日本最古の現存天守 越前丸岡城 【福井県坂井市丸岡町 丸岡城】 [日記]
とても寒い日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
自分はというと、あまりの寒さと天候不順によりお出かけ出来ていません。TT
まあ、要するにブログネタがありません。(笑)
なので今回も昨年の10月の思い出に浸ってみようかと思います。^^
2011年10月16日・・・
ふと思い立って福井県の丸岡城に行こうと思い、北陸自動車道を北上・・・
北鯖江サービスエリアでコーヒータイム・・・
サービスエリアを歩いていたらこんなもの発見!
鉄棒~! へ~サービスエリアに鉄棒なんてあるんだ~。 これはどうみても大人用ですね。^^
鉄棒なんていつ以来だろう・・・
嬉しくなってついぶら下がってみました。^^
なんてことしてる場合じゃない・・・(笑)
丸岡城めざしてGo!
北陸自動車道の丸岡I.Cで高速道路を降りて2kmぐらいでしょうか・・・
福井県坂井市の越前丸岡城に到着~。
案内板で丸岡城の往時のお姿を確認~。^^
丸岡城は柴田勝家の甥の柴田勝豊が天正4年(1576年)に築城したお城です。現存天守では日本最古だと書かれていますね。^^
それでは、天守閣めざしてGo!
丸岡城天守閣までは少し登るだけなので、すごく楽ですね。^^
ちょっと曇り空なのは残念ですが、現存天守はやっぱりいいなあ。^^
日本最古の現存天守ですが、実はこの天守は昭和23年(1948年)に福井地震のために倒壊してしまったのです。
で、昭和30年(1955年)に倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直して修復されたそうです。
丸岡城天守閣の特徴は入り口まで真っ直ぐに伸びたこの石の階段ではないでしょうか。
階段の上から城内を眺めてみた。。。
石垣が高いので眺めが最高!^^
天守閣の内部はこんな感じです。
この木の質感がいいですね。歴史を感じます。^^
う~ん、狭間(さま)もさまになっています。 鉄筋コンクリートの天守閣だとこうはいきませんね。^^
上に登ってみます・・・
現存天守にもれなく付いてくる、おなじみの急階段!(笑)
最上階からの眺めです。^^
鬼瓦が下の方にちょこっと見えていますが、わかりますでしょうか、この鬼瓦は石で出来ているんです。
寒冷地のため丸岡城の瓦は福井市内で採れる笏谷(しゃくたに)石と呼ばれる石を加工した石瓦で葺かれています。普通の瓦だとあまりの寒さのために割れてしまうのでしょうか。
天守閣から前の広場へ・・・。
天守閣前には「人柱お静」の慰霊碑がありました。
ひどい話です。貧しさのあまり息子を侍にしてもらうために人柱となったのに、その約束が守られないなんて・・・
丸岡城を築いた柴田勝豊は柴田勝家の甥ですが、本能寺の変の後の清洲会議で長浜城が柴田勝家のものとなったために、柴田勝豊は長浜城に移されます。
ところが柴田勝豊は羽柴秀吉に寝返ってしまうのです。勝豊は柴田勝家と不仲だったともいわれていますが・・・。
柴田勝家と羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで激突しますが、その前に勝豊は病となっていて柴田勝家が北ノ庄城で滅ぶ8日前に亡くなってしまうのです。享年28歳・・・
柴田勝豊が丸岡城から長浜城へ移ってから病となり亡くなるまで一年・・・ これもお静の無念さがそうさせたのでしょうか・・・
天守閣を下から見上げてみた。
『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』
日本一短い手紙として有名ですね~。^^
この手紙を書いたのは「本多重次」という徳川家康の家臣だった人で、長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙だそうです。この手紙の「お仙」というのは本多重次の嫡男「仙千代」のことで、後に越前丸岡藩の初代藩主となった「本多成重」なのです。^^
というわけで・・・
お城ソフトは「お仙ソフト」を選びました。 「お静ソフト」を食べる勇気はありません。(笑)
ウマ~。 自分はアイスクリームとあんこの組み合わせって大好きなのです。 本当に美味しい~。
というわけで、越前丸岡城はこの辺で・・・。 次回はこの後に訪れた三国編へと続きます。^^
自分はというと、あまりの寒さと天候不順によりお出かけ出来ていません。TT
まあ、要するにブログネタがありません。(笑)
なので今回も昨年の10月の思い出に浸ってみようかと思います。^^
2011年10月16日・・・
ふと思い立って福井県の丸岡城に行こうと思い、北陸自動車道を北上・・・
北鯖江サービスエリアでコーヒータイム・・・
サービスエリアを歩いていたらこんなもの発見!
