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古今伝授の地で一首詠んじゃおうツーリング 後編 【京都 舞鶴 田辺城】 [歴史ロマンシリーズ]

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は京都の伏見城で没しました。

時代の趨勢は次第に豊臣から徳川へと移っていきます。

そんな中、五大老の一人である上杉景勝が城郭を修築し始めたことに疑念を抱いた徳川家康が、景勝に上洛して弁明する事を求めましたが拒否された為、諸大名に会津征伐を発令し、慶長5年(1600年)6月、徳川家康は大阪城から軍勢を率いて出征しました。

この指令に従った大名は、細川忠興・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・山内一豊らです。

慶長5年(1600年)6月27日、丹後宮津城を出発した細川忠興は、総勢五千百名からなる大軍をもって、若狭から近江を抜けて中山道を目指しました。

同年7月、これを好機とかねてより家康に反感を抱いていた石田三成は、毛利輝元を総大将として擁立し挙兵。

石田三成らの西軍はまず家康側についた大名たちの妻子を大坂城に入城させ人質にとろうとします。

細川家の大阪屋敷にいた細川忠興の正室である細川ガラシャはこれを敢然と拒否して、家臣に命じて自らの命を絶たせます。

思惑のはずれた石田三成は畿内の武将に丹後の攻略を命じました。

細川家は当時、丹後一国を掌握するため、田辺城・宮津城・峰山城・久美浜城の四つの城を拠点としていました。

隠居をしていた忠興の父・細川幽斎は、ガラシャの死や田辺城侵攻の話を聞き、直ちに丹後国内の宮津・峰山・久美浜・中山・河守の各城を焼き払わせ、国中の武具や弾薬を集め、全兵力を田辺城に集中させ籠城することにしました。

そう、これが世に言う「田辺城籠城戦」の始まりです。

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《昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館》

守る細川幽斎率いる城兵はわずかに五百。しかもこれは桂林寺・瑞光寺の僧兵や寺の和尚・弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数でした。

これに対して攻め手は丹波国福知山城主小野木重勝を総大将に、一万五千からの大軍で田辺城を取り囲み、海には軍船を浮かべて完全に包囲しました。

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当初、戦いは圧倒的な兵力差ですぐに決着が着くかと思われましたが、籠城側の幽斎たちの抵抗は激しく善戦します。

戦いは長期戦となりますが、それには攻め手の戦闘意欲が低かった事情もあるようです。




細川幽斎は、武人としてだけではなく、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。

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多くの弟子をもち、攻め手の敵軍の中にも幽斎の弟子は少なからずいました。

藤掛永勝、谷衛友、小出吉政、川勝秀氏などがそうで、銃撃戦の時には弾を込めずに空砲を撃っていたとの話もあります。

善戦してるとはいえ長期戦となれば、いずれ落城は必至。

幽斎は、自分が死ぬことによって古今伝授が途絶えてしまうことを心配し、伝授の途中であった皇弟である八条宮智仁親王へ、古今伝授の資料を献上したいと伝えます。

籠城のことを聞いた智仁親王は幽斎の身を案じ、五奉行のひとり前田玄以配下の者を案内役に侍臣大石甚助を田辺城へ派遣して開城を勧めますが、幽斎はこれを「武人として本意ではない」と拒否します。

そして7月29日、城内庭園の松の木の前で古今伝授を行います。

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《田辺城跡の心種園に今も残る古今伝授の松》


古今相伝の書籍を入れた箱に証明状を付し、使者の大石甚助を通じて

「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
        
の一首を添えて親王に対する古今伝授を完了させます。


幽斎の決死の覚悟は後陽成天皇の耳にも入りました。天皇は、大徳寺にいる幽斎の弟・玉浦(ぎょくほ)和尚に幽斎を説得するよう依頼をしますが、玉浦和尚は兄・幽斎の武人としての心情を汲み、辞退します。

