グランドフィナーレ2012 謎の《北緯34度32分》太陽の道 ~終章~ 【奈良県田原本町 多神社】 [謎の《北緯34度32分》太陽の道]
それは昨年の11月『大地に描かれた五芒星の旅』で淡路島を訪れたときのこと・・・
【伊勢久留麻神社】
伊勢久留麻神社の御由緒の中に書かれてあった『知られざる古代~謎の北緯34度32分を行く・・・』の一文を見たときから、この旅は始まりました。
『昭和55年2月11日建国の日にNHKテレビが特別番組として「知られざる古代~謎の北緯34度32分を行く」で西のお伊勢さんとして紹介した・・・』
【NHK特集 知られざる古代 謎の北緯34度32分をゆく】
~大和の三輪山のふもと、箸墓を通る北緯34度32分の線上に、太陽崇拝に関係のある古墳、神社、寺が並ぶ。それは一体何を意味するのか。神島から淡路島まで約200Kを取材。淡路島の石上神社の謎の巨石、伊勢久留麻神社、伊勢斎宮跡など、また、この東西線を古代人がどうして引くことが出来たか?国土地理院の協力で推理し復元する。~
とっても興味深く感じて、今年の旅は『謎の《北緯34度32分》太陽の道』を巡ってみようということで始まりました・・・
より大きな地図で 謎の《北緯34度32分》太陽の道2 を表示
三重県の伊勢湾の入り口に浮かぶ『神島』から、斎宮~室生寺~長谷寺~三輪山~桧原神社~箸墓古墳と巡ってまいりました。
そして今回、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅のグランドフィナーレに選んだのが、Google地図のブルーのマークの部分、奈良県田原本町にある『多神社』(おおじんじゃ)なのです。^^
一路、大和国 奈良県へ・・・
三重県から国道25号線の名阪国道を西へ・・・
そして奈良県天理市で名阪国道を下りてちょっと寄り道~
【彩華ラーメン】 本店
天理ラーメンの元祖『彩華ラーメン』本店です。^^ → 詳しくはコチラ
ラーメンに白菜を乗せるスタイルの発祥で、昭和43年屋台から始まった人気のラーメン店です。
ちょっとピリ辛のしょうゆベーススープで、ニンニクチップ入りのスタミナラーメンです。 白菜たっぷりで美味しい~。^^
冬の寒い季節のツーリングにこの一杯。 身も心も温まります。 何より元気が出るんですよね~。^^
身も心も温まったところで、天理市を南に南下します。
多神社に行く前に、どうしても行ってみたかったところに寄り道デス。^^
【橿原神宮】 奈良県橿原市
Wikiより~
記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)4月2日に官幣大社として創建された。
とにかく広大な神社です。
明治23年に初代天皇の神武天皇の宮があったとされるこの地に創建されました。
今年は紀元2672年なのですね。^^
神武天皇は古事記や日本書紀の日本神話に登場しますが、実在した人物かどうかははっきりとはわかってはいないみたいです。
日本書記によれば、神武天皇は日向国高千穂宮から東征を開始し、河内国から東へ入ろうとしましたが、長髄彦に阻まれて「日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと」これを断念しました。南の熊野から八咫烏に導かれて北上、吉野の険しい山々を越えて大和に入り、大和地方を平定しました。そして、畝傍山の東南の橿原の地を都と定めたそうです。紀元前660年の1月1日(現在の2月21日)に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました。
お正月の準備が進んでいました。来年は巳年なんですね。^^
橿原神宮は明治期に創建された神社です。個人的には神武天皇の畝傍橿原宮は本当にこの場所であってほしいなって思います。
橿原神宮の位置は・・・
北緯34度29分18秒
東経135度47分10秒
東経135度47分・・・ よく覚えていて下さい。^^
