南朝の皇居 『吉水神社』 ~ 安倍氏ゆかりの地 『文殊院』へ・・・ 安倍晴明の五芒星を訪ねて 【奈良県 桜井市~吉野町】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
今回も前回からの続き、吉野への五芒星を訪ねての旅です。^^
大地に描かれた五芒星の旅は、熊野本宮大社から始まりました。
この日は4月30日です。^^
熊野本宮大社を訪れたあとは、こんな感じで熊野川沿いを北へ・・・
途中、生活用の吊り橋では日本一の「谷瀬の吊り橋」に寄り道しました。^^
今回は、この続きからですね。
お次の目的地は、奈良県の吉野です。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
いざ、吉野へ ~
フムフム、目指す『吉水神社』はもう少し先ですね。
はいっ、到着~ (笑)
吉野といえば、言わずと知れた桜の名所です。
春になれば3万本の桜が咲き誇り、古来より多くの人々の心を惹きつけてきました・・・
さすがに、この季節は桜は咲いてませんね~ (笑)
【吉水神社】
御祭神は後醍醐天皇で、楠 正成や吉水院宗信を合祀しています。
吉水神社は、今でこそ神社としての形態ですが、明治期の神仏分離令以前は「吉水院」という千三百年の歴史がある吉野修験宗の僧坊だった所です。
こちらは本社の脇にある楠公祠です。
また、ここは後醍醐天皇、源義経、静御前、豊臣秀吉公ゆかりの地でもあります。
【吉水院庭園】
説明文には豊臣秀吉が自ら基本設計を行なったと書かれていますね。^^
延元元年(1336年)京の花山院より逃れた後醍醐天皇はここ吉野に南朝を開きました。
これより吉野朝4代57年に及ぶ、南北朝の対立の歴史が始まりました。
吉水神社に現存する書院は日本建築史上最古の書院として、重要文化財に指定されています。
この書院に「後醍醐天皇玉座」があります。
それでは南朝の皇居に入ってみましょう。
【後醍醐天皇玉座】
この玉座は後に秀吉が盛大な吉野の花見を行なったときに、豪華絢爛な桃山風に修理したと伝えられています。後醍醐天皇の時代のものとは少し趣きが違うようですね。^^
【源義経所用 色々威腹巻】
後醍醐天皇が南朝を開く約150年前の鎌倉時代の初め、兄 頼朝に追われた源 義経が静御前、弁慶らとともに吉野へ逃れたときのゆかりの品みたいですね。
この「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)は鎧ではなくて、衣の下に付ける防具だそうです。
吉野へ逃れた義経と静御前でしたが、やがて悲しい別れへと・・・
さて、書院から外へ・・・
秀吉の花見といえば、晩年に京都で行なわれた「醍醐の花見」を思い浮かべる方も多いと思いますが、その4年前の文禄3年(1594年)にも、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らそうそうたる武将をはじめ、茶人、連歌師たち、総勢5千人ともいわれる盛大な花見を吉野山で行ないました。
(桜の季節ではありませんので雰囲気だけでも・・・)^^
吉野山の桜はいろんな種類の桜があり、色とりどりです。
秀吉は吉野の花見の前年に、山桜中心だった桜の山に彩りを加えるため、数千本の枝垂桜を植樹させたと言われています。
年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな (秀吉)
後醍醐天皇の玉座に座った秀吉の絶頂の瞬間だったのかもしれません。
さてさて、五芒星を見に行きますか・・・ 北闕門へ・・・
【北闕門】 (ほくけつもん)
この『北闕門』は京の都に望んでおり、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋する時のための門だったと言われています。
おおっ、北闕門の足元に「セーマン・ドーマン」がありました。^^
セーマン(五芒星)そしてドーマン(九字切印)ですね。
セーマンは陰陽師の安倍晴明から、そしてドーマンは芦屋道満の名に由来するといわれています。
ドーマンは九字護身法の略式形で、俗に「九字切り」と呼ばれてる「早九字護身法」の九字切印です。
そしてこの「早九字護身法」を編み出したのが芦屋道満なのです。
「早九字護身法」は主に陰陽道、修験道で使用されていたそうで、邪悪を切り裂く、または空に結界を張って邪悪の侵入を防ぐとされました。
簡単に出来ますので、精神集中や厄除けの手段として武士や忍者にも広く用いられたそうです。
「吉水神社」は今でこそ神社の形態をとっていますが、以前は「吉水院」という吉野修験宗の僧坊であり、修験道の聖地でした。
後醍醐天皇もこの『北闕門』に立って、京都の空を仰ぎながら九字を切ったとあります。
では、自分も邪悪を払い、日本の再生・甦りを願って九字を切りましょう。^^
邪気祓石の上で祈ります。
まずは、五芒星の上に乗って刀印で祈りを捧げます。
次に、九字切りの印の上に移り、九字を切ります。
こんな感じで九字を切っていきます。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
はいっ、任務終了~。^^
さて、それでは南朝の皇居「吉水神社」を後にして、次なる安倍晴明の五芒星を目指します。
吉野の残り桜、発見!
