豊臣秀吉の莫大な財宝を探せ! 『豊臣家埋蔵金』ツーリング 後編(坑道突入編) 【兵庫県 多田銀山跡】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
さてさて、今回は前回の続き、いよいよ多田銀山の間歩(坑道)に突入しますよ~。^^
多田銀山資料館「悠久の館」にバイクを停め、歩いて銀山橋を越え、代官所跡へ向かいます。
途中、オモシロ石灯籠を発見!^^
あはは、すごく重そうです。(笑)
絢爛豪華な豊臣家を支えるために、下々の者はこんな感じだったのでしょうか。ツライわ~。TT
こんなところを通って代官所跡へ・・・
この辺の岩肌って違うんですよ。
どう見ても普通の岩石ではないですよね。これも鉱石なのでしょうか。
代官所跡に到着~。
この代官所跡は先程の『悠久の館』の川を挟んだ真向いにあります。
ちなみに、かつてはこんな感じだったそうです。^^
江戸時代の代官所の復元模型です。ここでお代官さまが目を光らせていたわけですね。^^
代官所跡に石碑を発見!
この石碑も鉱石っぽいですよね。^^
さてさて、代官所跡からメインストリートに戻って埋蔵金探索を続けます。
メインストリートといっても車1台が通れるぐらいの幅しかありません!
が、かつて多田銀山の盛山期のこの辺りは、「銀山三千軒」と言われるほどの賑わいを見せたそうです。
古絵図を見てみると、銀山の谷筋に沿って、ビッシリと建物が画かれています。
今は、自然の中に埋もれて行ったかつての面影が残るだけです。
立派な門構えの家屋の前にやって来ました。
「銀山代官所の門」だそうです。
先ほど見た代官所の中門だったの門をここに移築したとのこと。本来は馬に乗ったまま通れるくらいの高さだったそうですが、民家用に低くしたみたいです。^^
おっ、川沿いにかつての「平炉跡」を発見!
野面積みの石垣が歴史を感じさせます。
ここで、鉱石から銀や銅が製錬されていたのですね。^^
さ~て、「平炉跡」の近くにある「金山彦神社」に寄り道しますよ~。^^
この神社は平安時代の大同2年(807年)に建立されたと伝えられる歴史ある神社です。
古来より鉱山の神で、現在でも地元の人々からの篤い信仰をあつめています。
おっと~、境内にはハイカーを装った多くのトレジャーハンター達が昼食をとっています!
ここ多田銀山跡には観光客を装ったトレジャーハンター達や、ラブラブカッポーを装った男女のトレジャーハンターもいます。油断出来ません!
自分もこんなところでグズグズしてるヒマはありません! 先を越されてなるものか~。(笑)
さあ、間歩(坑道)へ行ってみましょう。
おおっ、ついに青木間歩の坑道入り口を発見しました!^^
こ、この奥に豊臣家の埋蔵金が眠っているのでしょうか~。
意を決して、坑道へ突入します。いざ~!
坑内はこんな感じですが、写真はフラッシュ撮影していますので、実際はもっと薄暗いです。
ねっ、薄暗いでしょ。坑内には照明も所々ありますが、ここは薄暗い沈黙の世界です。
現在ではライトによる照明がありますが、江戸時代の坑内はどうだったのでしょう。
多田銀山資料館「悠久の館」でもらった資料の中に、江戸時代の採掘現場のあかりについての説明が載っていました。
それによると、サザエの貝殻に油を入れて火を灯していたそうです。それでも暗過ぎますよね~。
豊臣家の埋蔵金を求めて、奥へ奥へと突き進みます。
坑内の温度は7℃ぐらいです。ひんやりとしています。
鋭く削り取った鉱脈の跡が生々しいです。
おおっと、こんな注意書きがありました!
ヒィー((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
これは鉱石っぽいですよね。^^
説明案内によるとこの鉱脈は白亜紀後期の6400万年前に生成されたものだそうです。
凄いですね~。今、自分は6400万年前の地層の中にいます。^^
それにしても、鉱石1トンに対して銀が600g弱しか採れないんですね。銅は20kgぐらいは採れるみたいですけど。
さらに奥へズンズン進むと・・・
おっと。これはいったい何だ~。
あ~っ、行き止まりだ~。
残念~、これ以上進めません!