橿原神宮の北にある神武天皇陵へも行ってきました。
ここも東経135度47分上にあります。^^
それではいよいよグランドフィナーレ、奈良県田原本町の『多神社』へ行きましょう~。 橿原神宮から北へ6kmぐらい・・・
そして、やって参りました・・・
【多神社(おおじんじゃ)】 『多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)』
《 クリックすると大きくなるよ 》
Wikiより~
当地は多氏の拠点であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられる。 社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。
古くは春日宮と称し、四方に鳥居があったという。太陽信仰の聖地であったのか、方位を配慮した構造になっていた様である。
北緯34度32分08秒 東経135度47分11秒 『謎の《北緯34度32分》太陽の道』 ついにこの地に立つ~。^^
そうです、ここは《北緯34度32分》太陽の道のライン上ですが、《東経135度47分》上でもあるのです。
橿原神宮や神武天皇陵と同じ経度上にあるのです。神武天皇は東征のときに大和へは豪族に阻まれて、南の熊野から八咫烏に導かれて北上し大和に入ったとありました。
【熊野本宮大社】 《以前熊野本宮大社を訪れた時の写真です》
【大斎原】 (おおゆのはら) 《以前熊野本宮大社を訪れた時の写真です》
大斎原は明治期に大洪水によって流される前まで、熊野本宮大社があった場所です。
ここの位置は北緯33度50分4秒 東経135度46分29秒です。
大斎原は東経135度46分ですが、ほぼ橿原神宮や神武天皇陵や多神社と同経度にあるといってもいいでしょう。
そして、もう1ケ所・・・ 奈良市にある平城宮 大極殿・・・
【平城宮 大極殿】 《以前平城宮を訪れた時の写真です》
この大極殿の位置は・・・ 北緯34度41分38秒 東経135度47分39秒なのです。そうです、ここも東経135度47分のライン上にあります。
Google地図で見てみましょう。^^
より大きな地図で 謎の《東経135度47分》星の道 を表示
不思議ですよね~。 見事に一直線上に並んでいます。^^
神武天皇は南の熊野から入って、八咫烏に導かれて北へ・・・。そして大和国を平定して橿原に都を置いた。
そして神武天皇の皇子である神八井耳命が祀られている、《北緯34度32分》太陽の道の『多神社』・・・
~大地に描かれた五芒星~の中心地である平城宮・・・
こうして連なる《東経135度47分》のラインを思うとき、かつて平城宮大極殿で見た一枚のパネルを思い出していました。
” 「大極」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味します。”
神武天皇を導いた『八咫烏』、そしてその子孫たちをより北へと導いたのは『北極星』だったのではないのかと・・・
と、するならば、《東経135度47分》の道は『星の道』なのではないでしょうか。
より大きな地図で 太陽の道・星の道2 を表示
『多神社』は「太陽の道」と「星の道」の交わる場所です。
Wikiの『多神社』には・・・ 『古くは春日宮と称し、四方に鳥居があったという。太陽信仰の聖地であったのか、方位を配慮した構造になっていた様である。』 と、ありました。
かつては四方に鳥居があって、方位を配慮した構造になっていたとありますので、もしかすると古より『多神社』が太陽の道と星の道の交差する場所だとわかっていたのではないかなって気がします・・・
多神社の東へ出てみた・・・
三輪山が見えます。
多神社のある場所から春分の日と秋分の日に、三輪山から昇る日の出を見ることが出来るそうです。
多神社に戻って・・・
多神社の本殿です。 春日造ですね。
祭神は左から、第一社に神武天皇、第二社に神八井耳命、第三社に神沼河耳命、第四社に姫御神です。