シーズンは過ぎてしまいましたが、こうして吉野の桜を見ることが出来てなんだか嬉しいですね。^^
そして、奈良県の桜井市にある安倍文殊院へ・・・
ありました~ 五芒星。^^
ふむふむ、なるほど・・・ 安倍文殊院は古来よりご祈祷のお寺で、安倍晴明公の出生の地ですか・・・。
えっ、出生の地は、大阪阿倍野の安倍晴明神社あたりだったのではなかったかな・・・?
さ~て、どっちが本当の出生地でしょうか・・・ (笑)
ここには安倍晴明公の関連遺跡がいくつかあるようですね。
まずは、本堂へ・・・
拝観料を払って、本堂の中へ・・・
もちろん写真撮影は出来ませんので写真はありませんが、しっかりとご本尊の文殊菩薩様を拝見してきました。
約800年前の鎌倉時代に超有名な仏師 快慶によって造立されたそうです。
説明看板の写真ではわかりづらいですが、この文殊様は獅子にまたがっておられます。
高さ約7m、日本一大きい文殊様だそうです。
安倍晴明公は文殊様の生まれ変わりということから、この文殊菩薩が快慶の手により造立されたとのこと。
ちょっと前までは修理のため拝観出来ませんでしたが、修理を終え、本堂文殊館も改装されて、最新のLED照明で公開されています。^^
御本尊の文殊菩薩を拝観すると、もれなく御菓子付きのお抹茶がいただけます。
御菓子は五芒星の落雁です。嬉しい~。^^
安倍文殊院の境内をうろうろと・・・
【金閣浮御堂】
安倍一族を奉る御堂です。中には安倍仲麻呂公像や安倍晴明公像が秘像として奉られています。
安倍晴明堂へやって来ました。^^
【安倍晴明堂】
安倍晴明公を奉るお堂です。平成12年(2000年)に約200年ぶりに再建されました。
ここは神社ではありませんので拝み方が違いますね。
頭が良くなりますように!(笑)
はいっ、なでなで・・・ ^^
この晴明堂がある場所は晴明公が天文観測を行なった場所とされています。
さあ、この展望台から、花で作られた今年の干支のうさぎを見ることが出来ます。
そして、この五芒星の旅の締めくくりは、花で作られた五芒星~~。^^
本当によい旅でした・・・。^^
【おまけ】
今回の五芒星の旅で訪れた、安倍文殊院、吉野の吉水神社、そして熊野三山のうち二山(熊野本宮大社・熊野速玉神社)を、安倍晴明ゆかりの地に描かれた「謎の直線」に当てはめてみた・・・
ああっ、「謎の直線」がつながっちゃった。。。 本当に見事な直線です。。。
なんで、こうなるのでしょう。。。 これははたして偶然でしょうか。。。
青い目印は安倍晴明のゆかりの地で、赤い目印の吉野と熊野は修験道の九字護身法の地です。
吉野を訪れたとき、吉野は国軸だと書かれていましたが、こうして見るとそうなのかなって思ってしまいます。
陰陽道と修験道の接点なのでは・・・ わかりません・・・
謎は深まるばかりですね・・・
では、また。
大地に描かれた五芒星の旅は、熊野本宮大社から始まりました。
この日は4月30日です。^^
熊野本宮大社を訪れたあとは、こんな感じで熊野川沿いを北へ・・・
途中、生活用の吊り橋では日本一の「谷瀬の吊り橋」に寄り道しました。^^
今回は、この続きからですね。
お次の目的地は、奈良県の吉野です。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
いざ、吉野へ ~
フムフム、目指す『吉水神社』はもう少し先ですね。
はいっ、到着~ (笑)
吉野といえば、言わずと知れた桜の名所です。
春になれば3万本の桜が咲き誇り、古来より多くの人々の心を惹きつけてきました・・・
さすがに、この季節は桜は咲いてませんね~ (笑)
【吉水神社】
御祭神は後醍醐天皇で、楠 正成や吉水院宗信を合祀しています。
吉水神社は、今でこそ神社としての形態ですが、明治期の神仏分離令以前は「吉水院」という千三百年の歴史がある吉野修験宗の僧坊だった所です。
こちらは本社の脇にある楠公祠です。
また、ここは後醍醐天皇、源義経、静御前、豊臣秀吉公ゆかりの地でもあります。
【吉水院庭園】
説明文には豊臣秀吉が自ら基本設計を行なったと書かれていますね。^^
延元元年(1336年)京の花山院より逃れた後醍醐天皇はここ吉野に南朝を開きました。
これより吉野朝4代57年に及ぶ、南北朝の対立の歴史が始まりました。
吉水神社に現存する書院は日本建築史上最古の書院として、重要文化財に指定されています。
この書院に「後醍醐天皇玉座」があります。
それでは南朝の皇居に入ってみましょう。
【後醍醐天皇玉座】
この玉座は後に秀吉が盛大な吉野の花見を行なったときに、豪華絢爛な桃山風に修理したと伝えられています。後醍醐天皇の時代のものとは少し趣きが違うようですね。^^
【源義経所用 色々威腹巻】
後醍醐天皇が南朝を開く約150年前の鎌倉時代の初め、兄 頼朝に追われた源 義経が静御前、弁慶らとともに吉野へ逃れたときのゆかりの品みたいですね。
この「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)は鎧ではなくて、衣の下に付ける防具だそうです。
吉野へ逃れた義経と静御前でしたが、やがて悲しい別れへと・・・
さて、書院から外へ・・・
秀吉の花見といえば、晩年に京都で行なわれた「醍醐の花見」を思い浮かべる方も多いと思いますが、その4年前の文禄3年(1594年)にも、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らそうそうたる武将をはじめ、茶人、連歌師たち、総勢5千人ともいわれる盛大な花見を吉野山で行ないました。
