冬の長浜へ・・・ 石田三成の終幕そして出逢い・・・ 【滋賀県 長浜市】 [日記]
は~い、皆さま、少しずつ寒さも和らいで来て、春も少しづつ近づいてきているなあって感じの今日この頃ですが、いかがお過ごしでしょうか。^^
今回は、ワゴンRでのお出かけです。
この日は、前回の松平郷に行った日の翌日、2月13日(日)ですね。
前日の夜からチラホラと雪が降り始め、翌朝にはやんでいたのですが、路面がウエットな状態でしたので、バイクでのお出かけは止めときました。TT
なので今回はワゴンRでGo!
自分の家からちょっと行ったところにある、いなべ市の両ヶ池にも薄っすら雪が積もっていました。
カモさんたちも寒そうデス。
さて、今回は何処へ行こうかな・・・。
そういえば滋賀県の長浜市にある長浜城で浅井三姉妹の企画展をやっていたな~ってことで、
今回は長浜城へ・・・。
三重県の自分家から滋賀県の長浜市へは岐阜県の関ヶ原を通って行きますので、ちょっと関ヶ原の古戦場へ寄り道します。^^
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)午前8時、朝霧がたちこめる関ヶ原で・・・
徳川家康率いる東軍と・・・
石田三成率いる西軍が・・・
この関ヶ原の地で激突しました。
そう、皆さんよくご存知の、天下分目の合戦 『関ヶ原の戦い』です。
ここ決戦地は激戦を経て、戦の勝敗が決まった場所ですね。
この決戦地から笹尾山の石田三成の陣が見えます。
それでは、笹尾山の石田三成の陣へ行ってみましょう。
笹尾山の石田三成の陣の麓には石田三成の猛将『島 左近』の陣跡があります。
『島 左近』がどんな人だったかというと・・・
こんな人だったみたいです。(笑) どこかで見たぞ・・・ 《しまさこにゃん》 ^^
まあ、石田三成がその家禄の半分を与えて召抱えたほどの武将ですが、肖像画などは一切残っていなくてよくわからないんですね。^^
島 左近の陣近くから関ヶ原決戦地を望みます。
現在の関ヶ原決戦地あたりは農地となっていて、その平和な風景から普段はなかなか天下分目の戦いのイメージをしにくいのですが、今日は薄っすらと雪景色なので、かつての激闘をイメージし易いですね。^^
はじめは有利に戦った西軍でしたが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなります。
石田隊の前線で東軍の田中吉政、黒田長政と激しい戦いを行っていた左近は、敗色濃厚となるや討ち死にを決意。残り少ない兵で正面の田中吉政、黒田長政隊に突撃を敢行。
その戦いぶりは凄まじく、瞬く間に田中隊を300メートルも後退させる奮闘を見せたのですが、やがて力尽き討ち死にしたそうです。
「彼の戦場での姿を思い出すと身も凍る思いがする」・・・後に黒田家の武将がこう語ったといいます。
東軍の名だたる武将たちを震え上がらせた男・・・島 左近
そんな島 左近に思いを馳せながら、笹尾山の石田三成の陣跡へ・・・
何度も雪が降っては凍ったのでしょう。雪がガチガチに凍りついていて登りづらいです。TT
で、石田三成陣跡へ到着~。
では、三成の陣から関ヶ原を見渡しましょう。
関ヶ原の戦い開戦当初、徳川家康は桃配山に陣を張っていました。
こんな感じで三成は家康と対峙し、東西合わせて16万を超える軍勢の激闘を見つめていたのでしょう。
家康は戦いが進むにつれ、桃配山から前方へ陣を進めます。
普通なら挟撃される可能性がある場所へ陣を進めないだろうって思うけど、こうしてみると家康は背後から毛利軍が襲ってこない絶対の自信があったんだろうなって思います。
家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えました。迷いに迷っていた小早川秀秋は、松尾山から一気に東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷吉継隊の右翼を攻撃します・・・。
笹尾山の石田三成の陣から松尾山の小早川秀秋の陣ははっきりと見えます。
三成は小早川秀秋のこの裏切りをどのように見つめていたのでしょうか。
小早川秀秋らの裏切りにより、西軍の大谷隊は壊滅し、東軍は総攻撃を開始します。
西軍は総崩れとなり、石田隊も島 左近らの奮戦むなしく壊滅します。
ここに天下分目の合戦は雌雄を決しました・・・。
戦場を離脱した三成は、伊吹山から近江の古橋村へ逃れましたが、やがて家康の手の者に捕縛されました。
そして、家康の命により六条河原で斬首され、その波乱に満ちた生涯に幕を降ろしました。
享年41歳でした。
さて、ワゴンRは滋賀県の長浜を目指して北上します。
