治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城 【滋賀県彦根市 佐和山城跡】 [日記]
今回は前回の続きですね。 この日は11/25です。
関ヶ原から石田三成の居城だった佐和山城跡に来てみました。^^
佐和山城へ登るには3つのルートがあって、かつての大手口にあたる国道8号線方面からのルートと、佐和山の裏から登る、長短2つのハイキングコースがあります。
今回は一般的な龍潭寺(りょうたんじ)からの、短い方のハイキングコースから登ります。^^
龍潭寺への入り口はとっても綺麗に色付いていましたよ。^^
ハイキングコースの入り口近くには佐和山観音さまが立っておられました。
石田三成群霊供養とあります。
【佐和山城の戦い】 Wikiより
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
関ヶ原から佐和山城までは30kmぐらいの距離なので、関ヶ原の戦いの後、3日後には佐和山城へ大軍が押し寄せてきました。この佐和山城の戦いでも裏切りがあったとは、なんだか悲しくなっちゃいますね・・・。
龍潭寺の山門です。
佐和山城へは龍潭寺の境内を通ります。^^
龍潭寺は関ヶ原の戦い後に井伊直政が佐和山城主となった時に、遠州国から移された井伊家とゆかりのあるお寺です。 また、「だるま寺」 「庭の寺」として有名です。
ちょっと龍潭寺に寄り道~。^^
襖絵が素晴しいです。
そしてこちらは・・・
【ふだらくの庭】
だるま寺の・・・
だるま~ ^^
「蓬莱庭園」のほうへ・・・
【蓬莱庭園】
それでは、龍潭寺から佐和山城跡へ登りましょう。^^
長い方のハイキングコースとの合流点ですね。
実は、佐和山は先ほど通ってきた龍潭寺の隣にある清凉寺(せいりょうじ)の境内地なのです。
団体でなければ届けなくても登れます。清凉寺は井伊家が創建したお寺なので、当然といえば当然なのかも・・・ ^^
さあ、本丸目指して登りましょう~
西の丸跡
さらに、登って・・・
本丸跡が見えてきました。
そして本丸跡に到着~。^^
《 クリックすると大きくなるよ 》
ここは標高232mの佐和山の山頂です。かつてはここに5層の天守閣がそびえていたのですね。^^
紅葉がとっても綺麗です。
なんといってもここからの眺めが素晴しいです。^^
彦根駅方面ですね。
そして、こちらは・・・
彦根城と琵琶湖方面ですね。 琵琶湖が幻想的です。^^
国宝 彦根城・・・
国宝 彦根城を見下ろす感じ・・・ この光景を三成さんに見せてあげたいですね・・・ ^^
現在の彦根城はたくさんの観光客で賑わっています。あのひこにゃんもいますからね~。^^
彦根城と佐和山城・・・ 勝者と敗者・・・
自分にとってこの勝者と敗者の歴史が、彦根という街をより魅力的にしているように感じられます。
関ヶ原の戦いの後、この地に封ぜられた井伊氏は佐和山城に入りましたが、天下普請で彦根城を築城しそちらへ移りました。佐和山城は彦根城へ移築されたもの以外は徹底的に破壊されたため、城跡にはほとんど何も残っていません。
それでも、わずかばかりの石垣があるみたいなので、見に行きましょう~。
あった~。これはまぎれもなく本丸の石垣ですね。本当にわずかな石垣ですが、なんだか嬉しくなりました。^^
さてと・・・ 戻りますか・・・
琵琶湖・・・綺麗だな・・・。 来てよかったな・・・。^^
登ってきた道を下って麓まで・・・
静寂の中のこのお方こそ・・・
【石田三成公像】
もしも関ヶ原の合戦で西軍が東軍に勝っていたら、その後はどんな世になっていたのだろうかと思わずにはいられません。でも関ヶ原の勝敗は必然だったような気がします。
石田三成の始まりは秀吉との出会いからでしたね。三成にとって秀吉は日輪の光だったに違いありません。