う~ん、ここには豊臣家の埋蔵金はなかったか~。TT
ここ青木間歩は、多田銀山跡で唯一坑道内を体感出来るので、観光客を装ったトレジャーハンター達に人気です。
午前9時から夕方5時まで自由に見学出来ます。^^
さて、多田銀山の間歩(坑道)はここだけではありませんので、次の間歩へと向かいます。
【瓢箪間歩大露頭(露出岩部分)】
凄いですね~。鉱脈が地表に大規模に露出している部分です。
ここは、穴を掘らなくても地表から採掘出来たんですね。ノミやタガネの跡が迫力ありますね~。
なので、この辺は鉱石らしき欠片がゴロゴロしています。
そして、やって来ました『台所間歩』
大坂城の台所(財政)を潤すほどの大量の銀・銅の産出量を誇ったことから、『台所間歩』っていう名称がついたといわれています。解りやすいけど、えげつな~いネーミング~。^^
いくら、武力で天下を統一したとはいえ、潤沢な財政の裏付けがなければ、豪華絢爛な豊臣政権は維持出来なかったでしょうね。
ちなみに江戸時代のこの辺りはこんな感じになっています。
沢山の間歩(坑道)があったみたいです。^^
さて、台所間歩に突入・・・。えっ!
はっ、入れない~。TT
奥を覗くと、どうやら崩れているみたいです。
奥に、妖しげに光っているのは、銀鉱脈でしょうか。それにしても残念だ~。
まあ、豊臣関係の間歩(坑道)はここだけではありませんので、『瓢箪間歩』へ向かいます。
ついにやって来ました『瓢箪間歩』
しか~し・・・
こちらも入れませ~ん。TT
代官所のお役人さまが見張っています。
それでも、お役人さまの目を盗んで、カメラを突っ込んで中の様子を撮ってみます。
う~ん、厳重に入り口は閉じられていますね~。これは怪しいぞ~。この奥にはもしかすると豊臣家の埋蔵金が・・・。
この『瓢箪間歩』は豊臣秀吉が自身の馬印である「千成瓢箪」を掲げることを許したと伝えられるほど、銀・銅の産出量が多かったといわれている間歩(坑道)です。他の間歩に比べて坑道の入り口がデカイですね~。秀吉が馬にまたがったまま入坑したというエピソードが残されています。
結局、多田銀山跡で豊臣家の埋蔵金を発見することは出来ませんでした。
そうですよね、ここは昔から多くのトレジャーハンター達が豊臣家の埋蔵金伝説に魅かれて宝探しをした場所です。なかにはこの地に居ついて埋蔵金探しに人生を捧げちゃった人もいるぐらいですから、そう簡単には見つかるわけはありません・・・。
夢は永遠に夢なのか・・・。
今は静かな多田銀銅山跡ですが、かつての繁栄ぶりに想いを馳せながらこの地を後にしました。
しか~し、この埋蔵金探しはまだ続きがあります。
「豊臣家の埋蔵金」といえば、天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)と言われていますが、実際のところ、天正長大判ってどんな大判なのか見てみたいですよね~。^^
フフフ・・・、実は天正長大判って『とある場所』にあるんです。
後日、日を改めまして、その『とある場所』へ天正長大判を見に行ってきました。^^
それはココ・・・
【造幣局】 大阪市北区
造幣局は、大阪市に本局、東京都及び広島市に支局をもつ独立行政法人です。春には「桜の通り抜け」で有名なところですね~。^^
ここの造幣局の構内に『造幣博物館』があります。
造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風建物です。
昭和44年(1969年)に建物の保存を図り、当局が保管していた貴重な貨幣などを一般公開し、造幣事業を紹介するため当時の外観をそのままに改装し、「造幣博物館」として開館しました。
ここに、秀吉の天正長大判があるんです。
では、どうぞ~。
豊臣家の埋蔵金ついに発見いたしました~。^^
【天正長大判】
《表面》
《裏面》
【天正菱大判】
《表面》
《裏面》
説明文によれば、『天正長大判』は秀吉が造らせた長さ17.5cm 幅10.2cmもある世界最大級の金貨で、当時この大判一枚で30年分の米が買えたそうです。