このほかに、『古事記』を編纂した太 安萬侶(おおの やすまろ)も祀られているそうです。 当地は多氏の拠点であり、多氏はこの安萬侶の代に姓を「多」から「太」に改めたといわれています。
イメージキャラクターは「まろちゃん」ですね。^^
そしていよいよ、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅のグランドフィナーレです。^^
やった~ 『《北緯34度32分》太陽の道』と『《東経135度47分》星の道』のクロスポイントだ~。
ファイナルミッション 完了! ^^v
あっという間の一年でしたね。感慨深いですね~。^^
そうです、これで今年一年巡ってきた、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅も終わりです。
そして、この旅で3年4ヶ月続けてきた『黒R三兄弟の素敵な冒険』の旅も終わろうと思います。
興味本位のブログで細々と続けてまいりましたが、飽きっぽい性格の自分が、よくもまあ3年4ヶ月も続いたなって思います。
ひとえに皆さまのおかげだと思っております。
本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
来年は皆さまにとりまして素晴しい年でありますように・・・ ^^
【伊勢久留麻神社】
伊勢久留麻神社の御由緒の中に書かれてあった『知られざる古代~謎の北緯34度32分を行く・・・』の一文を見たときから、この旅は始まりました。
『昭和55年2月11日建国の日にNHKテレビが特別番組として「知られざる古代~謎の北緯34度32分を行く」で西のお伊勢さんとして紹介した・・・』
【NHK特集 知られざる古代 謎の北緯34度32分をゆく】
~大和の三輪山のふもと、箸墓を通る北緯34度32分の線上に、太陽崇拝に関係のある古墳、神社、寺が並ぶ。それは一体何を意味するのか。神島から淡路島まで約200Kを取材。淡路島の石上神社の謎の巨石、伊勢久留麻神社、伊勢斎宮跡など、また、この東西線を古代人がどうして引くことが出来たか?国土地理院の協力で推理し復元する。~
とっても興味深く感じて、今年の旅は『謎の《北緯34度32分》太陽の道』を巡ってみようということで始まりました・・・
より大きな地図で 謎の《北緯34度32分》太陽の道2 を表示
三重県の伊勢湾の入り口に浮かぶ『神島』から、斎宮~室生寺~長谷寺~三輪山~桧原神社~箸墓古墳と巡ってまいりました。
そして今回、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅のグランドフィナーレに選んだのが、Google地図のブルーのマークの部分、奈良県田原本町にある『多神社』(おおじんじゃ)なのです。^^
一路、大和国 奈良県へ・・・
三重県から国道25号線の名阪国道を西へ・・・
そして奈良県天理市で名阪国道を下りてちょっと寄り道~
【彩華ラーメン】 本店
天理ラーメンの元祖『彩華ラーメン』本店です。^^ → 詳しくはコチラ
ラーメンに白菜を乗せるスタイルの発祥で、昭和43年屋台から始まった人気のラーメン店です。
ちょっとピリ辛のしょうゆベーススープで、ニンニクチップ入りのスタミナラーメンです。 白菜たっぷりで美味しい~。^^
冬の寒い季節のツーリングにこの一杯。 身も心も温まります。 何より元気が出るんですよね~。^^
身も心も温まったところで、天理市を南に南下します。
多神社に行く前に、どうしても行ってみたかったところに寄り道デス。^^
【橿原神宮】 奈良県橿原市
Wikiより~
記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)4月2日に官幣大社として創建された。
とにかく広大な神社です。
明治23年に初代天皇の神武天皇の宮があったとされるこの地に創建されました。
今年は紀元2672年なのですね。^^