そして、三成はその影・・・ でも日輪が光を失うと影は・・・ ただ消えていくだけですね・・・
さて、龍潭寺のお隣、佐和山の持ち主の清凉寺へ行ってみます。^^
ここは観光寺ではありませんので、中には入れませんが、とっても落ち着いた雰囲気のお寺です。
清凉寺は関ヶ原を戦った徳川四天王の一人 井伊直政の死後、井伊家が直政の墓所を設け創建したお寺です。
ただ、この場所はかつて石田三成の重臣である島 左近の屋敷跡なのです。その屋敷跡に井伊家の菩提寺が建っているなんて、豊臣の世から徳川の世へ・・・ 時代の移り変わりを感じます。
さて、清凉寺のチョイ先にある佐和山城の天守閣を見に行きましょうか~。^^
といっても小さな天守閣です。(笑)
これは・・・
『佐和山一夜城』といって、彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業として造られた天守閣です。
歴史的資料をもとに造られたとのことですので、当時の天守閣もこんな感じだったのでしょう。
なんとこの天守閣は石造りだそうです。スゴイですね。^^
こんな壮大な5層の天守閣があの佐和山の上にあったなんて、どんな感じだったのでしょうか・・・
う~ん、見てみたいな。^^
というわけで、乗っけてみた。。。(笑)
石田三成の佐和山城、いかがでしょうか・・・(笑)
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
今はほとんど何も残っていないけれど、かつて三成と左近がいた5層の天守閣の佐和山城が確かにそこにありました。
それは武士(もののふ)たちの一世の夢・・・だったのでしょうか・・・
関ヶ原から石田三成の居城だった佐和山城跡に来てみました。^^
佐和山城へ登るには3つのルートがあって、かつての大手口にあたる国道8号線方面からのルートと、佐和山の裏から登る、長短2つのハイキングコースがあります。
今回は一般的な龍潭寺(りょうたんじ)からの、短い方のハイキングコースから登ります。^^
龍潭寺への入り口はとっても綺麗に色付いていましたよ。^^
ハイキングコースの入り口近くには佐和山観音さまが立っておられました。
石田三成群霊供養とあります。
【佐和山城の戦い】 Wikiより
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
関ヶ原から佐和山城までは30kmぐらいの距離なので、関ヶ原の戦いの後、3日後には佐和山城へ大軍が押し寄せてきました。この佐和山城の戦いでも裏切りがあったとは、なんだか悲しくなっちゃいますね・・・。
龍潭寺の山門です。
佐和山城へは龍潭寺の境内を通ります。^^
龍潭寺は関ヶ原の戦い後に井伊直政が佐和山城主となった時に、遠州国から移された井伊家とゆかりのあるお寺です。 また、「だるま寺」 「庭の寺」として有名です。
ちょっと龍潭寺に寄り道~。^^
襖絵が素晴しいです。
そしてこちらは・・・
【ふだらくの庭】
だるま寺の・・・
だるま~ ^^
「蓬莱庭園」のほうへ・・・
【蓬莱庭園】
それでは、龍潭寺から佐和山城跡へ登りましょう。^^
長い方のハイキングコースとの合流点ですね。
実は、佐和山は先ほど通ってきた龍潭寺の隣にある清凉寺(せいりょうじ)の境内地なのです。
団体でなければ届けなくても登れます。清凉寺は井伊家が創建したお寺なので、当然といえば当然なのかも・・・ ^^
さあ、本丸目指して登りましょう~
西の丸跡
さらに、登って・・・
本丸跡が見えてきました。
そして本丸跡に到着~。^^
《 クリックすると大きくなるよ 》
ここは標高232mの佐和山の山頂です。かつてはここに5層の天守閣がそびえていたのですね。^^
紅葉がとっても綺麗です。
なんといってもここからの眺めが素晴しいです。^^
彦根駅方面ですね。
そして、こちらは・・・
彦根城と琵琶湖方面ですね。 琵琶湖が幻想的です。^^
