浜松日記 【静岡県 浜松市】 [日記]
みなさん大変長らくご無沙汰しておりましたが、いかがお過ごしだったでしょうか。^^
たまの休日、天気もいいし、こんな日はバイクでどこか遠くへ行きたいのですけど、今年は花粉症がひどくてそれどころではありません。TT
なので、今回はワゴンRでお出かけすることにしました。
天気予報では、北の日本海側は雪予報だったので、東の太平洋側へ行くことにしました。
伊勢湾岸道から東名高速へ・・・
そう、ここは・・・
『浜名湖』 静岡県浜松市浜名湖サービスエリア
そうです、今回は浜松に来ています。
東名高速道の浜名湖サービスエリアは眼下に広大な浜名湖が広がり、最高のロケーションを魅せてくれます。^^
ここは湖の見える公園になっていて、たくさんの人で賑わっています。
浜名湖名物といえば「うなぎ」ですね。^^
なので、美しい浜名湖を見ながら、うなぎをいただきま~す。
う~ん、最高!
浜名湖を巡る遊覧船もあるみたいですね。乗ってみたいなあ。^^
でも、今回はガマンですね。先を急ぎます・・・
で、到着~~ ^^
航空自衛隊 浜松広報館 『エアーパーク』
ここは飛行機や装備品の展示やシュミレーターや映像シアターもある、見て体験して楽しむことが出来る航空自衛隊のテーマパークです。
そしてここは入館料が無料なのです。^^
ご多分にもれず、ここも、レンホーさんの「タダでなければダメなのですか(怒)」っていう事業仕分にあい、一時期有料になったのですが、有料になったとたん入館者が激減してしまい、つい最近無料に戻ったといいます。(笑)
入り口付近にはF-104がお出迎え・・・
IJAPAN ^^
それでは中へ・・・
F-2のモックアップモデル
F-1のカットモデル
ここ航空自衛隊 浜松広報館 「エアーパーク」は航空自衛隊 浜松基地に隣接し、「エアーパーク」から滑走路が見渡せる素敵なところです。
通常の平日であれば、パイロットを養成するための訓練などが行われていて、ここから航空機の離発着が見れるのですが、現在行われているのかはわかりません。
平成23年3月11日に発生した東日本大震災に対して、災害派遣命令が下り、12日には浜松基地の派遣部隊が被災地へ向けて出発し、また基地所属の浜松救難隊は、救難機を被災地に派遣したそうです。
本当に、大変な任務だと思います。敬礼!
(腕が不自然に曲がっています・・・ 痛くないですか・・・) ^^
ここの3Fには航空機の離発着を見ながら本が読めるライブラリーコーナーもありますが・・・
内容がマニアックです。(笑)
「エアーパーク」には、展示格納庫もあり・・・
ゼロ戦なんかも見ることができます。^^
外には屋外展示機もあります。
なんだかファインディング・ニモっぽい・・・ (笑)
「エアーパーク」はホント楽しかったなあ。シアターでは迫力の巨大スクリーンでまるで自分が空を飛んでるようだったし、シュミレーターでは、戦闘機を操縦しました・・・墜落したけど・・・ ^^
さてさて、浜松といえば、こちらへ寄り道しました・・・
【浜松城】
徳川家康が織田信長と同盟していたころの居城です。
家康が天下を取った後は家康ゆかりの譜代大名が城主となり、ここの城主となった人は老中など出世していったそうです。
なので浜松城は別名「出世城」と呼ばれているそうです。ま、自分には関係ないけど・・・(笑)
そうそう、徳川家康公の像の近くで、リスを見ました。^^
あっ、鳥がいるって思ったけど、リスでした。 なんてリスだろ。。。
桜の季節の浜松城って綺麗なんだろうな・・・
帰るころはすっかり暗くなってしまいました。
では、また。
たまの休日、天気もいいし、こんな日はバイクでどこか遠くへ行きたいのですけど、今年は花粉症がひどくてそれどころではありません。TT
なので、今回はワゴンRでお出かけすることにしました。
天気予報では、北の日本海側は雪予報だったので、東の太平洋側へ行くことにしました。
伊勢湾岸道から東名高速へ・・・
そう、ここは・・・
『浜名湖』 静岡県浜松市浜名湖サービスエリア
そうです、今回は浜松に来ています。
東名高速道の浜名湖サービスエリアは眼下に広大な浜名湖が広がり、最高のロケーションを魅せてくれます。^^
ここは湖の見える公園になっていて、たくさんの人で賑わっています。
浜名湖名物といえば「うなぎ」ですね。^^
なので、美しい浜名湖を見ながら、うなぎをいただきま~す。
う~ん、最高!