そこで今度は京都所司代・前田玄以に勅使を出され、幽斎の説得を命じます。
玄以は勅命に従い、子の茂勝を田辺に遣わして幽斎を説得しますが、幽斎はこれも拒否。

幽斎の意志は固く、武人として最後まで戦い抜く決死の覚悟は変わりませんでした。


後陽成天皇は細川幽斎の身を案じるあまり、ついに直接田辺城に向けて勅使を派遣します。

両軍和睦の勅使として権大納言・烏丸光広、中院通勝、三条西実条の3名が、前田玄以の次男茂勝を召し連れて田辺に来着しました。

まず小野木重勝らに「城の囲みを解くように」と命じ、囲みを解かせたあと城内に入り後陽成天皇の勅諚をもって幽斎を説得。ついに幽斎は城を明け渡す決意をします。それは9月13日のことで、実際幽斎が田辺城を出て丹波亀山城に入ったのは9月18日でした。


こうして、52日に及ぶ長期間の籠城戦は幕を下ろします。


田辺城開城より2日後の慶長5年9月15日、関ヶ原において東西両軍主力は激突しますが、田辺城籠城戦において1万5千もの大軍を関ヶ原に向かわせず田辺にひきつけていたのは事実です。

18日にはすでに西軍は大敗しており、細川幽斎は勅命により田辺城を明け渡しましたが、結果として東軍の勝利に貢献したことになりました。





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《田辺城城門(復元)》



現在、田辺城籠城戦が行なわれた田辺城跡は、舞鶴公園として市民の憩いの場所となっています。

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平成4年(1997年)に復興された城門には田辺城資料館があります。

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田辺城は日本100名城ではありませんが、資料館にスタンプがありましたので、とりあえず押してみた。^^

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スタンプゲット!(^^)/



細川幽斎公の肖像画も発見!

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細川幽斎公ってほんとにスゴイ人だと思います。

自分自身、細川幽斎って細川ガラシャの夫である細川忠興の父であるぐらいにしか知りませんでしたが、ガラシャの生涯を調べていくうちに幽斎公の凄さがわかってくるようになりました。

細川藤孝(幽斎)は天文3年(1534年)、京都の東山で室町幕府の重臣、三淵晴員の二男として誕生しました。でもね、実の父は第十二代将軍足利義晴だと言う説があるんですよね。^^

で、天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。

幕臣として将軍足利義輝に仕えますが、将軍の暗殺などで義輝の弟の足利義昭の将軍任官に奔走。

各地の有力大名を頼って各地を転々としますが、当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどだったそうです。

運命が変わったのは、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長と出会ったときからですね。

「姉川の戦い」「石山合戦」「長篠の合戦」「紀伊紀州征伐」など信長に助勢し、戦いに明け暮れる日々が続きます。

天正6年(1579年)、細川藤孝(幽斎)と明智光秀は信長の命により、丹後国を侵略し、一色氏を滅亡させまた。その功により細川藤孝(幽斎)には丹後国が与えられ、明智光秀には丹波国が与えられました。藤孝(幽斎)は宮津城を築き、ここを丹後経営の中心地としました。

「本能寺の変」をきっかけに細川藤孝(幽斎)は隠居し、「幽斎玄旨」と名乗ります。そして田辺に城を築き、隠居をするための城としました。幽斎は田辺城の築城者であり初代城主なんですね。^^

また幽斎は、武人としてだけではなく、和歌・連歌などの近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあり、その分野は太鼓・謡曲・乱舞・禅・囲碁・料理・茶道・書道・鞠などにおよぶ当代随一の教養人でもあったそうです。ほんとに凄いですよね~。^^




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《彰古館》

昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館は、市指定文化財「糸井文庫」の錦絵資料から「酒呑童子」、「安寿と厨子王」、「浦島太郎」などが展示されています。

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つらい水汲みをさせられている「安寿姫」と山のような荷物を担がされた「厨子王」です。

やっぱり丹後の国ならではの展示ですね。^^



それでは、田辺城跡である舞鶴公園をぶらっとしてみます。^^

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本丸の石垣です。石垣自体はあまり高くありません。
石垣が高くないのは、城内から城外に向けて撃つ鉄砲の斜度の関係だそうで、当時の鉄砲は、筒先をあまり下げると弾がこぼれてしまうためなのだとか。(笑)