国宝 彦根城・・・
国宝 彦根城を見下ろす感じ・・・ この光景を三成さんに見せてあげたいですね・・・ ^^
現在の彦根城はたくさんの観光客で賑わっています。あのひこにゃんもいますからね~。^^
彦根城と佐和山城・・・ 勝者と敗者・・・
自分にとってこの勝者と敗者の歴史が、彦根という街をより魅力的にしているように感じられます。
関ヶ原の戦いの後、この地に封ぜられた井伊氏は佐和山城に入りましたが、天下普請で彦根城を築城しそちらへ移りました。佐和山城は彦根城へ移築されたもの以外は徹底的に破壊されたため、城跡にはほとんど何も残っていません。
それでも、わずかばかりの石垣があるみたいなので、見に行きましょう~。
あった~。これはまぎれもなく本丸の石垣ですね。本当にわずかな石垣ですが、なんだか嬉しくなりました。^^
さてと・・・ 戻りますか・・・
琵琶湖・・・綺麗だな・・・。 来てよかったな・・・。^^
登ってきた道を下って麓まで・・・
静寂の中のこのお方こそ・・・
【石田三成公像】
もしも関ヶ原の合戦で西軍が東軍に勝っていたら、その後はどんな世になっていたのだろうかと思わずにはいられません。でも関ヶ原の勝敗は必然だったような気がします。
石田三成の始まりは秀吉との出会いからでしたね。三成にとって秀吉は日輪の光だったに違いありません。
そして、三成はその影・・・ でも日輪が光を失うと影は・・・ ただ消えていくだけですね・・・
さて、龍潭寺のお隣、佐和山の持ち主の清凉寺へ行ってみます。^^
ここは観光寺ではありませんので、中には入れませんが、とっても落ち着いた雰囲気のお寺です。
清凉寺は関ヶ原を戦った徳川四天王の一人 井伊直政の死後、井伊家が直政の墓所を設け創建したお寺です。
ただ、この場所はかつて石田三成の重臣である島 左近の屋敷跡なのです。その屋敷跡に井伊家の菩提寺が建っているなんて、豊臣の世から徳川の世へ・・・ 時代の移り変わりを感じます。
さて、清凉寺のチョイ先にある佐和山城の天守閣を見に行きましょうか~。^^
といっても小さな天守閣です。(笑)
これは・・・
『佐和山一夜城』といって、彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業として造られた天守閣です。
歴史的資料をもとに造られたとのことですので、当時の天守閣もこんな感じだったのでしょう。
なんとこの天守閣は石造りだそうです。スゴイですね。^^
こんな壮大な5層の天守閣があの佐和山の上にあったなんて、どんな感じだったのでしょうか・・・
う~ん、見てみたいな。^^
というわけで、乗っけてみた。。。(笑)
石田三成の佐和山城、いかがでしょうか・・・(笑)
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
今はほとんど何も残っていないけれど、かつて三成と左近がいた5層の天守閣の佐和山城が確かにそこにありました。
それは武士(もののふ)たちの一世の夢・・・だったのでしょうか・・・
晩秋の関ヶ原に行ってみた。。。 【岐阜県関ヶ原町】 [日記]
晩秋の関ヶ原に行ってみました。。。 この日は11月25日デス。^^
ここは石田三成の本陣があった笹尾山です。
紅葉が綺麗ですね・・・
空も青いし・・・ ^^
慶長5年(1600年)9月15日(現在の10月21日)早朝、石田三成は徳川家康との決戦地を関ヶ原とし、ここ笹尾山に本陣を置きました・・・。
笹尾山の石田三成陣地跡へ・・・
小早川秀秋の裏切りをきっかけに、西軍は崩れ三成は敗退しました・・・ 三成無念・・・
秋の関ヶ原は初めてかな・・・ 笹尾山の麓の紅葉がとっても綺麗なんですよね~ 来てよかった~ ^^
関ヶ原決戦地が見えるね。^^
よし、あそこへ行ってみよう。
綺麗ですね~。^^
決戦地を目指してテクテクと・・・