浜名湖を巡る遊覧船もあるみたいですね。乗ってみたいなあ。^^
でも、今回はガマンですね。先を急ぎます・・・
で、到着~~ ^^
航空自衛隊 浜松広報館 『エアーパーク』
ここは飛行機や装備品の展示やシュミレーターや映像シアターもある、見て体験して楽しむことが出来る航空自衛隊のテーマパークです。
そしてここは入館料が無料なのです。^^
ご多分にもれず、ここも、レンホーさんの「タダでなければダメなのですか(怒)」っていう事業仕分にあい、一時期有料になったのですが、有料になったとたん入館者が激減してしまい、つい最近無料に戻ったといいます。(笑)
入り口付近にはF-104がお出迎え・・・
IJAPAN ^^
それでは中へ・・・
F-2のモックアップモデル
F-1のカットモデル
ここ航空自衛隊 浜松広報館 「エアーパーク」は航空自衛隊 浜松基地に隣接し、「エアーパーク」から滑走路が見渡せる素敵なところです。
通常の平日であれば、パイロットを養成するための訓練などが行われていて、ここから航空機の離発着が見れるのですが、現在行われているのかはわかりません。
平成23年3月11日に発生した東日本大震災に対して、災害派遣命令が下り、12日には浜松基地の派遣部隊が被災地へ向けて出発し、また基地所属の浜松救難隊は、救難機を被災地に派遣したそうです。
本当に、大変な任務だと思います。敬礼!
(腕が不自然に曲がっています・・・ 痛くないですか・・・) ^^
ここの3Fには航空機の離発着を見ながら本が読めるライブラリーコーナーもありますが・・・
内容がマニアックです。(笑)
「エアーパーク」には、展示格納庫もあり・・・
ゼロ戦なんかも見ることができます。^^
外には屋外展示機もあります。
なんだかファインディング・ニモっぽい・・・ (笑)
「エアーパーク」はホント楽しかったなあ。シアターでは迫力の巨大スクリーンでまるで自分が空を飛んでるようだったし、シュミレーターでは、戦闘機を操縦しました・・・墜落したけど・・・ ^^
さてさて、浜松といえば、こちらへ寄り道しました・・・
【浜松城】
徳川家康が織田信長と同盟していたころの居城です。
家康が天下を取った後は家康ゆかりの譜代大名が城主となり、ここの城主となった人は老中など出世していったそうです。
なので浜松城は別名「出世城」と呼ばれているそうです。ま、自分には関係ないけど・・・(笑)
そうそう、徳川家康公の像の近くで、リスを見ました。^^
あっ、鳥がいるって思ったけど、リスでした。 なんてリスだろ。。。
桜の季節の浜松城って綺麗なんだろうな・・・
帰るころはすっかり暗くなってしまいました。
では、また。
敦賀の晴明神社に行ってきたよ・・・ 【福井県 敦賀市】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
ちょっと遅くなりましたけど、福井県敦賀市にある「晴明神社」に行ってきました。^^
前回2/19(土)に敦賀の金ヶ崎城跡へ行ったんですが、帰ってから撮った写真を整理していると、市内に「晴明神社」があるのを見つけました。
どうしても気になっていたので、3/5(土)に敦賀の「晴明神社」へ・・・
やっぱり安倍晴明公ゆかりの神社でした。^^
敦賀の街の中にある本当に小さな神社です。
なぜ、ここに「晴明神社」あるのかというと・・・
「晴明神社」のご由緒によれば、安倍晴明公は正暦年間(990年~994年)に敦賀に住んで、天文・地文の研究をしていたみたいですね。
晴明公は延喜21年(921年)生まれということなので、敦賀に住んでいたころは70歳ぐらいのときですか・・・。
当時の年齢とすれば、かなりの高齢だと思いますが、そこまでしてこの地で何の研究していたのかとても興味深いところですね。^^
それでは中へ・・・
「写真撮ってもらってもかまいませんよ」ってお声をかけていただきましたので、ありがたく写真を撮らさせていただきました。^^