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本丸石垣と本丸を囲んでいた内堀の名残のアヤメ池。



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天守台の一部です。



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さてさて、今回のお目当てである「心種園」へ行ってみます。


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江戸時代の田辺藩主であった牧野氏が、細川幽斎の古今伝授の逸話に感銘を受けて、城内にある古今伝授の松を中心に築かせた日本庭園です。


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この松の木の前で古今伝授が行なわれたんですね。^^


「古今伝授」ってご存知ない方も多いと思いますが、簡単に説明しますね。

醍醐天皇の勅命によって編まれた、わが国最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」。その古今和歌集の解釈に関する秘説などを中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を、師から弟子へ伝授することを「古今伝授」っていうそうです。

文人としても秀でていた細川幽斎は、当時の歌壇における最高峰「古今伝授」を、三条西実枝より、実枝の息子・公国が成長するまでの一時預かりとして相伝されます。三条西実枝より細川幽斎に伝えられたものを「二条流」といい、その他「堺伝授」や「奈良伝授」などがあったそうです。

そして幽斎は、約束どおり公国に対し古今伝授を行いましたが、幽斎の凄いところは、その後独自に研究を重ね、自身の二条流の古今伝授や、他流の古今伝授をまとめて集大成してしまいました。

この田辺城籠城戦のさなかに八条宮智仁親王に対して行なった「古今伝授」は幽斎が集大成したものであり、そしてそれはやがて、八条宮智仁親王から後水尾天皇へ伝授されます。以降「古今伝授」が御所に入り、宮中において伝えられるようになります。そして、古今伝授は代々の天皇に受け継がれていきます。そして近世の歌壇において最も権威あるものとして、後世にて、宮中における古今伝授を「御所伝授」とも呼ぶようになりました。



田辺城籠城戦のさなかに決死の覚悟で八条宮智仁親王へ古今伝授したときに添えられた歌・・・

「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」

『変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)』

人は生をうければいつかは必ず滅ぶ時がきます。

でもその人が残した心の種は後の人々の心の中で受け継がれて育ってゆくものなんですね・・・。

心からの感謝とともに・・・。



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いつか田辺城の心種園を訪れたなら、幽斎公にちなんでぜひ一首詠んでみようと思ってました。

でもね~、普段歌なんて詠んだことないので無理です~。全然出てきません~。(笑)

田辺城にやってきたのはけっこう遅い時間でギリギリ資料館に入れる時間でした。寄り道し過ぎ~。^^

まあ、今回はお泊りツーリングなので、今晩ゆっくり考えて明日の朝にまた来ようと思います。



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心種園の池でカモ君発見!

悠然と泳いでいます。気持ち良さそう。^^



こっちの庭石ではネコ君発見!

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もしかすると君は田辺城の主ネコですか。^^

自分的には城跡にネコって大好きなんですよ。なので勝手に名前をつけてあげましょう。

舞鶴にちなんで「舞」ってのはどうですか。「舞にゃん」・・・気に入っていただけましたでしょうか。(笑)



そういえば三重県の津城跡に行ったときもネコに名前をつけてあげました。

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藤堂高虎公にちなんでつけた名前「タカにゃん」です。




もちろん滋賀県の彦根城には・・・

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「ひこにゃん」がいますけどね~。(笑)





田辺城に着いたのが夕方5時前で、お腹も空いてきたので、西舞鶴の街をブラブラしましょう。^^

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商店街付近をブラブラしてると「こうちゃん」を発見しました!