かつての激戦地、今は長閑な畑になっています。^^
振り返ると・・・
廃校になった小学校の校庭から笹尾山の三成の陣が見えます。^^
【関ヶ原古戦場 決戦地】
この決戦地は関ヶ原の戦の勝敗が決まったと伝えられている場所です。笹尾山の上の三成の本陣から500mぐらいで、笹尾山の麓からでは250mほどの三成の本陣に近いところです。
秋の風情がいいですね~。^^
それでは関ヶ原を後にして・・・
KSRは石田三成の本拠だった滋賀県彦根市にある左和山城跡へ・・・
つづく・・・
ここは石田三成の本陣があった笹尾山です。
紅葉が綺麗ですね・・・
空も青いし・・・ ^^
慶長5年(1600年)9月15日(現在の10月21日)早朝、石田三成は徳川家康との決戦地を関ヶ原とし、ここ笹尾山に本陣を置きました・・・。
笹尾山の石田三成陣地跡へ・・・
小早川秀秋の裏切りをきっかけに、西軍は崩れ三成は敗退しました・・・ 三成無念・・・
秋の関ヶ原は初めてかな・・・ 笹尾山の麓の紅葉がとっても綺麗なんですよね~ 来てよかった~ ^^
関ヶ原決戦地が見えるね。^^
よし、あそこへ行ってみよう。
綺麗ですね~。^^
決戦地を目指してテクテクと・・・
かつての激戦地、今は長閑な畑になっています。^^
振り返ると・・・
廃校になった小学校の校庭から笹尾山の三成の陣が見えます。^^
【関ヶ原古戦場 決戦地】
この決戦地は関ヶ原の戦の勝敗が決まったと伝えられている場所です。笹尾山の上の三成の本陣から500mぐらいで、笹尾山の麓からでは250mほどの三成の本陣に近いところです。
秋の風情がいいですね~。^^
それでは関ヶ原を後にして・・・
KSRは石田三成の本拠だった滋賀県彦根市にある左和山城跡へ・・・
つづく・・・
難攻不落!天下の堅城 若狭国佐柿 『国吉城』 【福井県美浜町佐柿 国吉城跡】 [日記]
今回は10/8のお話ですが、若狭国と越前国の国境に近い、福井県三浜町佐柿にある国吉城跡に来ています。^^
あの城山の山頂が国吉城跡ですね。^^
国吉城のある場所はこんな感じデス。
より大きな地図で 若狭国吉城歴史資料館 を表示
山頂の本丸から尾根に沿って曲輪群が連なっている戦国期の山城です。かつて奉行所跡だったところに、「若狭国吉城歴史資料館」があるので行ってみます。
国吉城歴史資料館で国吉城の歴史をお勉強~。^^
国吉城は若狭国の守護大名 武田氏の重臣であった粟屋勝久(あわやかつひさ)が、若狭と越前国境にあって若狭国の東端を守る城として、1556年(弘治2年)に古城跡を改修して築城した山城です。
国吉城の幟に「難攻不落」とありますが、なんといっても国吉城の名が天下に轟いたのは、国吉城に押し寄せた越前朝倉氏の軍勢を数年にわたり撃退し続けて、壮絶な籠城戦を展開した永禄6年(1563年)からの『国吉籠城戦』でしょう。^^
それでは難航不落の「国吉城」に登ってみましょう。^^
国吉城は山上の山城部と麓の城主居館部で構成されています。城主や家臣は、平時は山麓で生活していますが、いざ戦となれば山上の山城に籠もりました。戦国期の山城の典型ですね。^^
麓の城主居館跡です。
谷間に段々状の平地が幾重もあり、土塁や石垣が残されています。
では、本丸に向けて登りますか~。^^
ちょっと振り返るとこんな感じです。
おっと、こんなものが・・・
流石、難攻不落のお城ですね。現在でも守りが堅いです。(笑)
野生動物が人里に下りてこないようにしてるのでしょうね。
再び登っていきます・・・
それにしても急斜面ですね。^^
国吉城は弘治2年(1556年)に粟屋勝久が南北朝期に築かれた古城跡を利用して築城した山城です。
粟屋氏は若狭国守護職の若狭武田氏に仕えていました。若狭武田氏は清和源氏に連なる甲斐武田氏や安芸武田氏と同族です。
弘治2年(1556年)に若狭武田氏の家督争いの内紛が勃発し、その結果、若狭武田氏の家臣団の多くは主家から離れていったそうです。