祭壇の下に小窓がありました。
この中には晴明公が、天文地文の研究に使ったとされる『祈念石』がありました。
神社の方の説明によると、この「祈念石」は晴明公自らお彫りになったものだと伝えられているそうです。
でも、何故敦賀なんだろう・・・
案内看板の説明を見てみると、 当時の敦賀は日本海に面し都にも近いことから、大陸との交易の玄関口として栄えた港町でした。当然ながら中国からの情報もひんぱんに届きます。陰陽道が古代中国の「陰陽五行説」を基礎にした学問であることをふまえると、敦賀は彼の研究に都合のいい場所だった……というのが有力な説なんだそうです。
でも・・・
最初に自分が晴明公ゆかりの神社を訪れたのは、晴明公生誕の地と伝えられている大阪 阿倍野の「安倍晴明神社」でした。
次に訪れたのは、京都 一条戻橋の「晴明神社」でしたね。
そして敦賀の「晴明神社」・・・
大阪・京都・敦賀・・・ もしかしたら・・・
あ、やっぱり・・・ ほぼ、一直線だ・・・ ^^
なんだろう、この直線は・・・ 偶然なのでしょうか・・・
でも、偶然にしてはちょっと出来過ぎてますので、晴明公ゆかりの神社が他にないか探してみました。
ありました・・・
岡山県浅口市鴨方町にある「安倍神社」・・・安倍晴明公がかつて居住し、その屋敷跡があったとされる地にあり、安倍晴明公を祀っています。
静岡県掛川市にある「水神宮(すいじんぐう)」・・・寛和元年(985年)、安倍晴明公が勧請したといういい伝えがある神社です。
この2つの神社を地図に当てはめてみると・・・
ああ、またまたびっくり・・・ ^^
先程の直線と大阪の「安倍晴明神社」の所で交わっています。実に不思議だ~。
この直線が意味するのはいったい何でしょうかね~。ワカリマセン・・・
晴明公は天文博士だったので、もしかするとこの直線は星の道なのではないでしょうか。
星を観察するに最適な場所に居を構え、移動していくうちに出来た星の道・・・
なんて、後世の自分が都合のいい解釈をしていますが・・・(笑)
謎、ですね。^^
【京都 晴明神社 安倍晴明公像】
晴明公・・・あなたは1000年後の未来人でさえ謎に包んでしまうのですね・・・。
では、また。
前回2/19(土)に敦賀の金ヶ崎城跡へ行ったんですが、帰ってから撮った写真を整理していると、市内に「晴明神社」があるのを見つけました。
どうしても気になっていたので、3/5(土)に敦賀の「晴明神社」へ・・・
やっぱり安倍晴明公ゆかりの神社でした。^^
敦賀の街の中にある本当に小さな神社です。
なぜ、ここに「晴明神社」あるのかというと・・・
「晴明神社」のご由緒によれば、安倍晴明公は正暦年間(990年~994年)に敦賀に住んで、天文・地文の研究をしていたみたいですね。
晴明公は延喜21年(921年)生まれということなので、敦賀に住んでいたころは70歳ぐらいのときですか・・・。
当時の年齢とすれば、かなりの高齢だと思いますが、そこまでしてこの地で何の研究していたのかとても興味深いところですね。^^
それでは中へ・・・
「写真撮ってもらってもかまいませんよ」ってお声をかけていただきましたので、ありがたく写真を撮らさせていただきました。^^
祭壇の下に小窓がありました。
この中には晴明公が、天文地文の研究に使ったとされる『祈念石』がありました。
神社の方の説明によると、この「祈念石」は晴明公自らお彫りになったものだと伝えられているそうです。
でも、何故敦賀なんだろう・・・
案内看板の説明を見てみると、 当時の敦賀は日本海に面し都にも近いことから、大陸との交易の玄関口として栄えた港町でした。当然ながら中国からの情報もひんぱんに届きます。陰陽道が古代中国の「陰陽五行説」を基礎にした学問であることをふまえると、敦賀は彼の研究に都合のいい場所だった……というのが有力な説なんだそうです。
でも・・・