鉄棒~! へ~サービスエリアに鉄棒なんてあるんだ~。 これはどうみても大人用ですね。^^
鉄棒なんていつ以来だろう・・・
嬉しくなってついぶら下がってみました。^^
なんてことしてる場合じゃない・・・(笑)
丸岡城めざしてGo!
北陸自動車道の丸岡I.Cで高速道路を降りて2kmぐらいでしょうか・・・
福井県坂井市の越前丸岡城に到着~。
案内板で丸岡城の往時のお姿を確認~。^^
丸岡城は柴田勝家の甥の柴田勝豊が天正4年(1576年)に築城したお城です。現存天守では日本最古だと書かれていますね。^^
それでは、天守閣めざしてGo!
丸岡城天守閣までは少し登るだけなので、すごく楽ですね。^^
ちょっと曇り空なのは残念ですが、現存天守はやっぱりいいなあ。^^
日本最古の現存天守ですが、実はこの天守は昭和23年(1948年)に福井地震のために倒壊してしまったのです。
で、昭和30年(1955年)に倒壊した天守は倒壊材を元の通り組み直して修復されたそうです。
丸岡城天守閣の特徴は入り口まで真っ直ぐに伸びたこの石の階段ではないでしょうか。
階段の上から城内を眺めてみた。。。
石垣が高いので眺めが最高!^^
天守閣の内部はこんな感じです。
この木の質感がいいですね。歴史を感じます。^^
う~ん、狭間(さま)もさまになっています。 鉄筋コンクリートの天守閣だとこうはいきませんね。^^
上に登ってみます・・・
現存天守にもれなく付いてくる、おなじみの急階段!(笑)
最上階からの眺めです。^^
鬼瓦が下の方にちょこっと見えていますが、わかりますでしょうか、この鬼瓦は石で出来ているんです。
寒冷地のため丸岡城の瓦は福井市内で採れる笏谷(しゃくたに)石と呼ばれる石を加工した石瓦で葺かれています。普通の瓦だとあまりの寒さのために割れてしまうのでしょうか。
天守閣から前の広場へ・・・。
天守閣前には「人柱お静」の慰霊碑がありました。
ひどい話です。貧しさのあまり息子を侍にしてもらうために人柱となったのに、その約束が守られないなんて・・・
丸岡城を築いた柴田勝豊は柴田勝家の甥ですが、本能寺の変の後の清洲会議で長浜城が柴田勝家のものとなったために、柴田勝豊は長浜城に移されます。
ところが柴田勝豊は羽柴秀吉に寝返ってしまうのです。勝豊は柴田勝家と不仲だったともいわれていますが・・・。
柴田勝家と羽柴秀吉は賤ヶ岳の戦いで激突しますが、その前に勝豊は病となっていて柴田勝家が北ノ庄城で滅ぶ8日前に亡くなってしまうのです。享年28歳・・・
柴田勝豊が丸岡城から長浜城へ移ってから病となり亡くなるまで一年・・・ これもお静の無念さがそうさせたのでしょうか・・・
天守閣を下から見上げてみた。
『一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ』
日本一短い手紙として有名ですね~。^^
この手紙を書いたのは「本多重次」という徳川家康の家臣だった人で、長篠の戦いの陣中から妻にあてて書いた手紙だそうです。この手紙の「お仙」というのは本多重次の嫡男「仙千代」のことで、後に越前丸岡藩の初代藩主となった「本多成重」なのです。^^
というわけで・・・
お城ソフトは「お仙ソフト」を選びました。 「お静ソフト」を食べる勇気はありません。(笑)
ウマ~。 自分はアイスクリームとあんこの組み合わせって大好きなのです。 本当に美味しい~。
というわけで、越前丸岡城はこの辺で・・・。 次回はこの後に訪れた三国編へと続きます。^^
戦国時代を変えた鉄砲の里 天領・国友 【滋賀県長浜市 国友】 [日記]
ここは滋賀県の長浜・・・
穏やかで優しい琵琶湖が迎えてくれます。 まあ、昨年の10月のお話ですが・・・。^^
そして長浜城へ・・・
長浜城の天守閣は歴史博物館となっていて、長浜城歴史博物館へは企画展を見によく行っています。
今回はこれ・・・
『関ヶ原合戦と石田三成』
とっても興味があったので来てみました。^^
もちろん写真はありませんが、三成直筆の書状や三成と関係の深かった真田昌幸の甲冑などが展示されていました。^^
天守閣最上階からの眺めです。こんなに綺麗な琵琶湖を見ることが出来て嬉しいデス・・・。^^
さてさて長浜城を後にして、郊外にある国友町にやって来ました。長浜城から5kmぐらいの距離ですね。^^
【国友鉄砲の里資料館】
天文12年(1543年)種子島に嵐のため漂着した中国船に乗っていたポルトガル人から初めて日本に2挺の鉄砲が伝えられました。
