返済は絶対不可能といわれた巨額な借金を完済してしまったスゴイお殿様 【福井県 大野市 大野城】 [日記]
は~い、皆さまお久しゅうゴザイマス。^^
ここは、自分の住んでいるところからちょっと行った所にある桜並木です。春爛漫の桜が実に綺麗だ~。
国道306号線から青山峡へ向かう川沿いの道です。
別にお花見スポットでもなく、あまり見に来る人もいないのですが、自分はここの桜が好きなんですよね~。
桜並木が彼方の山へと続いているように見える風景がいいんですよね。バイクで走ると気持ちいい~。
朝早かったからか、この美しい風景をひとり占め~~ ^^
さてさて、久しぶりのバイクですね。本日は4月10日(日)です。
花粉症の方はだいぶ良くなってきたので、今回はバイクでお出かけです。^^
北陸自動車道を北へ・・・
美しい敦賀湾の風景が見渡せる杉津パーキングエリアで休憩~
ここは夕陽がすごく綺麗なところなんだそうです。
今日はちょっと霞んでますね。春霞かな・・・ ^^
福井インターチェンジで北陸自動車道を下りて、目指すは福井県大野市です。
は~い、大野に到着しました~。遠くに見える山々の雪が本当に綺麗です。
ここは、まだ春は早いかな・・・^^
そして越前大野城です。(^^)/
さすがに福井は雪国です。桜はまだまだみたいですね・・・ ^^
天正3年(1575年)越前一向一揆の平定に功のあった金森長近は織田信長より大野を与えられました。
翌年、金森長近は大野の亀山に築城をはじめました。こんな感じですかね・・・(笑)
そしてその麓に城下町も造り始めました。
越前大野城の天守閣に登ってみます。
雪に彩られた山々が本当に綺麗です。^^
どうでしょうか城下町の面影がわかりますかね・・・
金森長近が天正14年(1586年)に飛騨高山に転封した後、城主は度々交代し、江戸初期には松平氏が約60年間、その後天和2年(1682年)に土井利房が4万石で入城、明治の廃藩まで土井氏が城主を務めました。
天守閣を少し下りたところにこの人の像がありました・・・
【土井 利忠】 (どい としただ)・・・幕末期の大野藩の名君
土井利忠は、文政元年(1818年)8歳で大野藩主となりました。当時の藩財政は非常に苦しく、莫大な借金をかかえていました。天保13年(1842年)時点のその額はなんと約80万両といわれ、4万石の小藩では返済は絶対不可能といわれていました。
そこで、利忠の藩政改革は、天保13年(1842年)、「更始の令」というかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の建て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にしてすすめられました。
弘化元年(1844年)に藩校「明倫館」を開設し、武士の子のみならず庶民の子も入学できるようにし、なんと藩の乏しい収入のうち百分の四を教育にあてたそうです。
後には藩校「洋学館」を開設して蘭学の研究もおこないました。
財政再建として有名なのは、徳川吉宗の「享保の改革」などがありますが、基本的には、質素倹約、幕政の合理化などの財政安定策にとどまっていた感があります。
利忠の凄いところは、徹底した倹約令だけでなく、積極的に藩の収入を増やそうとしたところです。
「更始の令」に先立ちますが、領内の面谷(おもだに)鉱山を藩直営に切り替え、建て直しをおこないました。
後に年間10万貫の銅を産出するほどになり、財政再建に大いに貢献しました。
人材の登用として、内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟を抜擢。兄の良休は勝手方一向奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなりました。
内山良休は、大野藩の産物を藩直営商店を通じて売り出すことを提案し、安政2年(1855年)5月に大坂大野屋を開業、以降、箱館、岐阜、名古屋、越前各地などに大野屋を開きました。
内山隆佐は、自ら探検調査団を率いて北海道渡島半島を調査しました。後に大野藩として蝦夷地を開拓することになります。
このとき、藩に船が無いことに不便を感じて、西洋型二本マストの「大野丸」を建造しちゃいました。^^
何がスゴイかっていうと、大野藩って内陸の藩で、海に面していないんですよね。(笑)