最初に自分が晴明公ゆかりの神社を訪れたのは、晴明公生誕の地と伝えられている大阪 阿倍野の「安倍晴明神社」でした。
次に訪れたのは、京都 一条戻橋の「晴明神社」でしたね。
そして敦賀の「晴明神社」・・・
大阪・京都・敦賀・・・ もしかしたら・・・
あ、やっぱり・・・ ほぼ、一直線だ・・・ ^^
なんだろう、この直線は・・・ 偶然なのでしょうか・・・
でも、偶然にしてはちょっと出来過ぎてますので、晴明公ゆかりの神社が他にないか探してみました。
ありました・・・
岡山県浅口市鴨方町にある「安倍神社」・・・安倍晴明公がかつて居住し、その屋敷跡があったとされる地にあり、安倍晴明公を祀っています。
静岡県掛川市にある「水神宮(すいじんぐう)」・・・寛和元年(985年)、安倍晴明公が勧請したといういい伝えがある神社です。
この2つの神社を地図に当てはめてみると・・・
ああ、またまたびっくり・・・ ^^
先程の直線と大阪の「安倍晴明神社」の所で交わっています。実に不思議だ~。
この直線が意味するのはいったい何でしょうかね~。ワカリマセン・・・
晴明公は天文博士だったので、もしかするとこの直線は星の道なのではないでしょうか。
星を観察するに最適な場所に居を構え、移動していくうちに出来た星の道・・・
なんて、後世の自分が都合のいい解釈をしていますが・・・(笑)
謎、ですね。^^
【京都 晴明神社 安倍晴明公像】
晴明公・・・あなたは1000年後の未来人でさえ謎に包んでしまうのですね・・・。
では、また。
敦賀 金ヶ崎城登城記 ~幸福の階段を駆け上がれツーリング~ 【福井県 敦賀市 金ヶ崎城跡】 [日記]
皆さん、ご無沙汰しておりますが、いかがお過ごしでしょうか。^^
今日も鈴鹿山系の山々は綺麗ですね~。
この日は2月19日(土)です。
前回は滋賀県の長浜城へ大河ドラマ「江」~浅井三姉妹~の展示を見に行きましたが、今回はその浅井家滅亡のきっかけとなった、「金ヶ崎の退き口」の舞台である福井県敦賀市の金ヶ崎を訪れてみようと思います。^^
何はともあれ高速に乗ってGo!~
名神高速道路から北陸自動車道へ・・・
天気はいいけど、まだちょっと寒いので神田SAで休憩します。^^
寒いときはやっぱコレでしょう~~。^^
甘酒~~ もちろんアルコール度ゼロですが、気分だけでも暖まります。^^
お土産コーナーでは、キャラクターたちの熱い戦いが行われております・・・
「江」関連のコーナーでは、三姉妹キャラクターが乱立し、群雄割拠! まさに戦国時代です。
題して、”~キャラクターたちの戦国~”(笑)
はてさて、どの三姉妹が三姉妹キャラクターの天下を制するのでしょうか~。^^
は~い、そういうことで、もう敦賀の金ヶ崎に到着~。(笑)
で、やっぱりここ金ヶ崎は「金ヶ崎の退き口」の舞台です。
越前の朝倉攻めにために遠征していた信長のもとに、浅井長政へ嫁いでいた妹 「お市の方」より、両方共に結んでいる「小豆袋」が届いた・・・
信長はそれを見るなり長政の裏切りを察知し、自身は京へ向かって金ヶ崎を脱し、織田全軍を撤退させた。
信長軍の殿(しんがり)をつとめたのは、猿こと「羽柴秀吉」であった・・・
まあ、「小豆袋」のエピソードが史実かどうかは別として、信長のピンチだったのは確かで、浅井・朝倉軍に挟撃されれば逃げ場を失い全滅の可能性があったのだから、危機一髪のところでした。
では、金ヶ崎城跡の方へ行ってみます。^^
階段下に到着~。
案内図を見てみると・・・
なるほど、金崎宮を経て月見御殿跡へ行くのですね。
金ヶ崎城跡の説明文もありました。
(クリックすれば大きくなるよ) ^^
ふむふむ、この金ヶ崎城は信長軍の撤退戦の行われたところでもあり、太平記のころ、南北朝時代の戦いの舞台でもあったわけですね・・・。
で、花換祭ですか・・・
だから、階段下に気になる看板があったのですね。^^
『幸福の階段を駆け上がれ』ってですか。よう~し・・・。^^
Ninja君はお留守番~
では、いざ!