『天正菱大判』は現存する枚数が極めて少ないため、評価不能とのこと。一説によればこの一枚が一億円以上するといわれています。
『天正長大判』も『天正菱大判』もすべて本物です。
て、いうか大判・小判に限らず造幣博物館に展示してある貨幣はすべて本物だそうです。係の人が自信ありげにそう言ってました。さすが造幣局の博物館です。本物の大判、小判のド迫力が味わえます。^^
宝の山ですよ~。大判、小判がザックザク状態です。ここにある貨幣の全ての鑑定額を合計したらいったいいくらになるんでしょうか~。^^
あ~っ、もう秀吉の埋蔵金の本物が見れただけでも幸せです。はたして多田銀山の坑道奥深くに、この大判が4億5千万両も眠っているのでしょうか~。永遠の謎ですね。^^
さあ、ふしぎ探検隊は大坂城へ・・・
現在の大坂城は「大阪城公園」として、たくさんの人で賑わっていますが、天守閣の北側にひっそりとした一角があります。
慶長3年(1598年)夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。自分の死後の秀頼の身を案じた秀吉は、勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させた・・・。
これが「豊臣家の埋蔵金」伝説の始まりでした。
それから17年後の慶長20年の大阪夏の陣において、大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀君がこの地で自刃して果てました。
豊臣家の滅亡とともに、「豊臣家の埋蔵金」も深い謎に包まれてしまいました。
何思う太閤秀吉公・・・。
なにわのことは夢のまた夢・・・なのですね。
では、また。
多田銀山資料館「悠久の館」にバイクを停め、歩いて銀山橋を越え、代官所跡へ向かいます。
途中、オモシロ石灯籠を発見!^^
あはは、すごく重そうです。(笑)
絢爛豪華な豊臣家を支えるために、下々の者はこんな感じだったのでしょうか。ツライわ~。TT
こんなところを通って代官所跡へ・・・
この辺の岩肌って違うんですよ。
どう見ても普通の岩石ではないですよね。これも鉱石なのでしょうか。
代官所跡に到着~。
この代官所跡は先程の『悠久の館』の川を挟んだ真向いにあります。
ちなみに、かつてはこんな感じだったそうです。^^
江戸時代の代官所の復元模型です。ここでお代官さまが目を光らせていたわけですね。^^
代官所跡に石碑を発見!
この石碑も鉱石っぽいですよね。^^
さてさて、代官所跡からメインストリートに戻って埋蔵金探索を続けます。
メインストリートといっても車1台が通れるぐらいの幅しかありません!
が、かつて多田銀山の盛山期のこの辺りは、「銀山三千軒」と言われるほどの賑わいを見せたそうです。
古絵図を見てみると、銀山の谷筋に沿って、ビッシリと建物が画かれています。
今は、自然の中に埋もれて行ったかつての面影が残るだけです。
立派な門構えの家屋の前にやって来ました。
「銀山代官所の門」だそうです。
先ほど見た代官所の中門だったの門をここに移築したとのこと。本来は馬に乗ったまま通れるくらいの高さだったそうですが、民家用に低くしたみたいです。^^
おっ、川沿いにかつての「平炉跡」を発見!
野面積みの石垣が歴史を感じさせます。
ここで、鉱石から銀や銅が製錬されていたのですね。^^
さ~て、「平炉跡」の近くにある「金山彦神社」に寄り道しますよ~。^^
この神社は平安時代の大同2年(807年)に建立されたと伝えられる歴史ある神社です。
古来より鉱山の神で、現在でも地元の人々からの篤い信仰をあつめています。
おっと~、境内にはハイカーを装った多くのトレジャーハンター達が昼食をとっています!
ここ多田銀山跡には観光客を装ったトレジャーハンター達や、ラブラブカッポーを装った男女のトレジャーハンターもいます。油断出来ません!