神武天皇は古事記や日本書紀の日本神話に登場しますが、実在した人物かどうかははっきりとはわかってはいないみたいです。
日本書記によれば、神武天皇は日向国高千穂宮から東征を開始し、河内国から東へ入ろうとしましたが、長髄彦に阻まれて「日に向かって(東へ)戦うことは天の意思に逆らうことだと」これを断念しました。南の熊野から八咫烏に導かれて北上、吉野の険しい山々を越えて大和に入り、大和地方を平定しました。そして、畝傍山の東南の橿原の地を都と定めたそうです。紀元前660年の1月1日(現在の2月21日)に橿原宮で即位し、初代の天皇になりました。
お正月の準備が進んでいました。来年は巳年なんですね。^^
橿原神宮は明治期に創建された神社です。個人的には神武天皇の畝傍橿原宮は本当にこの場所であってほしいなって思います。
橿原神宮の位置は・・・
北緯34度29分18秒
東経135度47分10秒
東経135度47分・・・ よく覚えていて下さい。^^
橿原神宮の北にある神武天皇陵へも行ってきました。
ここも東経135度47分上にあります。^^
それではいよいよグランドフィナーレ、奈良県田原本町の『多神社』へ行きましょう~。 橿原神宮から北へ6kmぐらい・・・
そして、やって参りました・・・
【多神社(おおじんじゃ)】 『多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこじんじゃ)』
《 クリックすると大きくなるよ 》
Wikiより~
当地は多氏の拠点であり、多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられる。 社名の通りであれば弥志理都比古(みしりつひこ)を祀る神社ということになるが、これは神八井耳命のこととされる。神武天皇の長子でありながら弟に皇位を譲ったので、「身を退いた」という意味で「ミシリツヒコ」とも呼ばれる。
古くは春日宮と称し、四方に鳥居があったという。太陽信仰の聖地であったのか、方位を配慮した構造になっていた様である。
北緯34度32分08秒 東経135度47分11秒 『謎の《北緯34度32分》太陽の道』 ついにこの地に立つ~。^^
そうです、ここは《北緯34度32分》太陽の道のライン上ですが、《東経135度47分》上でもあるのです。
橿原神宮や神武天皇陵と同じ経度上にあるのです。神武天皇は東征のときに大和へは豪族に阻まれて、南の熊野から八咫烏に導かれて北上し大和に入ったとありました。
【熊野本宮大社】 《以前熊野本宮大社を訪れた時の写真です》
【大斎原】 (おおゆのはら) 《以前熊野本宮大社を訪れた時の写真です》
大斎原は明治期に大洪水によって流される前まで、熊野本宮大社があった場所です。
ここの位置は北緯33度50分4秒 東経135度46分29秒です。
大斎原は東経135度46分ですが、ほぼ橿原神宮や神武天皇陵や多神社と同経度にあるといってもいいでしょう。
そして、もう1ケ所・・・ 奈良市にある平城宮 大極殿・・・
【平城宮 大極殿】 《以前平城宮を訪れた時の写真です》
この大極殿の位置は・・・ 北緯34度41分38秒 東経135度47分39秒なのです。そうです、ここも東経135度47分のライン上にあります。
Google地図で見てみましょう。^^
より大きな地図で 謎の《東経135度47分》星の道 を表示
不思議ですよね~。 見事に一直線上に並んでいます。^^
神武天皇は南の熊野から入って、八咫烏に導かれて北へ・・・。そして大和国を平定して橿原に都を置いた。
そして神武天皇の皇子である神八井耳命が祀られている、《北緯34度32分》太陽の道の『多神社』・・・
~大地に描かれた五芒星~の中心地である平城宮・・・
こうして連なる《東経135度47分》のラインを思うとき、かつて平城宮大極殿で見た一枚のパネルを思い出していました。
” 「大極」とは宇宙の根源のことで、古代中国の天文思想では北極星を意味します。”