(桜の季節ではありませんので雰囲気だけでも・・・)^^
吉野山の桜はいろんな種類の桜があり、色とりどりです。
秀吉は吉野の花見の前年に、山桜中心だった桜の山に彩りを加えるため、数千本の枝垂桜を植樹させたと言われています。
年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな (秀吉)
後醍醐天皇の玉座に座った秀吉の絶頂の瞬間だったのかもしれません。
さてさて、五芒星を見に行きますか・・・ 北闕門へ・・・
【北闕門】 (ほくけつもん)
この『北闕門』は京の都に望んでおり、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋する時のための門だったと言われています。
おおっ、北闕門の足元に「セーマン・ドーマン」がありました。^^
セーマン(五芒星)そしてドーマン(九字切印)ですね。
セーマンは陰陽師の安倍晴明から、そしてドーマンは芦屋道満の名に由来するといわれています。
ドーマンは九字護身法の略式形で、俗に「九字切り」と呼ばれてる「早九字護身法」の九字切印です。
そしてこの「早九字護身法」を編み出したのが芦屋道満なのです。
「早九字護身法」は主に陰陽道、修験道で使用されていたそうで、邪悪を切り裂く、または空に結界を張って邪悪の侵入を防ぐとされました。
簡単に出来ますので、精神集中や厄除けの手段として武士や忍者にも広く用いられたそうです。
「吉水神社」は今でこそ神社の形態をとっていますが、以前は「吉水院」という吉野修験宗の僧坊であり、修験道の聖地でした。
後醍醐天皇もこの『北闕門』に立って、京都の空を仰ぎながら九字を切ったとあります。
では、自分も邪悪を払い、日本の再生・甦りを願って九字を切りましょう。^^
邪気祓石の上で祈ります。
まずは、五芒星の上に乗って刀印で祈りを捧げます。
次に、九字切りの印の上に移り、九字を切ります。
こんな感じで九字を切っていきます。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
はいっ、任務終了~。^^
さて、それでは南朝の皇居「吉水神社」を後にして、次なる安倍晴明の五芒星を目指します。
吉野の残り桜、発見!
シーズンは過ぎてしまいましたが、こうして吉野の桜を見ることが出来てなんだか嬉しいですね。^^
そして、奈良県の桜井市にある安倍文殊院へ・・・
ありました~ 五芒星。^^
ふむふむ、なるほど・・・ 安倍文殊院は古来よりご祈祷のお寺で、安倍晴明公の出生の地ですか・・・。
えっ、出生の地は、大阪阿倍野の安倍晴明神社あたりだったのではなかったかな・・・?
さ~て、どっちが本当の出生地でしょうか・・・ (笑)
ここには安倍晴明公の関連遺跡がいくつかあるようですね。
まずは、本堂へ・・・
拝観料を払って、本堂の中へ・・・
もちろん写真撮影は出来ませんので写真はありませんが、しっかりとご本尊の文殊菩薩様を拝見してきました。
約800年前の鎌倉時代に超有名な仏師 快慶によって造立されたそうです。
説明看板の写真ではわかりづらいですが、この文殊様は獅子にまたがっておられます。
高さ約7m、日本一大きい文殊様だそうです。
安倍晴明公は文殊様の生まれ変わりということから、この文殊菩薩が快慶の手により造立されたとのこと。
ちょっと前までは修理のため拝観出来ませんでしたが、修理を終え、本堂文殊館も改装されて、最新のLED照明で公開されています。^^
御本尊の文殊菩薩を拝観すると、もれなく御菓子付きのお抹茶がいただけます。
御菓子は五芒星の落雁です。嬉しい~。^^
安倍文殊院の境内をうろうろと・・・
【金閣浮御堂】
安倍一族を奉る御堂です。中には安倍仲麻呂公像や安倍晴明公像が秘像として奉られています。
安倍晴明堂へやって来ました。^^
【安倍晴明堂】
安倍晴明公を奉るお堂です。平成12年(2000年)に約200年ぶりに再建されました。
ここは神社ではありませんので拝み方が違いますね。
頭が良くなりますように!(笑)
はいっ、なでなで・・・ ^^
この晴明堂がある場所は晴明公が天文観測を行なった場所とされています。
さあ、この展望台から、花で作られた今年の干支のうさぎを見ることが出来ます。
そして、この五芒星の旅の締めくくりは、花で作られた五芒星~~。^^
本当によい旅でした・・・。^^
【おまけ】
今回の五芒星の旅で訪れた、安倍文殊院、吉野の吉水神社、そして熊野三山のうち二山(熊野本宮大社・熊野速玉神社)を、安倍晴明ゆかりの地に描かれた「謎の直線」に当てはめてみた・・・
ああっ、「謎の直線」がつながっちゃった。。。 本当に見事な直線です。。。
なんで、こうなるのでしょう。。。 これははたして偶然でしょうか。。。
青い目印は安倍晴明のゆかりの地で、赤い目印の吉野と熊野は修験道の九字護身法の地です。
吉野を訪れたとき、吉野は国軸だと書かれていましたが、こうして見るとそうなのかなって思ってしまいます。
陰陽道と修験道の接点なのでは・・・ わかりません・・・
謎は深まるばかりですね・・・
では、また。
熊野本宮大社から吉野へ・・・ 日本一の吊り橋 『谷瀬の吊り橋』 【奈良県 吉野郡 十津川村】 [日記]
さてさて、今回は前回の熊野本宮大社を訪れてからの続きですね。^^
熊野本宮大社を後にして、安倍晴明の五芒星を求め一路奈良県の吉野へ向かいます。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
緑深き熊野川流域を北上します。
道の駅「奥熊野古道ほんぐう」で、休憩!