自分もこんなところでグズグズしてるヒマはありません! 先を越されてなるものか~。(笑)
さあ、間歩(坑道)へ行ってみましょう。
おおっ、ついに青木間歩の坑道入り口を発見しました!^^
こ、この奥に豊臣家の埋蔵金が眠っているのでしょうか~。
意を決して、坑道へ突入します。いざ~!
坑内はこんな感じですが、写真はフラッシュ撮影していますので、実際はもっと薄暗いです。
ねっ、薄暗いでしょ。坑内には照明も所々ありますが、ここは薄暗い沈黙の世界です。
現在ではライトによる照明がありますが、江戸時代の坑内はどうだったのでしょう。
多田銀山資料館「悠久の館」でもらった資料の中に、江戸時代の採掘現場のあかりについての説明が載っていました。
それによると、サザエの貝殻に油を入れて火を灯していたそうです。それでも暗過ぎますよね~。
豊臣家の埋蔵金を求めて、奥へ奥へと突き進みます。
坑内の温度は7℃ぐらいです。ひんやりとしています。
鋭く削り取った鉱脈の跡が生々しいです。
おおっと、こんな注意書きがありました!
ヒィー((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
これは鉱石っぽいですよね。^^
説明案内によるとこの鉱脈は白亜紀後期の6400万年前に生成されたものだそうです。
凄いですね~。今、自分は6400万年前の地層の中にいます。^^
それにしても、鉱石1トンに対して銀が600g弱しか採れないんですね。銅は20kgぐらいは採れるみたいですけど。
さらに奥へズンズン進むと・・・
おっと。これはいったい何だ~。
あ~っ、行き止まりだ~。
残念~、これ以上進めません!
う~ん、ここには豊臣家の埋蔵金はなかったか~。TT
ここ青木間歩は、多田銀山跡で唯一坑道内を体感出来るので、観光客を装ったトレジャーハンター達に人気です。
午前9時から夕方5時まで自由に見学出来ます。^^
さて、多田銀山の間歩(坑道)はここだけではありませんので、次の間歩へと向かいます。
【瓢箪間歩大露頭(露出岩部分)】
凄いですね~。鉱脈が地表に大規模に露出している部分です。
ここは、穴を掘らなくても地表から採掘出来たんですね。ノミやタガネの跡が迫力ありますね~。
なので、この辺は鉱石らしき欠片がゴロゴロしています。
そして、やって来ました『台所間歩』
大坂城の台所(財政)を潤すほどの大量の銀・銅の産出量を誇ったことから、『台所間歩』っていう名称がついたといわれています。解りやすいけど、えげつな~いネーミング~。^^
いくら、武力で天下を統一したとはいえ、潤沢な財政の裏付けがなければ、豪華絢爛な豊臣政権は維持出来なかったでしょうね。
ちなみに江戸時代のこの辺りはこんな感じになっています。
沢山の間歩(坑道)があったみたいです。^^
さて、台所間歩に突入・・・。えっ!
はっ、入れない~。TT
奥を覗くと、どうやら崩れているみたいです。
奥に、妖しげに光っているのは、銀鉱脈でしょうか。それにしても残念だ~。
まあ、豊臣関係の間歩(坑道)はここだけではありませんので、『瓢箪間歩』へ向かいます。
ついにやって来ました『瓢箪間歩』
しか~し・・・
こちらも入れませ~ん。TT
代官所のお役人さまが見張っています。
それでも、お役人さまの目を盗んで、カメラを突っ込んで中の様子を撮ってみます。
う~ん、厳重に入り口は閉じられていますね~。これは怪しいぞ~。この奥にはもしかすると豊臣家の埋蔵金が・・・。
この『瓢箪間歩』は豊臣秀吉が自身の馬印である「千成瓢箪」を掲げることを許したと伝えられるほど、銀・銅の産出量が多かったといわれている間歩(坑道)です。他の間歩に比べて坑道の入り口がデカイですね~。秀吉が馬にまたがったまま入坑したというエピソードが残されています。