神武天皇を導いた『八咫烏』、そしてその子孫たちをより北へと導いたのは『北極星』だったのではないのかと・・・
と、するならば、《東経135度47分》の道は『星の道』なのではないでしょうか。
より大きな地図で 太陽の道・星の道2 を表示
『多神社』は「太陽の道」と「星の道」の交わる場所です。
Wikiの『多神社』には・・・ 『古くは春日宮と称し、四方に鳥居があったという。太陽信仰の聖地であったのか、方位を配慮した構造になっていた様である。』 と、ありました。
かつては四方に鳥居があって、方位を配慮した構造になっていたとありますので、もしかすると古より『多神社』が太陽の道と星の道の交差する場所だとわかっていたのではないかなって気がします・・・
多神社の東へ出てみた・・・
三輪山が見えます。
多神社のある場所から春分の日と秋分の日に、三輪山から昇る日の出を見ることが出来るそうです。
多神社に戻って・・・
多神社の本殿です。 春日造ですね。
祭神は左から、第一社に神武天皇、第二社に神八井耳命、第三社に神沼河耳命、第四社に姫御神です。
このほかに、『古事記』を編纂した太 安萬侶(おおの やすまろ)も祀られているそうです。 当地は多氏の拠点であり、多氏はこの安萬侶の代に姓を「多」から「太」に改めたといわれています。
イメージキャラクターは「まろちゃん」ですね。^^
そしていよいよ、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅のグランドフィナーレです。^^
やった~ 『《北緯34度32分》太陽の道』と『《東経135度47分》星の道』のクロスポイントだ~。
ファイナルミッション 完了! ^^v
あっという間の一年でしたね。感慨深いですね~。^^
そうです、これで今年一年巡ってきた、『謎の《北緯34度32分》太陽の道』の旅も終わりです。
そして、この旅で3年4ヶ月続けてきた『黒R三兄弟の素敵な冒険』の旅も終わろうと思います。
興味本位のブログで細々と続けてまいりましたが、飽きっぽい性格の自分が、よくもまあ3年4ヶ月も続いたなって思います。
ひとえに皆さまのおかげだと思っております。
本当にありがとうございました。
心より感謝申し上げます。
来年は皆さまにとりまして素晴しい年でありますように・・・ ^^
2012-12-31 01:00
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城 【滋賀県彦根市 佐和山城跡】 [日記]
今回は前回の続きですね。 この日は11/25です。
関ヶ原から石田三成の居城だった佐和山城跡に来てみました。^^
佐和山城へ登るには3つのルートがあって、かつての大手口にあたる国道8号線方面からのルートと、佐和山の裏から登る、長短2つのハイキングコースがあります。
今回は一般的な龍潭寺(りょうたんじ)からの、短い方のハイキングコースから登ります。^^
龍潭寺への入り口はとっても綺麗に色付いていましたよ。^^
ハイキングコースの入り口近くには佐和山観音さまが立っておられました。
石田三成群霊供養とあります。
【佐和山城の戦い】 Wikiより
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
関ヶ原から佐和山城までは30kmぐらいの距離なので、関ヶ原の戦いの後、3日後には佐和山城へ大軍が押し寄せてきました。この佐和山城の戦いでも裏切りがあったとは、なんだか悲しくなっちゃいますね・・・。
龍潭寺の山門です。
佐和山城へは龍潭寺の境内を通ります。^^
龍潭寺は関ヶ原の戦い後に井伊直政が佐和山城主となった時に、遠州国から移された井伊家とゆかりのあるお寺です。 また、「だるま寺」 「庭の寺」として有名です。
ちょっと龍潭寺に寄り道~。^^
襖絵が素晴しいです。
そしてこちらは・・・
【ふだらくの庭】
だるま寺の・・・
だるま~ ^^
「蓬莱庭園」のほうへ・・・