おみやげに「熊野古道麦酒」でも買って帰ろうかな~なんてよく見ると・・・
1缶300円なので3缶買うと・・・ 300円×3缶=900円・・・
えっ、3本セット1000円ですか~ 3缶まとめて買うと高くなっちゃうんだ~(笑)
結局、「熊野古道麦酒」1缶お買い上げ~。^^
熊野川沿いの道って走ってて気持ちいい~
何気に滝なんてあったりして・・・
そして奈良県吉野郡十津川村へ・・・
川の名前もいつの間にか熊野川から十津川に・・・
十津川第一発電所の水路橋ですね。^^
たぶんこの山の向こうに水力発電所があるのでしょうね。
山をぶち抜いている巨大な水路トンネルのド迫力に圧倒されます。^^
この水の色・・・なんて綺麗なのでしょうか・・・ 感動!^^
そして、やって来ました日本一の「谷瀬の吊り橋」~~。^^
全長297.7m 川からの高さ54m 生活用の吊り橋としては「日本一」と言われているそうです。^^
皆さんビビリながら渡っていますが、自分も渡ってみることにします。
それではGo!
「ああっ、メッチャ怖い~」 TT
ビビリながら写真撮ってます。
縦揺れだけじゃないんです。横揺れがメッチャ怖い・・・
時おり足元の板がゆがむのがわかります・・・
だんだんこの揺れに慣れてきますが、ときたま激しく揺れます。恐怖のあまり誰か走ってるんじゃないかと思います。
それにしても300mは長いです。「もう、ええやん」みたいな・・・(笑)
やっと渡りきりました。なんだかホッとしますね。
帰りはけっこう余裕で・・・ ^^
とても広い河原です。今は、オートキャンプ場になってるみたいですね。
かつて、この辺りの流域には、集落や耕地がありました。
前回の熊野本宮大社の記事のときに、明治22年(1889年)の大洪水で大斎原にあった本宮大社の社殿が大きな被害にあったお話をしましたが、そのときの豪雨でこの辺りも大変大きな被害をうけました。
明治22年8月奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲いました。
奈良県吉野郡十津川郷では、山や谷壁がなだれ落ちて渓谷をせき止め、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように襲い掛かっていった・・・。
十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であったそうです。
すべてを失った人々の多くは、ここを離れて北海道へ移り住みました。
そう、そこが現在の北海道の新十津川村なのです。
洪水ですべてを失って、北海道へ移り住んだけれども、美しいふるさとのことは忘れなかった・・・
だから、移り住んだ先に、「十津川」の名を付けたのかなって思います。
移り住んだ先でも、幾多の困難が待ち受けていました。
そんな苦しい生活のなかでも、十津川の人々は子供たちの教育には熱心であったそうです。
すべてを失ってからの復興や開拓は長い月日がかかり、何世代にも及びます。
そんななかで情熱や希望を失わずに立ち上がっていくためには、やっぱり子供たちへの教育はとても大切なことなのだと思います。
移り住んだ人々の不屈の精神で、やがて北海道の新十津川村は、道内でも第一級の米作地帯となりました。
十津川村に残った人々もがんばった・・・
戦後の復興期、昭和29年(1954年)に十津川村の谷瀬の人々は一戸あたり20~30万円という、当時としては破格の大金を出し合い、800余万円を投じてこの「谷瀬の吊り橋」を完成させました。
現在では日本一の吊り橋として多くの人々で賑わっています。^^
そんな「谷瀬の吊り橋」がある十津川村ってどこ?
ここです。^^
さてさて、いつものように記事が長くなってきましたので、奈良県吉野の南朝の皇居「吉水神社」は次回のお楽しみということで・・・。
では、また。
熊野本宮大社を後にして、安倍晴明の五芒星を求め一路奈良県の吉野へ向かいます。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
緑深き熊野川流域を北上します。
道の駅「奥熊野古道ほんぐう」で、休憩!