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ここでラーメンとお好み焼きと生ビールをしこたま飲んだんですけど、メッチャおいしかったです。

ラーメンはしょうゆラーメンですけど、スープが絶品です。麺も自分好みの細めんタイプでスープと良く絡んでウマ~。^^

お好み焼もふわふわアツアツでファーストフードというよりも料理に近い感じで、こんなお好み焼きもあるんだ~って感動でしたね。ビールがすすむわ~。(笑)



「こうちゃん」でお腹いっぱい食べて飲んだあとは、商店街をブラブラしてみます。

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この日はお祭りなのかたくさんの露店が出てました。^^ 

夏祭り気分最高!(^^)/



西市民プラザで高校生たちの楽しいコンサートがありましたのでのぞいてみます。

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歌あり、パフォーマンスありのホントに楽しいコンサートでした。見てる人たちも演奏してる高校生たちもメッチャ楽しそうでした。^^


こちらではおじさんバンドがベンチャーズを熱演してました。

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自分も「ダイアモンドヘッド」は知ってますよ~。^^ もうノリノリで~す。(^^)/



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人もメッチャ多くなってきました。




商店街で見つけた「博多寿司」さんで夜食を買って帰ります。

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お寿司でもつまみながら、幽斎公に捧げる一首、考えないとね~。(笑)




そして翌朝、心種園にやって来ました。^^

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今日は残念ながら雨模様。まあ、天気予報でわかっていたのでいいんですけどね。^^



さあ、昨日の晩に酔っ払いながら考えた一首をご披露します。^^

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「いにしへも 今もかはらぬ世の中に 咲き続けています こころの種」

あはは、へたくそな字でゴメンナサイ。  しかも、字あまりで字足らずの乱調ですけどね~。(笑)


きのうの高校生のコンサートやおじさんバンドのベンチャーズに感動して思ったんだけど、演奏を聴いてる人たちばかりでなく、演じてる人たちも心から楽しんでるな~って感じでした。

考えてみれば幽斎公があれだけ多彩な人だったのは、それぞれの道を極めようとしたのではなく、いろんなことに興味をもち、いろんなことを心から楽しんだ結果だったんじゃないかと思います。

そんな幽斎公がまいた「こころの種」は、舞鶴の地で若い人たちからお年寄りまでしっかりとその心の中に生き続けているようです。



舞鶴に来て本当に良かったと思います。幽斎公の「こころの種」はしっかりと自分の中にも育ち始めています。

命に限りはあるけれど、楽しみながら自分自身のこころの種を育てていこうと・・・。

そしていつか大輪の花を咲かすことができればいいかなって・・・。^^




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《 雨と赤レンガとNinja君 》




では、また。






細川ガラシャの生涯 [歴史ロマンシリーズ]

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永禄6年(1563年) 細川ガラシャは越前の国で明智光秀と妻・煕子の三女として生まれました。


ガラシャと言う名は洗礼名ですが、明治期にキリスト教徒達が彼女を讃えて「ガラシャ」と呼ぶようになり、その名が一般的に広まったみたいです。


名は「明智 玉」(あけち たま)です。

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福井県福井市の東大味町に明智神社があります。


【明智神社】
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ここ明智神社のある場所は明智光秀の邸宅跡であり、明智 玉(細川ガラシャ)生誕の地といわれています。

明智光秀は信長の家臣となる前に朝倉家に鉄砲指南役として仕官し、一乗谷朝倉館から約4kmほど離れたこの東大味地区に数年間住んでいたそうです。

朝倉氏の一族や重臣の屋敷は、朝倉館がある一乗谷だけでなく、その周辺にも配置されていました。東大味地区は、文殊山榎峠から一乗谷に入る朝倉街道の大手道が通っていて、当時、家臣や重臣の屋敷が配置されていたそうです。

こうして実際に訪れてみると、山の麓の狭小な場所であり、屋敷の敷地もそれほど広くはなかったのではないかなとの印象をうけました。


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明智光秀は、もとは美濃国の守護土岐氏の一族で、斎藤道三に仕えていたそうです。

玉の母・煕子(ひろこ)は幼い時から光秀と許嫁で美貌の娘でしたが、婚礼を間近に控えた頃、疱瘡を患い命は取り留めたものの醜い痘痕が顔にも首にも残ったそうです。思い余った凞子の父は偽って2才下の妹を婚礼に出しましたが光秀に見破られ、契りはできているとしてその妹を送り返したという逸話がのこっています。