気温は1℃。バイクだと凍えていますが、今日は車なので暖か~。^^
途中、伊吹山をバックに記念撮影~。
『伊吹山』・・・岐阜県と滋賀県の境にあり、滋賀県の最高峰で霊山ですね。
自分にとっては「大地に描かれた五芒星」の一つです。
今は雪に覆われていて、登ることは困難ですので、暖かくなりましたら登ってみたいと思います。^^
で、琵琶湖へ~
長浜港~
びわこ縦走雪見船って風情ありますよね。乗ってみたかったな・・・。^^
カワウでしょうかね~。^^
あっそうだ、今回は長浜城の企画展に行くんだった・・・。(笑)
【長浜城】
天正元年(1573年)9月、浅井家滅亡の後、姉川の合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その武功によって浅井氏の領国の大部分を与えられました。
秀吉はその後、今浜の地に築城を開始し、今浜を長浜と改めました。
信長の名から一字拝領し長浜に改名したそうです。なんとも秀吉らしいなあ~。(笑)
この天守閣は昭和58年(1983年)に再興された模擬天守ですね。
今回はこれを見に来ました。^^
第2回 テーマ展 「賤ヶ岳合戦と浅井三姉妹」
テーマ展としては第2回目なので羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争いである「賤ヶ岳合戦」と浅井三姉妹にスポットをあてた展示内容です。
三姉妹の母 お市の方が柴田勝家の妻となったため、三姉妹は北ノ庄城落城とともに母 お市の方を失う悲劇を味わうことになる・・・
まあ、大河ドラマとリンクしてる素敵な演出ですね。(笑)
写真撮影できませんので、写真はありませんが、三姉妹の義父 柴田勝家関係の展示が充実していた企画展でした~。
三姉妹と父 浅井長政や母 お市の方との悲しい別れのシーンが書かれた絵もありましたよ~。^^
天守閣の展望室からの琵琶湖の眺めです。晴れていたらもっと綺麗なのにな~。
長浜城を出て、街の方へ・・・
秀吉の頃の長浜城の推定復元図ですね。
秀吉が小谷城から長浜城へ拠点を移した理由は、やっぱり琵琶湖の水運でしょうね。
長浜は秀吉が造った街です。現在でも長浜は湖北の水運・陸運の拠点です。
そして、長浜の街をブラブラ~。^^
腹へった~。長浜名物でも食べに行きますか~。
『焼鯖そうめん』 ~ ^^
《翼果楼》 YOKARO
創業以来、守り続けた郷土料理「焼鯖そうめん」の専門店。
店内は築200年の商家を生かした造りとなっております。^^
注文したのは・・・
焼鯖寿司とセットになった 『鯖街道』
長浜には、「五月見舞い」といって、農家へ嫁いだ娘のもとへ、娘を案じる親が焼鯖を届ける風習があります。その焼鯖とそうめんを炊き合わせて作る「焼鯖そうめん」は長浜の郷土料理です。
琵琶湖に面した長浜がなぜ「鯖」なのかって思う方もいらっしゃると思いますが、琵琶湖の西方にその昔、若狭国の小浜藩から「京の都」へ、若狭湾で獲れた鯖などの海産物を運んだ「鯖街道」といわれた道があったそうです。
水運の発達した長浜では北国の海産物を容易に手に入れることができたのでしょう。
そんな、親の愛、おもてなしの心がこもった「焼鯖そうめん」をいっただきます~。^^
ほほっ、いけるなコレ・・・。
焼さばを甘辛く炊き込んで、そのだし汁で茹で上がったそうめんを軽く炊いて、そうめんの上に炊いた焼さばを盛り付けたものですね。
芸が細かいことに、お吸い物には鯖が泳いでいます。^^
御飯ものが好きな自分は焼鯖寿司が美味しかった・・・
油が乗った焼鯖とシャリの間に・・・
生姜スライスが挟んであります。
これが絶品! 美味い~。^^
秀吉が造った長浜の街は、江戸時代の面影を残す古い街並みと、ガラス工房、ステンドグラスや世界のガラス芸術を展示するギャラリーなどをはじめ、ノスタルジックな趣が漂うガラスの町「黒壁スクエア」が魅力です。
そんな素敵な街 長浜・・・
JR長浜駅前にはこんな像があります・・・
《出逢い》
秀吉と出逢ってからすべてが始まりました・・・。
信長の 一字貰いし 長浜で 出逢いし佐吉 恩に報いん ~ susumu ~
秀吉も信長と出逢ったように、三成もまた秀吉と出逢った。
人は、その人にとって人生を賭けるに値する人と出逢うことがあるのですね・・・。
では、また。
今回は、ワゴンRでのお出かけです。
この日は、前回の松平郷に行った日の翌日、2月13日(日)ですね。
前日の夜からチラホラと雪が降り始め、翌朝にはやんでいたのですが、路面がウエットな状態でしたので、バイクでのお出かけは止めときました。TT
なので今回はワゴンRでGo!