おみやげに「熊野古道麦酒」でも買って帰ろうかな~なんてよく見ると・・・
1缶300円なので3缶買うと・・・ 300円×3缶=900円・・・
えっ、3本セット1000円ですか~ 3缶まとめて買うと高くなっちゃうんだ~(笑)
結局、「熊野古道麦酒」1缶お買い上げ~。^^
熊野川沿いの道って走ってて気持ちいい~
何気に滝なんてあったりして・・・
そして奈良県吉野郡十津川村へ・・・
川の名前もいつの間にか熊野川から十津川に・・・
十津川第一発電所の水路橋ですね。^^
たぶんこの山の向こうに水力発電所があるのでしょうね。
山をぶち抜いている巨大な水路トンネルのド迫力に圧倒されます。^^
この水の色・・・なんて綺麗なのでしょうか・・・ 感動!^^
そして、やって来ました日本一の「谷瀬の吊り橋」~~。^^
全長297.7m 川からの高さ54m 生活用の吊り橋としては「日本一」と言われているそうです。^^
皆さんビビリながら渡っていますが、自分も渡ってみることにします。
それではGo!
「ああっ、メッチャ怖い~」 TT
ビビリながら写真撮ってます。
縦揺れだけじゃないんです。横揺れがメッチャ怖い・・・
時おり足元の板がゆがむのがわかります・・・
だんだんこの揺れに慣れてきますが、ときたま激しく揺れます。恐怖のあまり誰か走ってるんじゃないかと思います。
それにしても300mは長いです。「もう、ええやん」みたいな・・・(笑)
やっと渡りきりました。なんだかホッとしますね。
帰りはけっこう余裕で・・・ ^^
とても広い河原です。今は、オートキャンプ場になってるみたいですね。
かつて、この辺りの流域には、集落や耕地がありました。
前回の熊野本宮大社の記事のときに、明治22年(1889年)の大洪水で大斎原にあった本宮大社の社殿が大きな被害にあったお話をしましたが、そのときの豪雨でこの辺りも大変大きな被害をうけました。
明治22年8月奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲いました。
奈良県吉野郡十津川郷では、山や谷壁がなだれ落ちて渓谷をせき止め、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように襲い掛かっていった・・・。
十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であったそうです。
すべてを失った人々の多くは、ここを離れて北海道へ移り住みました。
そう、そこが現在の北海道の新十津川村なのです。
洪水ですべてを失って、北海道へ移り住んだけれども、美しいふるさとのことは忘れなかった・・・
だから、移り住んだ先に、「十津川」の名を付けたのかなって思います。
移り住んだ先でも、幾多の困難が待ち受けていました。
そんな苦しい生活のなかでも、十津川の人々は子供たちの教育には熱心であったそうです。
すべてを失ってからの復興や開拓は長い月日がかかり、何世代にも及びます。
そんななかで情熱や希望を失わずに立ち上がっていくためには、やっぱり子供たちへの教育はとても大切なことなのだと思います。
移り住んだ人々の不屈の精神で、やがて北海道の新十津川村は、道内でも第一級の米作地帯となりました。
十津川村に残った人々もがんばった・・・
戦後の復興期、昭和29年(1954年)に十津川村の谷瀬の人々は一戸あたり20~30万円という、当時としては破格の大金を出し合い、800余万円を投じてこの「谷瀬の吊り橋」を完成させました。
現在では日本一の吊り橋として多くの人々で賑わっています。^^
そんな「谷瀬の吊り橋」がある十津川村ってどこ?