それでも、安政6年より敦賀湾を拠点として、敦賀~函館間の北方貿易及び警備兵運送に活躍しました。
利忠はこのほかにも、種痘をすすめ、病院を開設し、藩の軍制に最新の高島流砲術を導入して領内で大砲や鉄砲も作らせたそうです。
利忠が行なった藩政改革は軌道に乗り、借金まみれだった財政は黒字化を達成していました。約80万両といわれた巨額の借金は17年で完済したそうです。
藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備され、樺太まで準藩領になりました。
何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気がよみがえったことが最大の成果なのではないでしょうか。
天保13年(1842年)の「更始の令」の発布にあたり、利忠は家臣一同を城内書院に集めてこう言ったそうです。
「藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である。今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない」と・・・
これを聞いた家臣一同は感涙に咽んだといいます。
大野城の麓に「柳廼社」(やなぎのやしろ)という神社があります。
この神社は明治15年(1882年)、利忠公の偉徳を偲び、旧藩士たちの手により建立されました。
そして大野城の麓、大野藩の藩校「明倫館」があった場所の近くに「学びの里 めいりん」があります。
小学校と公民館、生涯学習センターの機能を併せ持つ福井県初の複合施設として、2006年9月に開館しました。
ガラス張りの素敵な小学校です。
そして絶滅寸前のあのお方も・・・
「二宮金次郎」さま・・・ はるか大野の地でお会いできるとは思ってもいませんでした。^^
ガラス張りのモダンな小学校にあえて二宮金次郎像を建てているのですね。
「温故創新」・・・自分はそう感じました。古きを温めて新しきを創って行く・・・
利忠公の改革の心をもって、積極的に新しいものを創っていって欲しいとの願いでしょうか。
いかついライダーウエアを身にまとった怪しげな旅人(オレ)がカメラ片手に説明看板を見ているときでした。
一人の自転車に乗った男の子が「こんにちは~」ってあいさつしてくれました。
なんだか嬉しかったですね。
利忠公の遺した「明倫」の心はまだ生きているんだって・・・。
では、また。
ここは、自分の住んでいるところからちょっと行った所にある桜並木です。春爛漫の桜が実に綺麗だ~。
国道306号線から青山峡へ向かう川沿いの道です。
別にお花見スポットでもなく、あまり見に来る人もいないのですが、自分はここの桜が好きなんですよね~。
桜並木が彼方の山へと続いているように見える風景がいいんですよね。バイクで走ると気持ちいい~。
朝早かったからか、この美しい風景をひとり占め~~ ^^
さてさて、久しぶりのバイクですね。本日は4月10日(日)です。
花粉症の方はだいぶ良くなってきたので、今回はバイクでお出かけです。^^
北陸自動車道を北へ・・・
美しい敦賀湾の風景が見渡せる杉津パーキングエリアで休憩~
ここは夕陽がすごく綺麗なところなんだそうです。
今日はちょっと霞んでますね。春霞かな・・・ ^^
福井インターチェンジで北陸自動車道を下りて、目指すは福井県大野市です。
は~い、大野に到着しました~。遠くに見える山々の雪が本当に綺麗です。
ここは、まだ春は早いかな・・・^^
そして越前大野城です。(^^)/
さすがに福井は雪国です。桜はまだまだみたいですね・・・ ^^
天正3年(1575年)越前一向一揆の平定に功のあった金森長近は織田信長より大野を与えられました。
翌年、金森長近は大野の亀山に築城をはじめました。こんな感じですかね・・・(笑)
そしてその麓に城下町も造り始めました。
越前大野城の天守閣に登ってみます。
雪に彩られた山々が本当に綺麗です。^^
どうでしょうか城下町の面影がわかりますかね・・・
金森長近が天正14年(1586年)に飛騨高山に転封した後、城主は度々交代し、江戸初期には松平氏が約60年間、その後天和2年(1682年)に土井利房が4万石で入城、明治の廃藩まで土井氏が城主を務めました。
天守閣を少し下りたところにこの人の像がありました・・・
【土井 利忠】 (どい としただ)・・・幕末期の大野藩の名君