1556年光秀28歳のとき、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、本拠を義竜に攻められて明智城はあえなく落城。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪しました、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたといいます。



そんな父と母の元で玉はどのような幼少を過ごしたのでしょうか。













明智光秀は、朝倉氏を頼って越前にきた足利義昭と出会い、義昭に付き従う形で越前朝倉を離れました。やがて織田信長の家臣となり、各地を転戦し、元亀2年(1571年)頃、比叡山焼き討ちなどで武功を上げ、近江の国滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城としました。

【坂本城址公園】
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坂本城址公園に坂本城址の石碑や明智光秀の像がありますが、実際の坂本城はもう少し北にあったようです。


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(坂本城址公園より北西へ約150mのところにあるもう一つの坂本城址の石碑です。)


坂本城は、琵琶湖の南湖西側、現在の大津市の北郊に位置しており、大天主と小天主をもつ水城で、宣教師のルイス・フロイスの記述によると、豪壮華麗で安土城に次ぐ名城だったそうです。現在城郭の大半は宅地化されており往時をしのぶことは難しいようです。


【西教寺の総門】
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この西教寺の総門は坂本城の移築門と言われています。




【坂本城址公園から望む琵琶湖】
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玉もこの雄大な琵琶湖の美しい風景を見たことでしょう。15歳までこの坂本の地で過ごしたようです。

玉は、教養人である父 明智光秀の影響を受けて育ったのか、好奇心旺盛で、明るく活発な女性であったと言われています。















聡明な美貌で知られた玉は、天正6年(1578年) 15歳のとき織田信長の縁組取り持ちで、細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぎ、丹波の国の勝龍寺城(京都府長岡京市)で新婚生活を送りました。

織田信長の覚えめでたき若武者と評判の美女。玉と忠興は、ともに15歳でした。

細川藤孝(幽斎)という当代一流の文化人を父に持つ忠興は、教養が高く、後に千利休の高弟7人(利休七哲)に挙げられました。武将としても数々の武勲を立てており、少々血の気も多かったようです。美しい上に頭も良く勝ち気な玉とは、仲のよい夫婦だったといいます。


【勝竜寺城】
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天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれました。


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この頃が玉にとって一番幸せな頃だったのでしょう。















天正6年(1578年)、織田信長の命を受けた、細川藤孝・明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主(京都府舞鶴市)一色義通を滅ぼして丹後を平定しました。

天正8年(1580年)細川藤孝は織田信長より丹後(京都府北部)を与えられ、藤孝・忠興父子は丹後に入国しました。藤孝は宮津城(京都府宮津市)を築き、ここを丹後経営の中心地としました。



現在は城郭そのものは完全に姿を消し、当時の面影はほとんど残っていません。

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(本丸大手口くろがね門の袖石垣の一つ)


【太鼓門】
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(宮津小学校に移築された太鼓門)




かつての宮津城は北は海に臨み、西に大手川が流れる平城で、城郭の規模は東西約500m~600m、南北約300m~350mであったといわれています。

宮津湾に面し、リアス式の美しい海岸線が広がります。近くには日本三景のひとつである天橋立も見ることができます。



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玉も海辺の美しい風景を見るにつけ、父や母と過ごした坂本での生活を懐かしんだことでしょう。












忠興に嫁いでから3年余り、玉にとっての苦難のはじまりは突然やって来ました。




天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討つという「本能寺の変」が勃発。その後、中国攻めより急遽立ち戻って来た秀吉軍らに山崎の合戦で破れ、光秀をはじめ一族が滅んだため、玉は「逆臣の娘」となってしまいます。玉、18歳のときでした。

忠興は玉を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉しました。

政略結婚があたりまえだった戦国時代。実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった時代です。まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」でした。しかし、忠興は玉を隠しました。

「逆臣の娘」である玉を、幽閉というかたちではありますが、殺されないように守ったのは忠興が玉を愛していたからだと言われています。



【味土野の幽閉地 女城跡】
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ここは丹後半島の奥深く、周りを山に囲まれた、まさに幽閉するにふさわしいところです。