結局、多田銀山跡で豊臣家の埋蔵金を発見することは出来ませんでした。
そうですよね、ここは昔から多くのトレジャーハンター達が豊臣家の埋蔵金伝説に魅かれて宝探しをした場所です。なかにはこの地に居ついて埋蔵金探しに人生を捧げちゃった人もいるぐらいですから、そう簡単には見つかるわけはありません・・・。
夢は永遠に夢なのか・・・。
今は静かな多田銀銅山跡ですが、かつての繁栄ぶりに想いを馳せながらこの地を後にしました。
しか~し、この埋蔵金探しはまだ続きがあります。
「豊臣家の埋蔵金」といえば、天正長大判4億5千万両と金塊3万貫(112.5トン)と言われていますが、実際のところ、天正長大判ってどんな大判なのか見てみたいですよね~。^^
フフフ・・・、実は天正長大判って『とある場所』にあるんです。
後日、日を改めまして、その『とある場所』へ天正長大判を見に行ってきました。^^
それはココ・・・
【造幣局】 大阪市北区
造幣局は、大阪市に本局、東京都及び広島市に支局をもつ独立行政法人です。春には「桜の通り抜け」で有名なところですね~。^^
ここの造幣局の構内に『造幣博物館』があります。
造幣博物館は、明治44年(1911年)に火力発電所として建てられた建物で、造幣局構内に残る唯一の明治時代のレンガ造りの西洋風建物です。
昭和44年(1969年)に建物の保存を図り、当局が保管していた貴重な貨幣などを一般公開し、造幣事業を紹介するため当時の外観をそのままに改装し、「造幣博物館」として開館しました。
ここに、秀吉の天正長大判があるんです。
では、どうぞ~。
豊臣家の埋蔵金ついに発見いたしました~。^^
【天正長大判】
《表面》
《裏面》
【天正菱大判】
《表面》
《裏面》
説明文によれば、『天正長大判』は秀吉が造らせた長さ17.5cm 幅10.2cmもある世界最大級の金貨で、当時この大判一枚で30年分の米が買えたそうです。
『天正菱大判』は現存する枚数が極めて少ないため、評価不能とのこと。一説によればこの一枚が一億円以上するといわれています。
『天正長大判』も『天正菱大判』もすべて本物です。
て、いうか大判・小判に限らず造幣博物館に展示してある貨幣はすべて本物だそうです。係の人が自信ありげにそう言ってました。さすが造幣局の博物館です。本物の大判、小判のド迫力が味わえます。^^
宝の山ですよ~。大判、小判がザックザク状態です。ここにある貨幣の全ての鑑定額を合計したらいったいいくらになるんでしょうか~。^^
あ~っ、もう秀吉の埋蔵金の本物が見れただけでも幸せです。はたして多田銀山の坑道奥深くに、この大判が4億5千万両も眠っているのでしょうか~。永遠の謎ですね。^^
さあ、ふしぎ探検隊は大坂城へ・・・
現在の大坂城は「大阪城公園」として、たくさんの人で賑わっていますが、天守閣の北側にひっそりとした一角があります。
慶長3年(1598年)夏、豊臣秀吉が死の床についたとき、後継ぎの秀頼はまだ6歳。自分の死後の秀頼の身を案じた秀吉は、勘定奉行の幡野三郎光照に命じて莫大な黄金を埋蔵させた・・・。
これが「豊臣家の埋蔵金」伝説の始まりでした。
それから17年後の慶長20年の大阪夏の陣において、大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀君がこの地で自刃して果てました。
豊臣家の滅亡とともに、「豊臣家の埋蔵金」も深い謎に包まれてしまいました。
何思う太閤秀吉公・・・。
なにわのことは夢のまた夢・・・なのですね。
では、また。
2010-10-31 23:37
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銀山から…造幣局?(襲撃?)かと思ったら、大判小判がザックザク!