ここです。^^
さてさて、いつものように記事が長くなってきましたので、奈良県吉野の南朝の皇居「吉水神社」は次回のお楽しみということで・・・。
では、また。
熊野本宮大社 ~大地に描かれた五芒星の旅~ その1 【和歌山県 田辺市 本宮町】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
さ~て、いよいよ ~大地に描かれた五芒星の旅~ を始めようと思います。^^
始まりは鳥羽の「海の博物館」で見た、鳥羽の海女たちが身に付けていた不思議な魔除け「セーマン・ドーマン」からでした・・・。
そして・・・
この不思議な大地に描かれた五芒星の存在を知りました・・・。
不思議ですよね。
この神々が祀られたのは遥か昔のことなのに、こんなに正確に五芒星を描いているなんて・・・。
そしてその不思議な気持ちはやがて、この五ヶ所の神域をぜひ訪れてみたいなって思うようになってきました。
春になり暖かくなって、さあ ~大地に描かれた五芒星の旅~ が始まります。^^
まず、この旅を始めるにあたって、この5ヶ所のどこから始めればいいんだろうって考えました。
そういえばって、京都の晴明神社に行ったときの五芒星の晴明井を思い出しました。
この晴明井の清水口は、その年の恵方の方角に向けてあるのです。
そうなのか・・・五芒星の頂点はその年の恵方の方角なんだ・・・。
というわけで、~大地に描かれた五芒星の旅~ は、今年の恵方「南南東」に近い「熊野本宮大社」から始めることにしました。
この日は、ゴールデンウィーク中の4月30日(土)・・・
やってまいりました 『熊野本宮大社』 ・・・
自分は伊勢路からはるばると・・・ですね。^^
それでは、神域に入ることにします・・・。
紀伊半島の南部「熊野」は、古来より神々が隠れ籠る聖域で、修験道の修行の地とされてきました。
ここに古代以来、祀られてきたのが、本宮、新宮、那智の熊野三山です。
本宮はかつて熊野川の中洲にあって、主神は家津御子大神(けつみこおおかみ)。新宮は熊野川の河口近くにあり、熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)が主神。那智は熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っています。
三社のそれぞれの神が三社共通の祭神とされるようになり、平安後期には神仏習合によって三社の神々にも本地仏(ほんじぶつ)があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所権現とよばれています。
神々はそのままでは俗世に姿を現すことは出来ないので、仮に仏様にお姿を変えて現れる(権現)ということなのだそうです。
「祈!熊野から日本の甦りを!」
東日本大震災という未曾有の大災害が起り、熊野本宮大社では毎朝に鎮魂の祈りを捧げているそうです。
この神門の向こうが本殿です。
この先は写真撮影は出来ませんでしたので写真はありませんが、神門をくぐると、檜皮葺きの社殿が向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいました。
自分も・・・ 「祈!日本の甦りを・・・」 ^^
拝殿へ・・・
【八咫烏】 (やたがらす)
三本足のカラスですね。^^
熊野では八咫烏は神の使者だと言われています。
方角を知るので未知の地へ行く道案内をする鳥とされており、その昔、神武天皇が奥深い熊野の山野に迷ったとき、八咫烏が導いたといわれています。
ちなみに・・・
日本サッカー協会のシンボルマークには八咫烏が使われています。
日本に初めて近代サッカーを紹介した人が熊野三山の熊野那智大社あたりの出身の人で、その人に敬意を表して、八咫烏をデザインしたそうです。
拝殿に飾られていた今年の一文字・・・
今年の一文字は 「根」 だそうで、原点に立ち返って飛躍して欲しいとの願いが込められているそうです。
ここで、この文字を書いた方の名前が気になりませんか・・・
「九鬼」・・・
九鬼といえば、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に使え、九鬼水軍を率いて戦国の荒海を戦い抜き、鳥羽城を築いた九鬼嘉隆を思い浮かべる方もいらっしゃるかと思います。自分もそうなんですけど・・・(笑)
Wikipediaによれば、九鬼氏の出自は詳しくわかっていないとのことなんですが、諸説によれば、九鬼氏のご先祖様は藤原氏の末裔で代々熊野三山を統括する役職についていたとか、熊野本宮大社の八庄司の一人で移住した先の九鬼浦に因んで九鬼と名乗ったなんて説があるそうです。
昔から九鬼氏とは名乗ってはいなかったみたいですけど、いずれにしても、九鬼氏のご先祖さまは、ここ熊野本宮大社にゆかりのある方みたいです。
ここで、面白い物語を・・・ ^^
時は南北朝時代、九鬼氏のご先祖さまは、はじめ北朝の足利尊氏方についていましたが、尊氏の後醍醐天皇に対する仕打ちがあまりにもひどかったため、これに憤慨し、京都の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇をお救いし、吉野へと逃し奉ったそうです。
途中、追っ手に追いつかれはしましたが、武術と修験道に長けたご先祖さまは、近づく敵は打ち倒し、遠くの敵は九字を切って制圧した・・・
後に三種の神器も回収することにも成功し、後醍醐天皇を大いに感激させました。
「汝の忠心、神の知ろしめすところなり。汝、今日より、藤原姓改め、九鬼と改む可し 」と・・・