自分の家からちょっと行ったところにある、いなべ市の両ヶ池にも薄っすら雪が積もっていました。
カモさんたちも寒そうデス。
さて、今回は何処へ行こうかな・・・。
そういえば滋賀県の長浜市にある長浜城で浅井三姉妹の企画展をやっていたな~ってことで、
今回は長浜城へ・・・。
三重県の自分家から滋賀県の長浜市へは岐阜県の関ヶ原を通って行きますので、ちょっと関ヶ原の古戦場へ寄り道します。^^
慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)午前8時、朝霧がたちこめる関ヶ原で・・・
徳川家康率いる東軍と・・・
石田三成率いる西軍が・・・
この関ヶ原の地で激突しました。
そう、皆さんよくご存知の、天下分目の合戦 『関ヶ原の戦い』です。
ここ決戦地は激戦を経て、戦の勝敗が決まった場所ですね。
この決戦地から笹尾山の石田三成の陣が見えます。
それでは、笹尾山の石田三成の陣へ行ってみましょう。
笹尾山の石田三成の陣の麓には石田三成の猛将『島 左近』の陣跡があります。
『島 左近』がどんな人だったかというと・・・
こんな人だったみたいです。(笑) どこかで見たぞ・・・ 《しまさこにゃん》 ^^
まあ、石田三成がその家禄の半分を与えて召抱えたほどの武将ですが、肖像画などは一切残っていなくてよくわからないんですね。^^
島 左近の陣近くから関ヶ原決戦地を望みます。
現在の関ヶ原決戦地あたりは農地となっていて、その平和な風景から普段はなかなか天下分目の戦いのイメージをしにくいのですが、今日は薄っすらと雪景色なので、かつての激闘をイメージし易いですね。^^
はじめは有利に戦った西軍でしたが、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなります。
石田隊の前線で東軍の田中吉政、黒田長政と激しい戦いを行っていた左近は、敗色濃厚となるや討ち死にを決意。残り少ない兵で正面の田中吉政、黒田長政隊に突撃を敢行。
その戦いぶりは凄まじく、瞬く間に田中隊を300メートルも後退させる奮闘を見せたのですが、やがて力尽き討ち死にしたそうです。
「彼の戦場での姿を思い出すと身も凍る思いがする」・・・後に黒田家の武将がこう語ったといいます。
東軍の名だたる武将たちを震え上がらせた男・・・島 左近
そんな島 左近に思いを馳せながら、笹尾山の石田三成の陣跡へ・・・
何度も雪が降っては凍ったのでしょう。雪がガチガチに凍りついていて登りづらいです。TT
で、石田三成陣跡へ到着~。
では、三成の陣から関ヶ原を見渡しましょう。
関ヶ原の戦い開戦当初、徳川家康は桃配山に陣を張っていました。
こんな感じで三成は家康と対峙し、東西合わせて16万を超える軍勢の激闘を見つめていたのでしょう。
家康は戦いが進むにつれ、桃配山から前方へ陣を進めます。
普通なら挟撃される可能性がある場所へ陣を進めないだろうって思うけど、こうしてみると家康は背後から毛利軍が襲ってこない絶対の自信があったんだろうなって思います。
家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えました。迷いに迷っていた小早川秀秋は、松尾山から一気に東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷吉継隊の右翼を攻撃します・・・。
笹尾山の石田三成の陣から松尾山の小早川秀秋の陣ははっきりと見えます。
三成は小早川秀秋のこの裏切りをどのように見つめていたのでしょうか。
小早川秀秋らの裏切りにより、西軍の大谷隊は壊滅し、東軍は総攻撃を開始します。
西軍は総崩れとなり、石田隊も島 左近らの奮戦むなしく壊滅します。
ここに天下分目の合戦は雌雄を決しました・・・。
戦場を離脱した三成は、伊吹山から近江の古橋村へ逃れましたが、やがて家康の手の者に捕縛されました。
そして、家康の命により六条河原で斬首され、その波乱に満ちた生涯に幕を降ろしました。
享年41歳でした。
さて、ワゴンRは滋賀県の長浜を目指して北上します。