桜の通り抜けしか知りませんでした、こういう博物館も構内にあるのですね。
by hanamura (2010-11-01 05:34)
1トンに対して銀が600g・・・昔の人たちは重機がないので相当な苦労だったと思います。秀吉公・・・「探せるものなら・・・」と言っていそうですね。^^;
by ソニックマイヅル (2010-11-01 10:23)
どれも立ち入り禁止って。。。トレジャーハンターの仕業かも。。。
埋蔵金がなかったからって造幣局に行くなんて (*≧m≦*)ププッ
もしかして展示してあったのが埋蔵金だったりして(ノ∇≦*) キャハッッッッ♪
大阪城 綺麗ですよね~
修学旅行で行ったかな^^v
by chie (2010-11-01 21:53)
大阪城のすぐ近くにそんな面白そうなところがあったんですね
興味津々です ヽ(´ー`)ノ(ノ´ー`)ノ(ノ´ー)ノ
by Sazaby (2010-11-01 23:45)
埋蔵金続編~~(∩´∀`)∩ワーイ
しかし結果は・・・残念でした_| ̄|○
私はsusumuさんブログで部屋にいながらにして探検気分を満喫できましたがね(´∀`*)ウフフ
自分で行くのは、暗いし 崩れそうだし ちょっと怖そうなので・・・。
台所間歩 怖すぎっ!!
それにしても 黄金の国ジパング、と言うだけに昔は金銀銅など鉱物が豊かな国だったのですね。平安時代から銅が採れていたなんて。
鉱物がたくさん出た頃は、大勢の坑夫や宿やお店が立ち並びさぞかし賑わっていたことでしょう。採るものだけ採ったら廃れていく・・・その残骸がちょっと悲しいですね~。
大阪造幣局にの大判は凄いですね~。
目が眩みそうだ!30年分の米って・・・
それと、面白石燈籠のセンスはとっても( ・∀・)イイ!!
by suzy (2010-11-02 00:08)
あの変な灯籠の下に埋蔵金があるのでは、∑(゚Д゚)
by yosi (2010-11-02 15:35)
天正長大判 う~ん、妖しいまでの輝きと存在感!!
え~もん見せて貰いました。
by yasukun (2010-11-03 08:41)
◇hanamuraさんへ
本当は多田銀山の後に造幣局と大坂城に寄り道したかったのですが
あまりに多田銀山の埋蔵金探しが楽しかったものですから、造幣局・
大坂城へは後日訪問となりました。^^
造幣博物館はあまり期待しないで行ったところ、展示内容がとても充実
していたので、とても良かったです。ここは、オススメですね~。^^
by susumu (2010-11-03 19:38)
◇ソニックマイヅルさんへ
昔はノミやタガネしか無かったので本当に大変だったと思います。
この多田銀山は平安時代から採掘の歴史がありますので、
代々採掘の技術が磨かれて受け継がれていったのでしょう。
埋蔵金は簡単に見つからないからこそ、人々を魅了して止まないのでしょうね。
まさに、秀吉公は「探せるものなら・・・」と笑っていそうですね。^^
by susumu (2010-11-03 19:47)
◇chieさんへ
この辺は2千もの間歩があったといわれていますので、他にも間歩はありましたが、奥は崩れているみたいでやっぱり、危険ですね。
埋蔵金伝説は伝説のままの方がロマンがあっていいかも・・・。^^
造幣局、とても良かったです。体験コーナーとかもあって、大人はもちろん、子供達も楽しめる内容になっています。金が大好きな大人の修学旅行にピッタリ。今の大坂城は外国人のツアーの方々が多いです。(笑)
by susumu (2010-11-03 20:21)
◇Sazabyさんへ
そう、造幣局は大坂城の近くにありますよ~。^^
造幣博物館は造幣局の構内にあるだけに、入り口の守衛さんの詰所で名前とか書かされますが、意外に親切な対応だったのでホッとしました。別にやましいことは無いんですけどね~。(笑)
ここは、オススメですね~。
予約すれば、工場見学も出来ますよ~。^^
by susumu (2010-11-03 20:31)
楽しそうな旅してきましたね。
埋蔵金はここの中に!!いやいや次?それともって
読んでて楽しかったですよ。
坑道跡は入ってみたいですね。
落ちている鉱石はお持ち帰りしちゃったのかな?