谷の奥の細い道を登りきったところに玉が幽閉されていた女城(めじろ)跡があります。女城と向き合う斜面には護衛のための男城(おじろ)を設け、敵からの襲撃に備えたそうです。




この2年間の幽閉生活の中で詠んだ歌の中にこのような歌が残っています。

【身をかくす 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥啼く】



丹後半島は地理的に京都の奥になりますが、山の谷の奥深く、花など咲かない木々に囲まれた幽閉生活は、琵琶湖湖畔の坂本城や堀のある勝龍寺城、天橋立を望む海辺にある宮津城など、広々とした美しい水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉にとって、とても耐え難いものだったに違いありません。


本能寺の変以降、父と一族を失い、自らは「逆臣の娘」として幽閉され、二人の幼子と引き離されて過ごした2年間はどの様な気持ちだったのでしょうか。


幽閉が解かれる天正12年(1584年)までの2年間、この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(後のマリア)らの侍女達でした。













天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻しました。玉、21歳のときでした。この年に次男の興秋が生まれています。

大阪城に程近い玉造界隈にある【越中井】
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この辺一帯は大阪城の近くにあった細川家屋敷跡です。この「越中井」はその邸内の台所にあった井戸だと言われています。

昔はこの辺りから大阪城の雄大な姿を見ることが出来たのでしょうが、今は高い建物に遮られて大阪城を見ることは出来ません。



大阪城公園から望む【大阪城天守閣】
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2年間という過酷な幽閉生活で、仲のよかった夫婦仲にも微妙な影を落とし、玉自身もすっかり変わってしまったようでした。悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想で、ときにはわが子にも会おうとしなかったそうです。



幽閉を解かれた玉でしたが、忠興によって外部との接触を禁じられていたようです。

玉は心の拠りどころを求めて、しだいにキリスト教に関心を寄せるようになりました。



天正14年(1586年) 玉が23歳のとき、三男の忠利が生まれています。



玉が24歳になった天正15年(1587年)春、豊臣秀吉の命により、忠興が九州征伐に出向いた留守の時、玉は意を決し、大阪屋敷を抜け出してイエズス会の教会を訪れました。その時、高井コスメ修道士にキリスト教の教理について鋭い質問をされ、修道士は大変驚かれたといいます。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。

このとき玉は、「2度と教会には来れないから」と洗礼を授けて欲しいと懇願したそうですが、身分を隠していたため、それは許されませんでした。しかし、その後、侍女たちを口実を設けて教会に通わせ、16人が洗礼を受けたそうです。



天正15年(1587年)6月、秀吉はバテレン追放令を出し、玉が洗礼を受けることは困難になりましたが、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、侍女頭マリヤの手によって屋敷内で洗礼を受けることができまました。洗礼名は「ガラシャ」で、ラテン語で恩寵・神の恵みという意味です。

キリストの教えを知ってからの玉は、目を見張るほど明るく柔和で、辛抱強く愛らしく「別人のようになった」といいます。






忠興はその後、家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女らを屋敷から追い出しました。

幸いにもガラシャ(玉)は発覚を免れましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けましたが、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いたそうです。







やがて、秀吉の天下統一は完成し、文禄元年(1592年)に朝鮮征伐(文禄の役)が諸大名に命ぜられ、忠興も朝鮮へ出陣します。翌年、明との講和が成立し、忠興らは帰国しますが、この後の慶長の役と共にこの朝鮮征伐は諸大名間の軋轢を生み、豊臣政権の弱体化につながりました。





秀吉のバテレン追放令から長い時間がたち、世間のキリシタンへの風当たりが多少和らいだことから、ガラシャは忠興にキリシタンであることを告白するに至ったようです。( 告白の時期は、1595~1598年頃と考えられます。)

イエズス会文書(ラウレス著『細川ガラシア夫人』に翻訳・引用されている)では、ガラシャが「世の人々が私をキリシタンであると言っていることをご存知でしょうか」と言うと忠興は「其方がキリスト教を奉じたければ構わない」と答えたとあります。