【蓬莱庭園】
それでは、龍潭寺から佐和山城跡へ登りましょう。^^
長い方のハイキングコースとの合流点ですね。
実は、佐和山は先ほど通ってきた龍潭寺の隣にある清凉寺(せいりょうじ)の境内地なのです。
団体でなければ届けなくても登れます。清凉寺は井伊家が創建したお寺なので、当然といえば当然なのかも・・・ ^^
さあ、本丸目指して登りましょう~
西の丸跡
さらに、登って・・・
本丸跡が見えてきました。
そして本丸跡に到着~。^^
《 クリックすると大きくなるよ 》
ここは標高232mの佐和山の山頂です。かつてはここに5層の天守閣がそびえていたのですね。^^
紅葉がとっても綺麗です。
なんといってもここからの眺めが素晴しいです。^^
彦根駅方面ですね。
そして、こちらは・・・
彦根城と琵琶湖方面ですね。 琵琶湖が幻想的です。^^
国宝 彦根城・・・
国宝 彦根城を見下ろす感じ・・・ この光景を三成さんに見せてあげたいですね・・・ ^^
現在の彦根城はたくさんの観光客で賑わっています。あのひこにゃんもいますからね~。^^
彦根城と佐和山城・・・ 勝者と敗者・・・
自分にとってこの勝者と敗者の歴史が、彦根という街をより魅力的にしているように感じられます。
関ヶ原の戦いの後、この地に封ぜられた井伊氏は佐和山城に入りましたが、天下普請で彦根城を築城しそちらへ移りました。佐和山城は彦根城へ移築されたもの以外は徹底的に破壊されたため、城跡にはほとんど何も残っていません。
それでも、わずかばかりの石垣があるみたいなので、見に行きましょう~。
あった~。これはまぎれもなく本丸の石垣ですね。本当にわずかな石垣ですが、なんだか嬉しくなりました。^^
さてと・・・ 戻りますか・・・
琵琶湖・・・綺麗だな・・・。 来てよかったな・・・。^^
登ってきた道を下って麓まで・・・
静寂の中のこのお方こそ・・・
【石田三成公像】
もしも関ヶ原の合戦で西軍が東軍に勝っていたら、その後はどんな世になっていたのだろうかと思わずにはいられません。でも関ヶ原の勝敗は必然だったような気がします。
石田三成の始まりは秀吉との出会いからでしたね。三成にとって秀吉は日輪の光だったに違いありません。
そして、三成はその影・・・ でも日輪が光を失うと影は・・・ ただ消えていくだけですね・・・
さて、龍潭寺のお隣、佐和山の持ち主の清凉寺へ行ってみます。^^
ここは観光寺ではありませんので、中には入れませんが、とっても落ち着いた雰囲気のお寺です。
清凉寺は関ヶ原を戦った徳川四天王の一人 井伊直政の死後、井伊家が直政の墓所を設け創建したお寺です。
ただ、この場所はかつて石田三成の重臣である島 左近の屋敷跡なのです。その屋敷跡に井伊家の菩提寺が建っているなんて、豊臣の世から徳川の世へ・・・ 時代の移り変わりを感じます。
さて、清凉寺のチョイ先にある佐和山城の天守閣を見に行きましょうか~。^^
といっても小さな天守閣です。(笑)
これは・・・
『佐和山一夜城』といって、彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業として造られた天守閣です。
歴史的資料をもとに造られたとのことですので、当時の天守閣もこんな感じだったのでしょう。
なんとこの天守閣は石造りだそうです。スゴイですね。^^
こんな壮大な5層の天守閣があの佐和山の上にあったなんて、どんな感じだったのでしょうか・・・
う~ん、見てみたいな。^^
というわけで、乗っけてみた。。。(笑)
石田三成の佐和山城、いかがでしょうか・・・(笑)
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
今はほとんど何も残っていないけれど、かつて三成と左近がいた5層の天守閣の佐和山城が確かにそこにありました。
それは武士(もののふ)たちの一世の夢・・・だったのでしょうか・・・
関ヶ原から石田三成の居城だった佐和山城跡に来てみました。^^