「駆け上がれ」って・・・運動不足の自分にはそんなの無理でした~ (笑)
でも、雰囲気のいい境内ですね。
石灯籠の苔生し具合も、いい感じです。^^
さすが、恋の宮です。社殿も華やか~。
ここ金崎宮の御祭神は後醍醐天皇の皇子 尊良親王と常良親王ですね。
南北朝時代の足利勢と新田義貞の戦いで、金ヶ崎城は落城し、城の陥落とともに恒良親王は捕らえられ、尊良親王は新田義貞の嫡男 義顕とともに自害したそうです。
なので、ここ金崎宮は戦前まで官幣神社でした。
やっぱり恋の宮ですね、「恋みくじ」がありました。^^
もちろん引いてみます。^^
おおっ、中吉ですか~。まあまあかな~。^^
でもよく読んでみると・・・
この歌、メチャメチャ悲しい歌やないですか~。
「儚くも別れて去った君の面影・・・」 しかも、自暴自棄になると身を滅ぼすのですか・・・
怖~っ、これで中吉なんですかね~。
恋の道は険しそうデス・・・。(笑)
それでは、気を取り直して、金ヶ崎城の月見御殿目指して城攻めします。
月見御殿まではこんな感じになってますね。
金崎宮に金ヶ崎城のこんな模型がありました。^^
一番高いところにある月見御殿の向こうは断崖で海になってるようです。
では、「鴎ヶ崎」へ
はい、まだまだ登ります。^^
月見御殿まで、もう少しです。 頑張れ、俺~。^^
おっ、本丸跡でしょうか・・・
それでは、月見御殿跡へ・・・
月見御殿跡からは絶景が広がります。
この絶景を信長も秀吉も見たんだろうな~。まあ、ちょっと現代的な風景もありますが・・・(笑)
一句詠んでみた・・・^^
信長の 浅い夢見し 月見酒 ~susumu~
信長は朝倉討伐のため京より進軍し、この金ヶ崎城を攻略、そしてこの地に立った。
その夜、朝倉との決戦に思いを馳せながら、月を肴に勝利の美酒を味わった。
同盟軍であるはずの浅井氏が裏切るとも知らずに・・・。
いち早く浅井氏の裏切りを知ると、信長はなりふり構わず全軍を撤退させた。窮地を脱した信長の怒りは収まらず、姉川の合戦で浅井・朝倉軍を撃破し、反信長包囲網を突破して、「金ヶ崎の退き口」から三年後に浅井・朝倉氏を滅ぼした・・・。
その後の浅井三姉妹とお市の方の悲しい物語は、皆さんご存知の通りですねっ。
続きは大河ドラマで~。(笑)
では、また。
今日も鈴鹿山系の山々は綺麗ですね~。
この日は2月19日(土)です。
前回は滋賀県の長浜城へ大河ドラマ「江」~浅井三姉妹~の展示を見に行きましたが、今回はその浅井家滅亡のきっかけとなった、「金ヶ崎の退き口」の舞台である福井県敦賀市の金ヶ崎を訪れてみようと思います。^^
何はともあれ高速に乗ってGo!~
名神高速道路から北陸自動車道へ・・・
天気はいいけど、まだちょっと寒いので神田SAで休憩します。^^
寒いときはやっぱコレでしょう~~。^^
甘酒~~ もちろんアルコール度ゼロですが、気分だけでも暖まります。^^
お土産コーナーでは、キャラクターたちの熱い戦いが行われております・・・
「江」関連のコーナーでは、三姉妹キャラクターが乱立し、群雄割拠! まさに戦国時代です。
題して、”~キャラクターたちの戦国~”(笑)
はてさて、どの三姉妹が三姉妹キャラクターの天下を制するのでしょうか~。^^
は~い、そういうことで、もう敦賀の金ヶ崎に到着~。(笑)
で、やっぱりここ金ヶ崎は「金ヶ崎の退き口」の舞台です。
