりも農地を広げ石高を増やすことこそが最重要課題になったので、しょうがないんですけどね~。

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皆さん、屋根が瓦葺きでないことにお気づきでしょうか。

この、復興天守の屋根は銅版葺きですが、もともと築城当時の天守閣も瓦葺きではありませんでした。

天守閣は檜の薄い板を葺いた杮葺き(こけらぶき)という珍しいものだったそうで、これは、諏訪の寒冷に耐えられる瓦が調達出来なかったためと言われています。

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さあ、ここでもう一度、当時の高島城の城郭図を見てみましょう。

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赤丸で囲った南之丸が城郭の離れにあるのが解りますよね。

実はこの南之丸は、寛永3年(1626年)に徳川家康の六男 松平忠輝を預かったときに、増設したものです。

そうここは、幕府から預かった流人の監禁場所だったところです。松平忠輝以降も、赤穂浪士の討ち入りにより改易された吉良義周などの幕府から預かった流人の監禁場所となりました。

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写真でいうと、歩道橋の左辺りに南之丸があったと思われる場所ですけど、現在では市街地となっていて遺構は残っていません。



【松平忠輝】(まつだいら ただてる)

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徳川家康の六男に生まれたにも関わらず、数奇な運命をたどった悲運の人です。

今回、ぜひ高島城を訪れたかった理由の一つは、悲運の人「松平忠輝」が高島城において人生の大半の時間を流人として過ごした場所を見たかったからなんですね。ただ、残念なことに今回訪れた高島城は南之丸の遺構はもちろん、資料館や城跡にも、忠輝に関する資料や解説は一切ありませんでした。TT


天正20年(1592年)1月4日、忠輝は徳川家康の六男として江戸城で生まれました。幼名は辰千代(たつちよ)です。

家康は誕生した辰千代を生母・茶阿局の身分が低かったため、素直に喜ばなかったといいます。そればかりか、家康は生まれたばかりの新生児である辰千代の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのです。辰千代は下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなりました。

家康が忠輝と再び面会したのは、慶長3年(1598年)のことですが、そのときも家康は忠輝を嫌ったと言われています。

茶阿局は天正20年(1592年)に辰千代を、文禄3年(1594年)に弟の松千代を出産したとされていますが、実は辰千代、松千代を双子で生んだという説もあるそうなんです。当時双子は「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われていて、そのために双子のうちの一人である辰千代は捨て子扱いされたのではないかとの説のほうが、個人的には説得力があるような気がします。あっ、あくまでも個人的意見ですけどね~。^^

弟の松千代には幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対して、同時期の辰千代はなにもなし~。う~ん、やっぱりね~。(笑)

ところが、慶長4年(1599年)1月に弟の松千代が早世してしまいます。そのため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷1万石を与えられました。

慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝を名乗ります。ちなみに、忠輝は織田信長を尊敬していて、生涯を上総介で通したそうです。

その後の忠輝は順調に加増移封されていきます。

慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚します。

慶長15年(1610年)、越後高田藩主に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられました。

忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人で、キリスト教の洗礼を受けキリスト教を信仰していたともされています。家康は当初貿易の実利を求めながらも、キリスト教宣教を黙認していたそうです。

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では大坂に出陣しました。

元和2年(1616年)4月、父・家康が死去しますが、家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかったそうです。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかったそうです。

そして運命の元和2年(1616年)7月6日、忠輝は大坂夏の陣の際に不行跡があったことを譴責され、兄である将軍徳川秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪となりました。

その改易の理由というのは・・・
・大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。
・忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
・大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。

まあ、関ヶ原の戦いのおり遅参して家康から叱責された秀忠が、大阪夏の陣の遅参を理由に忠輝を改易するとはなんたる歴史の皮肉でしょうか。忠輝にしてみれば「あんたにいわれたくねぇ」っていう感じでしょうか。(笑)

個人的には改易の本当の理由はキリスト教にあるのではないかとの説が大きいように思います。1612年に諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止令が出され、キリスト教への迫害が始まりました。忠輝自身が洗礼を受けていたかどうかはわかりませんが、キリスト教に深く関わっていたようです。

織田信長を尊敬していた忠輝ですが、粗暴な振る舞いが多かったと言われています。でも、改易させられた人の人物像って、この辺の話がけっこうクローズアップされるように感じますよね。

忠輝は伊勢朝熊(鳥羽藩)で2年流された後、飛騨高山(高山藩)に移され8年をそこで過ごし、そして寛永3年(1626年)に諏訪高島城に移されました。25歳で改易され、35歳のときに諏訪高島城南之丸に移り、その後58年の余生を諏訪でおくり天和3年(1683年)7月3日に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終えました。

92歳という長寿だったことから、それなりの遇され方だったのではないかと思いますが、諏訪の冬の厳しさは老齢の身にこたえたでしょう。失意のうちにこの長き時間を過ごしたのか、それともいつか赦免される日が来ることを願って待っていたのか・・・。いずれにせよ、とても長い時間だったことでしょう。

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今回の高島城は、数奇な運命をたどった松平忠輝に思いを馳せながらの訪問でした。



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長寿の象徴でもある亀さん。




さて、高島城を訪れた後は・・・

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水陸両用バスで見かけた造り酒屋さんに寄ってみたりとか・・・。バイクじゃなかったら試飲したかったんですけど。(笑)



道を間違えて偶然見つけた上原城跡に行ってみたりとか・・・

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諏訪に来たのなら当然、諏訪大社上社本宮にも行きました。

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もちろん、信州といえば蕎麦ですよね。

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手打ちだけれども細めんでつゆがよくからんで美味しかったです。でも、もうちょっと食べたかったかな・・・。(笑)




いや~よく遊んだ一日でした。言うことなし~。

でも、帰ろうとすると・・・

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夕立にあいました。 レインウエア持って来てないし・・・。TT




帰りはすっかり夜になりました。

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わかりますかね~・・・

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長島スパーランドです。(笑)



では、また。



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