後に、忠興はガラシャのために大坂玉造邸内に聖堂を建てたそうです。







慶長3年(1598年) 豊臣秀吉が伏見城で亡くなります。

世の中の流れは、豊臣から徳川へ大きく変わって行き、ついに天下分目の合戦「関ヶ原の戦い」へつながっていきます。



慶長5年(1600年) 徳川家康が諸侯に会津征伐を命じ、忠興も出陣しました。

石田三成は畿内が手薄になったのを見計らい、徳川を討つべく動き始めます。



大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを、西軍の石田三成は人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを敢然と拒否しました。

ガラシャはこのような事態になることをあらかじめ予期していたようで、武将の妻として、キリシタンとしてふさわしく死ぬにはどうしたらよいかと、神父に手紙で相談していました。

翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは覚悟をきめ、邸内の礼拝堂で祈り、侍女たちを退去させました。侍女たちは共に死にたいと願いましたがゆるされなかったそうです。

ガラシャはキリスト教では自殺は大罪であるとの教えを守り、家老の小笠原秀清に槍で胸を貫かせて果てました。享年37歳でした。



辞世の句が残っています。

【散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】

薄幸だった彼女が、唯一心の拠り所とした信仰を貫き通した死でした。




なぜ、ガラシャは死を選んだのでしょう。人質として自身の運命を天にゆだねることも出来たはずなのに・・・。

辞世の句を読む限り感じられることは、天下を二分する勢力が激突する時代のうねりの中で、戦国大名の妻として、「細川家の命運をかけた戦いに臨む夫・忠興のとるべき道の妨げには、断じてなりはしない」という強い思いが、ガラシャをして今こそ散りぬべき時だと悟らせたのではないかなと思います。

時代に翻弄され、はかなく消えていった女性が多い中でも、ガラシャの芯の強さが際立ちます。やはり、父・光秀と母・煕子に影響をうけた明智の娘だったと思います。そのガラシャをささえたのは最後の時まで信仰でした。




ガラシャの死後、焼け落ちた屋敷からオルガンティノ神父がガラシャの骨を拾って、堺のキリシタン墓地に埋葬したそうです。
細川忠興はガラシャの死を悲しみ、後にオルガンティノ神父に依頼して教会葬を行い、自身も葬儀に参加したそうです。その後、遺骨は細川家の菩提寺の一つである大坂の崇禅寺へ改葬されたとのことです。



【崇禅寺】
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崇禅寺はJR新大阪駅の近く、大阪市東淀川区にあります。

現在の本堂は平成元年(1989年)に再建されたもので当時の面影はありませんが、とても落ち着いた雰囲気の中にあります。

ガラシャのお墓はこの崇禅寺の一画に今も残っています。






でも、ガラシャの魂はここにはないような気がします。






大阪城に程近い玉造にある大阪カテドラル【聖マリア大聖堂】
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この大聖堂のある場所は細川家の大阪屋敷のあった場所です。

細川屋敷の井戸であった「越中井」のところから約100m程の場所ですが、この大聖堂あたりまでが細川屋敷の敷地だとすると、当時の細川屋敷がかなりの広さであったことがわかります。

大聖堂の前にガラシャの像があります。



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聖堂内には「最後の日のガラシャ夫人」を描いた絵が飾られています。



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聖堂内は静かでとても美しく、この場所にいるだけで心が洗われるような気がします。




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ガラシャの魂はきっと神の御許にあるのでしょう。










Wikipediaに細川ガラシャに関する興味深い記述がありました。


ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日の祝いとして、イエスズ会の劇場でオペラとして発表された。
この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベト等も尊敬と感銘を受け、その生き方に深く影響を受けたと言われる。


あのマリー・アントワネットも戯曲を通してガラシャの生き方に感銘を受けていたのかと思うと、感慨深いものがあります。


彼女もまた悲劇的な最後をむかえましたが・・・。







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では、また。






残雪の越前ツーリング! 雪に埋もれた 【一乗谷朝倉氏遺跡】 [歴史ロマンシリーズ]