佐和山城へ登るには3つのルートがあって、かつての大手口にあたる国道8号線方面からのルートと、佐和山の裏から登る、長短2つのハイキングコースがあります。
今回は一般的な龍潭寺(りょうたんじ)からの、短い方のハイキングコースから登ります。^^
龍潭寺への入り口はとっても綺麗に色付いていましたよ。^^
ハイキングコースの入り口近くには佐和山観音さまが立っておられました。
石田三成群霊供養とあります。
【佐和山城の戦い】 Wikiより
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を猛攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘し、敵を寄せ付けなかったが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。
関ヶ原から佐和山城までは30kmぐらいの距離なので、関ヶ原の戦いの後、3日後には佐和山城へ大軍が押し寄せてきました。この佐和山城の戦いでも裏切りがあったとは、なんだか悲しくなっちゃいますね・・・。
龍潭寺の山門です。
佐和山城へは龍潭寺の境内を通ります。^^
龍潭寺は関ヶ原の戦い後に井伊直政が佐和山城主となった時に、遠州国から移された井伊家とゆかりのあるお寺です。 また、「だるま寺」 「庭の寺」として有名です。
ちょっと龍潭寺に寄り道~。^^
襖絵が素晴しいです。
そしてこちらは・・・
【ふだらくの庭】
だるま寺の・・・
だるま~ ^^
「蓬莱庭園」のほうへ・・・
【蓬莱庭園】
それでは、龍潭寺から佐和山城跡へ登りましょう。^^
長い方のハイキングコースとの合流点ですね。
実は、佐和山は先ほど通ってきた龍潭寺の隣にある清凉寺(せいりょうじ)の境内地なのです。
団体でなければ届けなくても登れます。清凉寺は井伊家が創建したお寺なので、当然といえば当然なのかも・・・ ^^
さあ、本丸目指して登りましょう~
西の丸跡
さらに、登って・・・
本丸跡が見えてきました。
そして本丸跡に到着~。^^
《 クリックすると大きくなるよ 》
ここは標高232mの佐和山の山頂です。かつてはここに5層の天守閣がそびえていたのですね。^^
紅葉がとっても綺麗です。
なんといってもここからの眺めが素晴しいです。^^
彦根駅方面ですね。
そして、こちらは・・・
彦根城と琵琶湖方面ですね。 琵琶湖が幻想的です。^^
国宝 彦根城・・・
国宝 彦根城を見下ろす感じ・・・ この光景を三成さんに見せてあげたいですね・・・ ^^
現在の彦根城はたくさんの観光客で賑わっています。あのひこにゃんもいますからね~。^^
彦根城と佐和山城・・・ 勝者と敗者・・・
自分にとってこの勝者と敗者の歴史が、彦根という街をより魅力的にしているように感じられます。
関ヶ原の戦いの後、この地に封ぜられた井伊氏は佐和山城に入りましたが、天下普請で彦根城を築城しそちらへ移りました。佐和山城は彦根城へ移築されたもの以外は徹底的に破壊されたため、城跡にはほとんど何も残っていません。
それでも、わずかばかりの石垣があるみたいなので、見に行きましょう~。
あった~。これはまぎれもなく本丸の石垣ですね。本当にわずかな石垣ですが、なんだか嬉しくなりました。^^
さてと・・・ 戻りますか・・・
琵琶湖・・・綺麗だな・・・。 来てよかったな・・・。^^
登ってきた道を下って麓まで・・・
静寂の中のこのお方こそ・・・
【石田三成公像】
もしも関ヶ原の合戦で西軍が東軍に勝っていたら、その後はどんな世になっていたのだろうかと思わずにはいられません。でも関ヶ原の勝敗は必然だったような気がします。
石田三成の始まりは秀吉との出会いからでしたね。三成にとって秀吉は日輪の光だったに違いありません。
そして、三成はその影・・・ でも日輪が光を失うと影は・・・ ただ消えていくだけですね・・・
さて、龍潭寺のお隣、佐和山の持ち主の清凉寺へ行ってみます。^^