弱体化した若狭武田氏は、若狭国を手に入れたい越前朝倉氏と結び、永禄6年(1563年)に越前朝倉氏は若狭国に侵攻してきます。越前朝倉勢は若狭国東方を守る国吉城に迫った・・・。こうして国吉籠城戦の火蓋が切られたのです。
永禄6年(1563年)から永禄11年(1568年)にかけて毎年のように朝倉勢が攻め寄せてきて、その都度堅固な国吉城に籠城し、時には打って出る変幻自在の戦いをして、朝倉勢を撃退し続けたそうです。
つづら折れの山道を登っていきます・・・
つづら折れの山道は図の赤丸の部分ですね。
険しい斜面で、木々が生い茂っています。これでは弓矢や鉄砲で上方に籠もっている敵は狙えませんね。^^
さらに登っていくと・・・
それでは、伝 二ノ丸跡へ行ってみましょうか。
伝 二ノ丸跡は赤丸のところです。
ほほっ・・・
高土塁が素晴しいです。
そしてこれは・・・
郭内を区画するように喰い違いに配置された土塁で、虎口のようですね。
出丸跡です。^^
さらに登って山上部へ行ってみます。
このあたりですね。^^
素晴しい眺めです。 西の丹後街道ですね。
発掘作業が行なわれているようです。
これは素晴しいです。 廃城後数百年たった石垣がどんな感じで埋もれていくのがよくわかりますね。^^
山上部は本丸から北西方面に下る尾根に沿って、5つの曲輪群が段々と連続的に配置された縄張りになっています。
ここは本丸に一番近い曲輪です。 下の方に次の曲輪も見えるのですが、切り立っていて容易に下りることはできません。
曲輪からの眺め~
素晴しい~ ^^
それでは堀切から本丸へ・・・
堀切は今では土砂に埋もれて浅くなっていますが、当時は深くて橋が架かっていたようです。
国吉城本丸跡に到着しました~。 ついでに城山標高197.28m登頂成功~。^^
「國吉城址」と刻まれた大正時代に建てられた石碑があります。
《 クリックすると大きくなるよ 》
《 クリックすると大きくなるよ 》
「國吉城址」の石碑の近くに石仏が集められています。
これは国吉城籠城戦の時、上から下の敵に向かって投げつけるため、近隣から集められたものの一部だそうです。^^
廃城後数百年経って、本丸跡の周りは木々で覆われていますが、それでも木々の合間から見える眺望は素晴しい・・・
1570年(元亀元年)4月、越前朝倉氏攻めのため、大軍とともに佐柿の国吉城に入った織田信長は、城主 粟屋勝久に対して、長年朝倉勢を相手に戦った粟屋勝久の武勲を大いに褒め称えたといわれています。^^
そして信長は、この本丸に登り、四方を見渡して国吉城の立地の素晴しさを賞賛したそうです。
織田信長が見た景色を、こうして数百年後に見ることができて感動ですね~。^^
信長は国吉城に2日間滞在し、越前朝倉氏攻めの軍議を行なった。そして朝倉領の敦賀に攻め入った信長軍は瞬く間に天筒山城を攻め落とし、金ヶ崎城を降伏させた。 勢いにのった信長軍は、軍勢を整えて木ノ芽峠に向かおうをしたその時に、浅井長政裏切りの報がもたらされた・・・
そうです、浅井長政に嫁いだ妹のお市から、袋の両端が結ばれた小豆袋が届けられたという・・・ これが事実かどうかはわかりませんが、とにかく信長は急ぎ撤退することを決断しました。
木下藤吉郎秀吉がしんがりをつとめて名を上げた、あの「金ヶ崎の退き口」ですね。^^
実際は秀吉だけでなく、池田勝正、明智光秀、徳川家康など幾つかの隊がその役を担ったみたいです。
朝倉勢も深追いはしなかったようで、国吉城手前の美浜の今市浜までで引き上げたとみられています。
なので、国吉城は撤退戦の戦場にはならなかったみたいですね。朝倉勢にしてみれば難攻不落の国吉城がそこにあるという心理的プレッシャーがあったのかもしれませんね。^^