九字を切って敵を征圧したことにちなみ、九鬼の「九」は九字の“九”を表し、「鬼」とは鬼神(おにがみ)様の意味で、これを“カミ”と読んだそうです。で、本来の文字は鬼の字の上に点(ノ)がない特殊な文字なのだそうです。
ね、宮司様の「九鬼」には鬼の字の上に点(ノ)がないでしょ。^^
こんな九鬼伝説があるみたいですけど、物語としてはとっても面白いので、そういうことにしときます。「九鬼」と名づけたのは、後醍醐天皇だったってね・・・。(笑)
「日本城」~ ^^
お城好きの方、申し訳けありません!今回の旅ではお城は出てきませんので、これでご勘弁を~~。(笑)
おやっ、面白いもの発見!^^
【八咫ポスト】
黒いポストって初めて見ますが・・・
このポスト、本当に手紙を出すことが出来るんです。^^
八咫烏さま~ お導きを~~ ^^
綺麗だね~ ^^
階段を下りていると・・・
境内に、なんと世界遺産の「熊野古道」を発見! えっ、本当に?(笑)
ちょっと想像と違っていましたが・・・(笑)
「熊野古道」って熊野三山へと通じる山深い紀伊山地の参詣道のことなのですが、まあこの道も熊野古道の一つなのでしょうか~。^^
ちなみに京都から熊野への参詣道はこんな感じです。
やっぱり熊野あたりの道は凄そうだなあ。^^
鳥居から入って、鳥居から出る~ ^^
さて・・・ 大斎原(おおゆのはら)へ・・・
あ~っ、Sazabyさんのブログ見てて良かった~。スムーズに廻れるわ~。^^
のどかな参道をてくてくと・・・
日本一の大鳥居~ 高さ33.9m~ デカッ・・・ ^^
【大斎原】 (おおゆのはら)
そう、かつてはここに熊野本宮大社が鎮座していました。
明治22年(1889年)8月、熊野川の大水害により、熊野川の中洲にあった熊野本宮大社の社殿の多くは流されてしまいました。現在の熊野本宮大社はここ大斎原より北西の高台に移されたものです。
鳥居より先は神聖な場所なので写真撮影は出来ませんが、とても静かで厳かな雰囲気に満ちている場所でした。今は2つの石祠が祀られています・・・
かつては、こんな感じだったみたいです。
熊野本宮の創建は、御由緒によれば崇神天皇六十五年(西暦 紀元前33年)とのことなので、2000年以上の昔からこの地に鎮座してたのですね。すごいなあ・・・。^^
熊野三山を目指して、多くの人が熊野古道を通ってやって来ました。
後白河上皇にいたっては34回もここを訪れているそうです。
明治22年(1889年)の大水害の原因は、明治の世になり、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われてしまったからなのだそうです。
大雨は古来より降ってきたけれども、人の手によりその自然のバランスを崩してしまったがために、大災害となってしまった・・・
そんな苦難のときを乗り越えて、熊野本宮大社は今でも人々の信仰の地であり続けていますね。
苦難を乗り越えて、甦る・・・
今の日本の姿と重なって、熊野本宮大社は旅の始まりにふさわしい場所だったように思います。
旅はまだまだ続きます。
ねっ。 ^^
~大地に描かれた五芒星の旅~ 熊野本宮大社・・・
1ケ所目コンプリート! v(^^)v
では、また。
始まりは鳥羽の「海の博物館」で見た、鳥羽の海女たちが身に付けていた不思議な魔除け「セーマン・ドーマン」からでした・・・。
そして・・・
この不思議な大地に描かれた五芒星の存在を知りました・・・。
不思議ですよね。
この神々が祀られたのは遥か昔のことなのに、こんなに正確に五芒星を描いているなんて・・・。
そしてその不思議な気持ちはやがて、この五ヶ所の神域をぜひ訪れてみたいなって思うようになってきました。
春になり暖かくなって、さあ ~大地に描かれた五芒星の旅~ が始まります。^^
まず、この旅を始めるにあたって、この5ヶ所のどこから始めればいいんだろうって考えました。
そういえばって、京都の晴明神社に行ったときの五芒星の晴明井を思い出しました。
この晴明井の清水口は、その年の恵方の方角に向けてあるのです。
そうなのか・・・五芒星の頂点はその年の恵方の方角なんだ・・・。
というわけで、~大地に描かれた五芒星の旅~ は、今年の恵方「南南東」に近い「熊野本宮大社」から始めることにしました。
この日は、ゴールデンウィーク中の4月30日(土)・・・
やってまいりました 『熊野本宮大社』 ・・・
自分は伊勢路からはるばると・・・ですね。^^
それでは、神域に入ることにします・・・。
紀伊半島の南部「熊野」は、古来より神々が隠れ籠る聖域で、修験道の修行の地とされてきました。
ここに古代以来、祀られてきたのが、本宮、新宮、那智の熊野三山です。
本宮はかつて熊野川の中洲にあって、主神は家津御子大神(けつみこおおかみ)。新宮は熊野川の河口近くにあり、熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)が主神。那智は熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っています。
三社のそれぞれの神が三社共通の祭神とされるようになり、平安後期には神仏習合によって三社の神々にも本地仏(ほんじぶつ)があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所権現とよばれています。
神々はそのままでは俗世に姿を現すことは出来ないので、仮に仏様にお姿を変えて現れる(権現)ということなのだそうです。
「祈!熊野から日本の甦りを!」
東日本大震災という未曾有の大災害が起り、熊野本宮大社では毎朝に鎮魂の祈りを捧げているそうです。
この神門の向こうが本殿です。
この先は写真撮影は出来ませんでしたので写真はありませんが、神門をくぐると、檜皮葺きの社殿が向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいました。