越前の朝倉攻めにために遠征していた信長のもとに、浅井長政へ嫁いでいた妹 「お市の方」より、両方共に結んでいる「小豆袋」が届いた・・・
信長はそれを見るなり長政の裏切りを察知し、自身は京へ向かって金ヶ崎を脱し、織田全軍を撤退させた。
信長軍の殿(しんがり)をつとめたのは、猿こと「羽柴秀吉」であった・・・
まあ、「小豆袋」のエピソードが史実かどうかは別として、信長のピンチだったのは確かで、浅井・朝倉軍に挟撃されれば逃げ場を失い全滅の可能性があったのだから、危機一髪のところでした。
では、金ヶ崎城跡の方へ行ってみます。^^
階段下に到着~。
案内図を見てみると・・・
なるほど、金崎宮を経て月見御殿跡へ行くのですね。
金ヶ崎城跡の説明文もありました。
(クリックすれば大きくなるよ) ^^
ふむふむ、この金ヶ崎城は信長軍の撤退戦の行われたところでもあり、太平記のころ、南北朝時代の戦いの舞台でもあったわけですね・・・。
で、花換祭ですか・・・
だから、階段下に気になる看板があったのですね。^^
『幸福の階段を駆け上がれ』ってですか。よう~し・・・。^^
Ninja君はお留守番~
では、いざ!
「駆け上がれ」って・・・運動不足の自分にはそんなの無理でした~ (笑)
でも、雰囲気のいい境内ですね。
石灯籠の苔生し具合も、いい感じです。^^
さすが、恋の宮です。社殿も華やか~。
ここ金崎宮の御祭神は後醍醐天皇の皇子 尊良親王と常良親王ですね。
南北朝時代の足利勢と新田義貞の戦いで、金ヶ崎城は落城し、城の陥落とともに恒良親王は捕らえられ、尊良親王は新田義貞の嫡男 義顕とともに自害したそうです。
なので、ここ金崎宮は戦前まで官幣神社でした。
やっぱり恋の宮ですね、「恋みくじ」がありました。^^
もちろん引いてみます。^^
おおっ、中吉ですか~。まあまあかな~。^^
でもよく読んでみると・・・
この歌、メチャメチャ悲しい歌やないですか~。
「儚くも別れて去った君の面影・・・」 しかも、自暴自棄になると身を滅ぼすのですか・・・
怖~っ、これで中吉なんですかね~。
恋の道は険しそうデス・・・。(笑)
それでは、気を取り直して、金ヶ崎城の月見御殿目指して城攻めします。
月見御殿まではこんな感じになってますね。
金崎宮に金ヶ崎城のこんな模型がありました。^^
一番高いところにある月見御殿の向こうは断崖で海になってるようです。
では、「鴎ヶ崎」へ
はい、まだまだ登ります。^^
月見御殿まで、もう少しです。 頑張れ、俺~。^^
おっ、本丸跡でしょうか・・・
それでは、月見御殿跡へ・・・
月見御殿跡からは絶景が広がります。
この絶景を信長も秀吉も見たんだろうな~。まあ、ちょっと現代的な風景もありますが・・・(笑)
一句詠んでみた・・・^^
信長の 浅い夢見し 月見酒 ~susumu~
信長は朝倉討伐のため京より進軍し、この金ヶ崎城を攻略、そしてこの地に立った。
その夜、朝倉との決戦に思いを馳せながら、月を肴に勝利の美酒を味わった。
同盟軍であるはずの浅井氏が裏切るとも知らずに・・・。
いち早く浅井氏の裏切りを知ると、信長はなりふり構わず全軍を撤退させた。窮地を脱した信長の怒りは収まらず、姉川の合戦で浅井・朝倉軍を撃破し、反信長包囲網を突破して、「金ヶ崎の退き口」から三年後に浅井・朝倉氏を滅ぼした・・・。
その後の浅井三姉妹とお市の方の悲しい物語は、皆さんご存知の通りですねっ。
続きは大河ドラマで~。(笑)
では、また。