と、考えてみると、朝倉氏は信長を討つ絶好の機会を失い、秀吉は「金ヶ崎の退き口」で名を上げて織田家中で一目置かれるようになった・・・ 国吉城の存在はその後の歴史に大きな影響を与えたお城なんですね。^^
国吉城本丸跡から降りてきました~ ^^
本丸跡から見た美しい若狭湾の浜へ行ってみましょう~。^^
若狭湾の浜辺は本当に美しいです。
ここは福井県の特産品などを売っている千鳥苑の駐車場なのですが、ここの風景が大好きでこの辺りを通るときは必ずここで若狭の海を見て行きます。^^
千鳥苑の隣には地ビール工場が併設されてて、中を覗くことができます。
せっかく若狭の海に来ていますので、美味しい海の幸でも食べて帰りましょう。^^
『さしみ丼』にしました~。
シンプルなカニ汁ですが、カニの出汁がよく出てて、美味しい~。^^
さしみ丼も溶いたわさび醤油をかけるだけですが、玉子の黄身とよく合っていてメチャウマです。 ^^
難攻不落の若狭『国吉城』は、美しい若狭の海を守るにふさわしい天下の堅城でした。^^
あの城山の山頂が国吉城跡ですね。^^
国吉城のある場所はこんな感じデス。
より大きな地図で 若狭国吉城歴史資料館 を表示
山頂の本丸から尾根に沿って曲輪群が連なっている戦国期の山城です。かつて奉行所跡だったところに、「若狭国吉城歴史資料館」があるので行ってみます。
国吉城歴史資料館で国吉城の歴史をお勉強~。^^
国吉城は若狭国の守護大名 武田氏の重臣であった粟屋勝久(あわやかつひさ)が、若狭と越前国境にあって若狭国の東端を守る城として、1556年(弘治2年)に古城跡を改修して築城した山城です。
国吉城の幟に「難攻不落」とありますが、なんといっても国吉城の名が天下に轟いたのは、国吉城に押し寄せた越前朝倉氏の軍勢を数年にわたり撃退し続けて、壮絶な籠城戦を展開した永禄6年(1563年)からの『国吉籠城戦』でしょう。^^
それでは難航不落の「国吉城」に登ってみましょう。^^
国吉城は山上の山城部と麓の城主居館部で構成されています。城主や家臣は、平時は山麓で生活していますが、いざ戦となれば山上の山城に籠もりました。戦国期の山城の典型ですね。^^
麓の城主居館跡です。
谷間に段々状の平地が幾重もあり、土塁や石垣が残されています。
では、本丸に向けて登りますか~。^^
ちょっと振り返るとこんな感じです。
おっと、こんなものが・・・
流石、難攻不落のお城ですね。現在でも守りが堅いです。(笑)
野生動物が人里に下りてこないようにしてるのでしょうね。
再び登っていきます・・・
それにしても急斜面ですね。^^
国吉城は弘治2年(1556年)に粟屋勝久が南北朝期に築かれた古城跡を利用して築城した山城です。
粟屋氏は若狭国守護職の若狭武田氏に仕えていました。若狭武田氏は清和源氏に連なる甲斐武田氏や安芸武田氏と同族です。
弘治2年(1556年)に若狭武田氏の家督争いの内紛が勃発し、その結果、若狭武田氏の家臣団の多くは主家から離れていったそうです。
弱体化した若狭武田氏は、若狭国を手に入れたい越前朝倉氏と結び、永禄6年(1563年)に越前朝倉氏は若狭国に侵攻してきます。越前朝倉勢は若狭国東方を守る国吉城に迫った・・・。こうして国吉籠城戦の火蓋が切られたのです。
永禄6年(1563年)から永禄11年(1568年)にかけて毎年のように朝倉勢が攻め寄せてきて、その都度堅固な国吉城に籠城し、時には打って出る変幻自在の戦いをして、朝倉勢を撃退し続けたそうです。
つづら折れの山道を登っていきます・・・
つづら折れの山道は図の赤丸の部分ですね。
険しい斜面で、木々が生い茂っています。これでは弓矢や鉄砲で上方に籠もっている敵は狙えませんね。^^
さらに登っていくと・・・
それでは、伝 二ノ丸跡へ行ってみましょうか。
伝 二ノ丸跡は赤丸のところです。
ほほっ・・・
高土塁が素晴しいです。
そしてこれは・・・
郭内を区画するように喰い違いに配置された土塁で、虎口のようですね。