土井利忠は、文政元年(1818年)8歳で大野藩主となりました。当時の藩財政は非常に苦しく、莫大な借金をかかえていました。天保13年(1842年)時点のその額はなんと約80万両といわれ、4万石の小藩では返済は絶対不可能といわれていました。
そこで、利忠の藩政改革は、天保13年(1842年)、「更始の令」というかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の建て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にしてすすめられました。
弘化元年(1844年)に藩校「明倫館」を開設し、武士の子のみならず庶民の子も入学できるようにし、なんと藩の乏しい収入のうち百分の四を教育にあてたそうです。
後には藩校「洋学館」を開設して蘭学の研究もおこないました。
財政再建として有名なのは、徳川吉宗の「享保の改革」などがありますが、基本的には、質素倹約、幕政の合理化などの財政安定策にとどまっていた感があります。
利忠の凄いところは、徹底した倹約令だけでなく、積極的に藩の収入を増やそうとしたところです。
「更始の令」に先立ちますが、領内の面谷(おもだに)鉱山を藩直営に切り替え、建て直しをおこないました。
後に年間10万貫の銅を産出するほどになり、財政再建に大いに貢献しました。
人材の登用として、内山七郎右衛門良休と内山隆佐良隆の兄弟を抜擢。兄の良休は勝手方一向奉行となって財政の総責任者となり、弟の隆佐は教育や軍制の方面で大いに活躍することとなりました。
内山良休は、大野藩の産物を藩直営商店を通じて売り出すことを提案し、安政2年(1855年)5月に大坂大野屋を開業、以降、箱館、岐阜、名古屋、越前各地などに大野屋を開きました。
内山隆佐は、自ら探検調査団を率いて北海道渡島半島を調査しました。後に大野藩として蝦夷地を開拓することになります。
このとき、藩に船が無いことに不便を感じて、西洋型二本マストの「大野丸」を建造しちゃいました。^^
何がスゴイかっていうと、大野藩って内陸の藩で、海に面していないんですよね。(笑)
それでも、安政6年より敦賀湾を拠点として、敦賀~函館間の北方貿易及び警備兵運送に活躍しました。
利忠はこのほかにも、種痘をすすめ、病院を開設し、藩の軍制に最新の高島流砲術を導入して領内で大砲や鉄砲も作らせたそうです。
利忠が行なった藩政改革は軌道に乗り、借金まみれだった財政は黒字化を達成していました。約80万両といわれた巨額の借金は17年で完済したそうです。
藩校明倫館は名校として天下に響き、洋式軍隊が整備され、樺太まで準藩領になりました。
何よりも藩内が活性化され、藩士たちの活気がよみがえったことが最大の成果なのではないでしょうか。
天保13年(1842年)の「更始の令」の発布にあたり、利忠は家臣一同を城内書院に集めてこう言ったそうです。
「藩財政及び藩士家計はもうどうにもならず、ここまで放置したのは我々の責任である。今後は君臣上下一体となって倹約を旨とし、不正を許さず、藩主に対しても気がついたことは直言でも封書でもよいから申し出てもらいたい。家臣の力なくして土井家も大野藩も未来はない」と・・・
これを聞いた家臣一同は感涙に咽んだといいます。
大野城の麓に「柳廼社」(やなぎのやしろ)という神社があります。
この神社は明治15年(1882年)、利忠公の偉徳を偲び、旧藩士たちの手により建立されました。
そして大野城の麓、大野藩の藩校「明倫館」があった場所の近くに「学びの里 めいりん」があります。
小学校と公民館、生涯学習センターの機能を併せ持つ福井県初の複合施設として、2006年9月に開館しました。
ガラス張りの素敵な小学校です。
そして絶滅寸前のあのお方も・・・
「二宮金次郎」さま・・・ はるか大野の地でお会いできるとは思ってもいませんでした。^^
ガラス張りのモダンな小学校にあえて二宮金次郎像を建てているのですね。
「温故創新」・・・自分はそう感じました。古きを温めて新しきを創って行く・・・
利忠公の改革の心をもって、積極的に新しいものを創っていって欲しいとの願いでしょうか。
いかついライダーウエアを身にまとった怪しげな旅人(オレ)がカメラ片手に説明看板を見ているときでした。
一人の自転車に乗った男の子が「こんにちは~」ってあいさつしてくれました。
なんだか嬉しかったですね。
利忠公の遺した「明倫」の心はまだ生きているんだって・・・。
では、また。