自分も・・・ 「祈!日本の甦りを・・・」 ^^
拝殿へ・・・
【八咫烏】 (やたがらす)
三本足のカラスですね。^^
熊野では八咫烏は神の使者だと言われています。
方角を知るので未知の地へ行く道案内をする鳥とされており、その昔、神武天皇が奥深い熊野の山野に迷ったとき、八咫烏が導いたといわれています。
ちなみに・・・
日本サッカー協会のシンボルマークには八咫烏が使われています。
日本に初めて近代サッカーを紹介した人が熊野三山の熊野那智大社あたりの出身の人で、その人に敬意を表して、八咫烏をデザインしたそうです。
拝殿に飾られていた今年の一文字・・・
今年の一文字は 「根」 だそうで、原点に立ち返って飛躍して欲しいとの願いが込められているそうです。
ここで、この文字を書いた方の名前が気になりませんか・・・
「九鬼」・・・
九鬼といえば、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に使え、九鬼水軍を率いて戦国の荒海を戦い抜き、鳥羽城を築いた九鬼嘉隆を思い浮かべる方もいらっしゃるかと思います。自分もそうなんですけど・・・(笑)
Wikipediaによれば、九鬼氏の出自は詳しくわかっていないとのことなんですが、諸説によれば、九鬼氏のご先祖様は藤原氏の末裔で代々熊野三山を統括する役職についていたとか、熊野本宮大社の八庄司の一人で移住した先の九鬼浦に因んで九鬼と名乗ったなんて説があるそうです。
昔から九鬼氏とは名乗ってはいなかったみたいですけど、いずれにしても、九鬼氏のご先祖さまは、ここ熊野本宮大社にゆかりのある方みたいです。
ここで、面白い物語を・・・ ^^
時は南北朝時代、九鬼氏のご先祖さまは、はじめ北朝の足利尊氏方についていましたが、尊氏の後醍醐天皇に対する仕打ちがあまりにもひどかったため、これに憤慨し、京都の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇をお救いし、吉野へと逃し奉ったそうです。
途中、追っ手に追いつかれはしましたが、武術と修験道に長けたご先祖さまは、近づく敵は打ち倒し、遠くの敵は九字を切って制圧した・・・
後に三種の神器も回収することにも成功し、後醍醐天皇を大いに感激させました。
「汝の忠心、神の知ろしめすところなり。汝、今日より、藤原姓改め、九鬼と改む可し 」と・・・
九字を切って敵を征圧したことにちなみ、九鬼の「九」は九字の“九”を表し、「鬼」とは鬼神(おにがみ)様の意味で、これを“カミ”と読んだそうです。で、本来の文字は鬼の字の上に点(ノ)がない特殊な文字なのだそうです。
ね、宮司様の「九鬼」には鬼の字の上に点(ノ)がないでしょ。^^
こんな九鬼伝説があるみたいですけど、物語としてはとっても面白いので、そういうことにしときます。「九鬼」と名づけたのは、後醍醐天皇だったってね・・・。(笑)
「日本城」~ ^^
お城好きの方、申し訳けありません!今回の旅ではお城は出てきませんので、これでご勘弁を~~。(笑)
おやっ、面白いもの発見!^^
【八咫ポスト】
黒いポストって初めて見ますが・・・
このポスト、本当に手紙を出すことが出来るんです。^^
八咫烏さま~ お導きを~~ ^^
綺麗だね~ ^^
階段を下りていると・・・
境内に、なんと世界遺産の「熊野古道」を発見! えっ、本当に?(笑)
ちょっと想像と違っていましたが・・・(笑)
「熊野古道」って熊野三山へと通じる山深い紀伊山地の参詣道のことなのですが、まあこの道も熊野古道の一つなのでしょうか~。^^
ちなみに京都から熊野への参詣道はこんな感じです。
やっぱり熊野あたりの道は凄そうだなあ。^^
鳥居から入って、鳥居から出る~ ^^
さて・・・ 大斎原(おおゆのはら)へ・・・
あ~っ、Sazabyさんのブログ見てて良かった~。スムーズに廻れるわ~。^^
のどかな参道をてくてくと・・・
日本一の大鳥居~ 高さ33.9m~ デカッ・・・ ^^
【大斎原】 (おおゆのはら)
そう、かつてはここに熊野本宮大社が鎮座していました。
明治22年(1889年)8月、熊野川の大水害により、熊野川の中洲にあった熊野本宮大社の社殿の多くは流されてしまいました。現在の熊野本宮大社はここ大斎原より北西の高台に移されたものです。
鳥居より先は神聖な場所なので写真撮影は出来ませんが、とても静かで厳かな雰囲気に満ちている場所でした。今は2つの石祠が祀られています・・・
かつては、こんな感じだったみたいです。
熊野本宮の創建は、御由緒によれば崇神天皇六十五年(西暦 紀元前33年)とのことなので、2000年以上の昔からこの地に鎮座してたのですね。すごいなあ・・・。^^
熊野三山を目指して、多くの人が熊野古道を通ってやって来ました。
後白河上皇にいたっては34回もここを訪れているそうです。
明治22年(1889年)の大水害の原因は、明治の世になり、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われてしまったからなのだそうです。
大雨は古来より降ってきたけれども、人の手によりその自然のバランスを崩してしまったがために、大災害となってしまった・・・
そんな苦難のときを乗り越えて、熊野本宮大社は今でも人々の信仰の地であり続けていますね。
苦難を乗り越えて、甦る・・・
今の日本の姿と重なって、熊野本宮大社は旅の始まりにふさわしい場所だったように思います。
旅はまだまだ続きます。
ねっ。 ^^
~大地に描かれた五芒星の旅~ 熊野本宮大社・・・
1ケ所目コンプリート! v(^^)v
では、また。