そのもたらされた鉄砲をもとに国産の火縄銃が作られ、その製造技術は紀州の根来や堺に伝えられました。
そして鉄砲が伝播したもう一つのルートがありました。種子島にもたらされたポルトガルの鉄砲は薩摩の島津氏を通じて将軍足利義晴に献上されたようです。そしてここ近江の国友村でも将軍の命によって鉄砲の製作が始まった・・・。
国友鉄砲鍛冶は信長・秀吉・家康に厚く保護され、国友村は江戸期には天領となりわが国最大の鉄砲生産地として栄えたそうです。
そんな歴史のある国友の町を歩いてみます。
こうして歩いてみると昔の町の雰囲気が伝わってきます。
町のあちこちで屋敷の前に立っている石碑を見ることができますが、現在のお屋敷には国友鍛冶の子孫の方たちが実際に住んでいらっしゃいます。
静かな国友の町がほかの町と違うのは・・・
町の中に普通に鉄砲火薬店があること。 そして創業四百有余年ってすごいですよね。^^
町の中にある日吉神社へ・・・
それほど大きくはありませんが、とても趣のある神社ですね。
お祭りだったみたいです・・・。
後片付けしてました。^^
かつて司馬遼太郎もこの地を訪れたようです。
「国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並はさすがにりっぱでどの家も伊吹山の霧で洗いつづけているように清らかである。」 司馬遼太郎 著 『街道をゆく』より
国友一貫斎屋敷です。
『東洋のエジソン』と称されるほど発明や発見をした人みたいですね。天体反射望遠鏡も作ったそうです。
国友一貫斎屋敷の前には・・・
『星を見つめる少年』
そしてお屋敷の脇のベンチには・・・
『夢見るナナちゃん』
思わずこの夢見る少女に心奪われてしまいました・・・。^^
夢って生きる力や希望を与えてくれるもの・・・
夢を見るのもいいかな・・・ ^^
穏やかで優しい琵琶湖が迎えてくれます。 まあ、昨年の10月のお話ですが・・・。^^
そして長浜城へ・・・
長浜城の天守閣は歴史博物館となっていて、長浜城歴史博物館へは企画展を見によく行っています。
今回はこれ・・・
『関ヶ原合戦と石田三成』
とっても興味があったので来てみました。^^
もちろん写真はありませんが、三成直筆の書状や三成と関係の深かった真田昌幸の甲冑などが展示されていました。^^
天守閣最上階からの眺めです。こんなに綺麗な琵琶湖を見ることが出来て嬉しいデス・・・。^^
さてさて長浜城を後にして、郊外にある国友町にやって来ました。長浜城から5kmぐらいの距離ですね。^^
【国友鉄砲の里資料館】
天文12年(1543年)種子島に嵐のため漂着した中国船に乗っていたポルトガル人から初めて日本に2挺の鉄砲が伝えられました。
そのもたらされた鉄砲をもとに国産の火縄銃が作られ、その製造技術は紀州の根来や堺に伝えられました。
そして鉄砲が伝播したもう一つのルートがありました。種子島にもたらされたポルトガルの鉄砲は薩摩の島津氏を通じて将軍足利義晴に献上されたようです。そしてここ近江の国友村でも将軍の命によって鉄砲の製作が始まった・・・。
国友鉄砲鍛冶は信長・秀吉・家康に厚く保護され、国友村は江戸期には天領となりわが国最大の鉄砲生産地として栄えたそうです。
そんな歴史のある国友の町を歩いてみます。
こうして歩いてみると昔の町の雰囲気が伝わってきます。
町のあちこちで屋敷の前に立っている石碑を見ることができますが、現在のお屋敷には国友鍛冶の子孫の方たちが実際に住んでいらっしゃいます。
静かな国友の町がほかの町と違うのは・・・
町の中に普通に鉄砲火薬店があること。 そして創業四百有余年ってすごいですよね。^^
町の中にある日吉神社へ・・・
それほど大きくはありませんが、とても趣のある神社ですね。
お祭りだったみたいです・・・。
後片付けしてました。^^
かつて司馬遼太郎もこの地を訪れたようです。
「国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並はさすがにりっぱでどの家も伊吹山の霧で洗いつづけているように清らかである。」 司馬遼太郎 著 『街道をゆく』より
国友一貫斎屋敷です。
『東洋のエジソン』と称されるほど発明や発見をした人みたいですね。天体反射望遠鏡も作ったそうです。
国友一貫斎屋敷の前には・・・
『星を見つめる少年』
そしてお屋敷の脇のベンチには・・・
『夢見るナナちゃん』
思わずこの夢見る少女に心奪われてしまいました・・・。^^
夢って生きる力や希望を与えてくれるもの・・・
夢を見るのもいいかな・・・ ^^