埋蔵金はいつになってもロマンがあるものなんでしょうね。
テレビでもやってたことありましたが
ついつい見てましたよ。
by かいかい (2010-11-03 21:06)
◇suzyさんへ
まあ、結果は残念だったけど、とっても楽しかった~。^^
もともと鍾乳洞とか、地底探検ぽくって大好きだったんですけど、坑道探検は初めてでしたね~。子供の頃に読んだ、ジュール・ヴェルヌのSF小説「地底探検」の影響でしょうか。わくわくしますね~。^^
ただ、実際に間歩が崩れているところを見ると、やっぱり怖いですね。
ここでも、昔から落盤事故はあったんだろうなって思います。
人柱はいやじゃ~。(笑)
最盛期は本当にスゴイ人だったんだろうなって思います。ここ多田銀山は昭和48年(1973年)まで日本鉱業によって採掘されていました。明治の頃は、あの弥太郎の三菱が採掘していたそうです。弥太郎が「豊臣家の埋蔵金は全部オレのもんぜよ~」って叫んでそうですけどね~。^^
造幣局の天正大判は迫力ありました。表面のゴツゴツ感とか、やっぱり本物だな~って感じでした。400百年以上の時が過ぎてもその輝きはいささかも失われないんですね。やっぱ、金ですよ、金・・・。(笑)
金といえば、純金のインゴットも置いてありました。いわゆるフォーナインといわれている本物の金の延べ棒です。純度99.99%の金の延べ棒を触ることが出来ます。時価5500万円也~(笑)
by susumu (2010-11-03 21:06)
◇yosiさんへ
おおっ、そ~か~、あの石灯籠の下なのか~(笑)
笑って通り過ぎたけど、意外にあの下は盲点かも~。
でも、あの石灯籠には笑わさせていただきました。大好きだな~。
「マジ受けるんだけど~」状態でしたね~。(笑)
by susumu (2010-11-03 21:19)
◇yasukunさんへ
天正長大判はやっぱりデカイです。あんなもの財布には入りません。(笑)
400年以上もの歳月と経ているのにピカピカでした。やっぱり金ですね。
徳川時代の大判小判もありましたが、ちょっと地味でした。それにしても、豊臣の大判はド迫力あります。(笑)
by susumu (2010-11-03 21:25)
◇かいかいさんへ
いや~、埋蔵金探し楽しかったです。(笑)
時間経つのも忘れて、歩き回っていました~。
おかげで造幣局と大坂城は後日なりましたけど・・・。
埋蔵金探しではなくて、坑道探検をお望みでしたら、「生野銀山」をオススメします。ここは規模といい、展示内容といい、とっても充実しているようですよ~。
自分もここはぜひ行ってみたいと思っています。^^
鉱石は「持ち帰らないように!」との看板がありましたよ。(笑)
by susumu (2010-11-03 21:46)
お宝探しもなかなかたいへんですねぇ。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
大阪城の下から埋蔵金を保管する場所への通路が伸びてたり?
by ゆき (2010-11-04 23:57)
◇ゆきさんへ
大坂城の下には、様々な抜け穴があったと言われていますよね。
その中の一つが埋蔵金への抜け穴だったとしても、不思議では
ないですね。^^
夢は膨らむばかりです~。^^
by susumu (2010-11-06 20:56)
平炉跡の石垣のやれ具合が古さを感じますね。
大阪城の写真も迫力があります。
大判のディスプレイ、まるでiPhoneですね(笑)。
by ANIKI (2010-11-08 23:28)
◇ANIKIさんへ
多田銀山は昭和の時代まで採掘されていたそうです。
平炉跡は江戸期のももですが、このほかにも明治期の
赤レンガでできた精錬所跡とかもあるそうですが、今回は
すっかり草木に覆われて見ることは出来ませんでした。
造幣博物館は昨年の4月にリニューアルオープンしたそうで
とっても綺麗でしたよ。楽しめました~。^^
by susumu (2010-11-10 04:44)
とつぜんですが、出雲安来の古事記話は本当だったみたいです。金山の神々はみんなそのあたりでお生まれになった。来年は古事記1300年ということで島根県では盛大な観光キャンペーンをやるみたいです。
by スサノオ (2011-12-17 23:57)
◇スサノオさんへ
MYブログへご訪問&コメントありがとうございます。^^
古事記1300年ですか~、来年はぜひ出雲へ行ってみたいですね。
神話の世界にどっぷりとつかってみたいデス。^^v
by susumu (2011-12-18 21:46)