気温は1℃。バイクだと凍えていますが、今日は車なので暖か~。^^
途中、伊吹山をバックに記念撮影~。
『伊吹山』・・・岐阜県と滋賀県の境にあり、滋賀県の最高峰で霊山ですね。
自分にとっては「大地に描かれた五芒星」の一つです。
今は雪に覆われていて、登ることは困難ですので、暖かくなりましたら登ってみたいと思います。^^
で、琵琶湖へ~
長浜港~
びわこ縦走雪見船って風情ありますよね。乗ってみたかったな・・・。^^
カワウでしょうかね~。^^
あっそうだ、今回は長浜城の企画展に行くんだった・・・。(笑)
【長浜城】
天正元年(1573年)9月、浅井家滅亡の後、姉川の合戦と小谷攻めで手柄をあげた秀吉は、その武功によって浅井氏の領国の大部分を与えられました。
秀吉はその後、今浜の地に築城を開始し、今浜を長浜と改めました。
信長の名から一字拝領し長浜に改名したそうです。なんとも秀吉らしいなあ~。(笑)
この天守閣は昭和58年(1983年)に再興された模擬天守ですね。
今回はこれを見に来ました。^^
第2回 テーマ展 「賤ヶ岳合戦と浅井三姉妹」
テーマ展としては第2回目なので羽柴秀吉と柴田勝家の覇権争いである「賤ヶ岳合戦」と浅井三姉妹にスポットをあてた展示内容です。
三姉妹の母 お市の方が柴田勝家の妻となったため、三姉妹は北ノ庄城落城とともに母 お市の方を失う悲劇を味わうことになる・・・
まあ、大河ドラマとリンクしてる素敵な演出ですね。(笑)
写真撮影できませんので、写真はありませんが、三姉妹の義父 柴田勝家関係の展示が充実していた企画展でした~。
三姉妹と父 浅井長政や母 お市の方との悲しい別れのシーンが書かれた絵もありましたよ~。^^
天守閣の展望室からの琵琶湖の眺めです。晴れていたらもっと綺麗なのにな~。
長浜城を出て、街の方へ・・・
秀吉の頃の長浜城の推定復元図ですね。
秀吉が小谷城から長浜城へ拠点を移した理由は、やっぱり琵琶湖の水運でしょうね。
長浜は秀吉が造った街です。現在でも長浜は湖北の水運・陸運の拠点です。
そして、長浜の街をブラブラ~。^^
腹へった~。長浜名物でも食べに行きますか~。
『焼鯖そうめん』 ~ ^^
《翼果楼》 YOKARO
創業以来、守り続けた郷土料理「焼鯖そうめん」の専門店。
店内は築200年の商家を生かした造りとなっております。^^
注文したのは・・・
焼鯖寿司とセットになった 『鯖街道』
長浜には、「五月見舞い」といって、農家へ嫁いだ娘のもとへ、娘を案じる親が焼鯖を届ける風習があります。その焼鯖とそうめんを炊き合わせて作る「焼鯖そうめん」は長浜の郷土料理です。
琵琶湖に面した長浜がなぜ「鯖」なのかって思う方もいらっしゃると思いますが、琵琶湖の西方にその昔、若狭国の小浜藩から「京の都」へ、若狭湾で獲れた鯖などの海産物を運んだ「鯖街道」といわれた道があったそうです。
水運の発達した長浜では北国の海産物を容易に手に入れることができたのでしょう。
そんな、親の愛、おもてなしの心がこもった「焼鯖そうめん」をいっただきます~。^^
ほほっ、いけるなコレ・・・。
焼さばを甘辛く炊き込んで、そのだし汁で茹で上がったそうめんを軽く炊いて、そうめんの上に炊いた焼さばを盛り付けたものですね。
芸が細かいことに、お吸い物には鯖が泳いでいます。^^
御飯ものが好きな自分は焼鯖寿司が美味しかった・・・
油が乗った焼鯖とシャリの間に・・・
生姜スライスが挟んであります。
これが絶品! 美味い~。^^
秀吉が造った長浜の街は、江戸時代の面影を残す古い街並みと、ガラス工房、ステンドグラスや世界のガラス芸術を展示するギャラリーなどをはじめ、ノスタルジックな趣が漂うガラスの町「黒壁スクエア」が魅力です。
そんな素敵な街 長浜・・・
JR長浜駅前にはこんな像があります・・・
《出逢い》
秀吉と出逢ってからすべてが始まりました・・・。
信長の 一字貰いし 長浜で 出逢いし佐吉 恩に報いん ~ susumu ~
秀吉も信長と出逢ったように、三成もまた秀吉と出逢った。
人は、その人にとって人生を賭けるに値する人と出逢うことがあるのですね・・・。
では、また。