出丸跡です。^^
さらに登って山上部へ行ってみます。
このあたりですね。^^
素晴しい眺めです。 西の丹後街道ですね。
発掘作業が行なわれているようです。
これは素晴しいです。 廃城後数百年たった石垣がどんな感じで埋もれていくのがよくわかりますね。^^
山上部は本丸から北西方面に下る尾根に沿って、5つの曲輪群が段々と連続的に配置された縄張りになっています。
ここは本丸に一番近い曲輪です。 下の方に次の曲輪も見えるのですが、切り立っていて容易に下りることはできません。
曲輪からの眺め~
素晴しい~ ^^
それでは堀切から本丸へ・・・
堀切は今では土砂に埋もれて浅くなっていますが、当時は深くて橋が架かっていたようです。
国吉城本丸跡に到着しました~。 ついでに城山標高197.28m登頂成功~。^^
「國吉城址」と刻まれた大正時代に建てられた石碑があります。
《 クリックすると大きくなるよ 》
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「國吉城址」の石碑の近くに石仏が集められています。
これは国吉城籠城戦の時、上から下の敵に向かって投げつけるため、近隣から集められたものの一部だそうです。^^
廃城後数百年経って、本丸跡の周りは木々で覆われていますが、それでも木々の合間から見える眺望は素晴しい・・・
1570年(元亀元年)4月、越前朝倉氏攻めのため、大軍とともに佐柿の国吉城に入った織田信長は、城主 粟屋勝久に対して、長年朝倉勢を相手に戦った粟屋勝久の武勲を大いに褒め称えたといわれています。^^
そして信長は、この本丸に登り、四方を見渡して国吉城の立地の素晴しさを賞賛したそうです。
織田信長が見た景色を、こうして数百年後に見ることができて感動ですね~。^^
信長は国吉城に2日間滞在し、越前朝倉氏攻めの軍議を行なった。そして朝倉領の敦賀に攻め入った信長軍は瞬く間に天筒山城を攻め落とし、金ヶ崎城を降伏させた。 勢いにのった信長軍は、軍勢を整えて木ノ芽峠に向かおうをしたその時に、浅井長政裏切りの報がもたらされた・・・
そうです、浅井長政に嫁いだ妹のお市から、袋の両端が結ばれた小豆袋が届けられたという・・・ これが事実かどうかはわかりませんが、とにかく信長は急ぎ撤退することを決断しました。
木下藤吉郎秀吉がしんがりをつとめて名を上げた、あの「金ヶ崎の退き口」ですね。^^
実際は秀吉だけでなく、池田勝正、明智光秀、徳川家康など幾つかの隊がその役を担ったみたいです。
朝倉勢も深追いはしなかったようで、国吉城手前の美浜の今市浜までで引き上げたとみられています。
なので、国吉城は撤退戦の戦場にはならなかったみたいですね。朝倉勢にしてみれば難攻不落の国吉城がそこにあるという心理的プレッシャーがあったのかもしれませんね。^^
と、考えてみると、朝倉氏は信長を討つ絶好の機会を失い、秀吉は「金ヶ崎の退き口」で名を上げて織田家中で一目置かれるようになった・・・ 国吉城の存在はその後の歴史に大きな影響を与えたお城なんですね。^^
国吉城本丸跡から降りてきました~ ^^
本丸跡から見た美しい若狭湾の浜へ行ってみましょう~。^^
若狭湾の浜辺は本当に美しいです。
ここは福井県の特産品などを売っている千鳥苑の駐車場なのですが、ここの風景が大好きでこの辺りを通るときは必ずここで若狭の海を見て行きます。^^
千鳥苑の隣には地ビール工場が併設されてて、中を覗くことができます。
せっかく若狭の海に来ていますので、美味しい海の幸でも食べて帰りましょう。^^
『さしみ丼』にしました~。
シンプルなカニ汁ですが、カニの出汁がよく出てて、美味しい~。^^
さしみ丼も溶いたわさび醤油をかけるだけですが、玉子の黄身とよく合っていてメチャウマです。 ^^
難攻不落の若狭『国吉城』は、美しい若狭の海を守るにふさわしい天下の堅城でした。^^