ここは観光寺ではありませんので、中には入れませんが、とっても落ち着いた雰囲気のお寺です。
清凉寺は関ヶ原を戦った徳川四天王の一人 井伊直政の死後、井伊家が直政の墓所を設け創建したお寺です。
ただ、この場所はかつて石田三成の重臣である島 左近の屋敷跡なのです。その屋敷跡に井伊家の菩提寺が建っているなんて、豊臣の世から徳川の世へ・・・ 時代の移り変わりを感じます。
さて、清凉寺のチョイ先にある佐和山城の天守閣を見に行きましょうか~。^^
といっても小さな天守閣です。(笑)
これは・・・
『佐和山一夜城』といって、彦根商工会議所青年部の創立30周年記念事業として造られた天守閣です。
歴史的資料をもとに造られたとのことですので、当時の天守閣もこんな感じだったのでしょう。
なんとこの天守閣は石造りだそうです。スゴイですね。^^
こんな壮大な5層の天守閣があの佐和山の上にあったなんて、どんな感じだったのでしょうか・・・
う~ん、見てみたいな。^^
というわけで、乗っけてみた。。。(笑)
石田三成の佐和山城、いかがでしょうか・・・(笑)
治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城
今はほとんど何も残っていないけれど、かつて三成と左近がいた5層の天守閣の佐和山城が確かにそこにありました。
それは武士(もののふ)たちの一世の夢・・・だったのでしょうか・・・
晩秋の関ヶ原に行ってみた。。。 【岐阜県関ヶ原町】 [日記]
晩秋の関ヶ原に行ってみました。。。 この日は11月25日デス。^^
ここは石田三成の本陣があった笹尾山です。
紅葉が綺麗ですね・・・
空も青いし・・・ ^^
慶長5年(1600年)9月15日(現在の10月21日)早朝、石田三成は徳川家康との決戦地を関ヶ原とし、ここ笹尾山に本陣を置きました・・・。
笹尾山の石田三成陣地跡へ・・・
小早川秀秋の裏切りをきっかけに、西軍は崩れ三成は敗退しました・・・ 三成無念・・・
秋の関ヶ原は初めてかな・・・ 笹尾山の麓の紅葉がとっても綺麗なんですよね~ 来てよかった~ ^^
関ヶ原決戦地が見えるね。^^
よし、あそこへ行ってみよう。
綺麗ですね~。^^
決戦地を目指してテクテクと・・・
かつての激戦地、今は長閑な畑になっています。^^
振り返ると・・・
廃校になった小学校の校庭から笹尾山の三成の陣が見えます。^^
【関ヶ原古戦場 決戦地】
この決戦地は関ヶ原の戦の勝敗が決まったと伝えられている場所です。笹尾山の上の三成の本陣から500mぐらいで、笹尾山の麓からでは250mほどの三成の本陣に近いところです。
秋の風情がいいですね~。^^
それでは関ヶ原を後にして・・・
KSRは石田三成の本拠だった滋賀県彦根市にある左和山城跡へ・・・
つづく・・・
ここは石田三成の本陣があった笹尾山です。
紅葉が綺麗ですね・・・
空も青いし・・・ ^^
慶長5年(1600年)9月15日(現在の10月21日)早朝、石田三成は徳川家康との決戦地を関ヶ原とし、ここ笹尾山に本陣を置きました・・・。
笹尾山の石田三成陣地跡へ・・・
小早川秀秋の裏切りをきっかけに、西軍は崩れ三成は敗退しました・・・ 三成無念・・・
秋の関ヶ原は初めてかな・・・ 笹尾山の麓の紅葉がとっても綺麗なんですよね~ 来てよかった~ ^^
関ヶ原決戦地が見えるね。^^
よし、あそこへ行ってみよう。
綺麗ですね~。^^
決戦地を目指してテクテクと・・・
かつての激戦地、今は長閑な畑になっています。^^
振り返ると・・・
廃校になった小学校の校庭から笹尾山の三成の陣が見えます。^^
【関ヶ原古戦場 決戦地】
この決戦地は関ヶ原の戦の勝敗が決まったと伝えられている場所です。笹尾山の上の三成の本陣から500mぐらいで、笹尾山の麓からでは250mほどの三成の本陣に近いところです。
秋の風情がいいですね~。^^
それでは関ヶ原を後にして・・・
KSRは石田三成の本拠だった滋賀県彦根市にある左和山城跡へ・・・
つづく・・・