以前から行ってみたかったところがあります。

それは、福井県福井市にある【一乗谷朝倉氏遺跡】です。



ご存知のように越前は冬場に雪が降ることが多く、バイクではなかなか行くことが難しいところです。

ところが2月21日の日曜日、この日の天気予報は寒いけれど晴予報だったので、行ってみることにしました。

三重県から岐阜県の関ヶ原を経由し、滋賀県の木之本から国道8号線にのり、福井市までのルートです。






さあ、Ninja君で出発です。

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途中、関ヶ原のセルフスタンドでNinja君に給油しました。







寒いけれど天気もいいし最高です!

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伊吹山もメッチャ綺麗です!







でも、滋賀県と福井県の県境あたりにくると・・・

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まだ雪がのこっています。 大丈夫か俺~!(笑)







しばらく走ると海が見えてきました。

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敦賀湾です。

海岸線のワインディングロードをバイクで走るとほんと気持ちいいです。






国道8号線の敦賀街道をひたすら福井を目指します。

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道の駅「河野」で休憩です。




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冬の日本海、ため息がでるくらい綺麗です。感動です。





この地の「河野」名物といえば「北前そば」らしいです。 もちろん試してみます。

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その昔、荷所船や北前船の海上交易のため、この辺りには蝦夷の産物が集まってきたそうで、そのため越前名物のそばに身欠き鰊を入れて食べるようになったそうです。

鰊って普段はあまり食べる機会はないですが、深味のあるダシとよくあっていて、とってもおいしかったです。

さあ、体も暖まったし、出発です。







福井に入り、一乗谷を目指しますが・・・

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「通行止め」です。(笑) 近道しようと山間の道を選んだのが間違いでした。





ぐるっと大きな道で迂回します。





やっと、一乗谷の朝倉氏遺跡に到着しました。

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でも、雪に覆われていてよくわかりません。(笑)

かろうじて井戸がわかります。かつては一乗谷の町並があった場所ですね。





一乗谷は朝倉氏の城下町として繁栄し北陸の小京都とも呼ばれていました。
しかし、天正元年(1573年)織田信長との刀根坂の戦いで敗北し、朝倉氏はついに滅亡、一乗谷の町は戦火によって焼土と化したのです。

400年以上もそっくり埋もれてきた朝倉氏遺跡ですが、近年発掘・整備が進められ、一乗谷川に沿った狭い平地部では、朝倉氏の館をはじめ、武家屋敷、寺院、職人達の町屋が道の両側に所狭しと建てられたことが発掘で明らかとなっています。





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一乗谷を流れる一乗谷川です。





この一乗谷朝倉氏遺跡では、戦国時代の城下町の街並みが復元町並として再現されています。

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こうしてみると、戦国期の町屋は江戸時代のものとは違い、屋根は板葺きで壁は土壁だったみたいですね。

江戸期の町屋を見慣れた自分にとって戦国期の町屋はちょっと新鮮な感じです。





一乗谷の町並みがミニュチュアで再現されたコーナーがありましたのでパチリ。

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往時は一万余名が住んでいたそうです。





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朝倉館跡へ行ってみます。

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唐門です。




中に入ってみます。

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雪が積もっていて朝倉館跡がまったくわかりません。(笑)




一乗谷朝倉氏遺跡資料館に朝倉館の再現ミニュチュアがありましたのでどうぞ!

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唐門から見た朝倉館の様子です。当時はこんな感じだったんですね。





織田信長はたった8日間の戦闘で朝倉氏を滅ぼし、かつては一万人余を誇った一乗谷の町を焼き払ったそうです。一乗谷は三日三晩燃えつづけて、建物という建物は灰燼に帰したといいます。

こうして実際に一乗谷の朝倉氏遺跡を訪れてみると、これだけの規模の町並みを徹底的に焼き尽くすとは、織田信長の凄まじさを感じます。





今回は雪に覆われていてとても綺麗でしたが、遺構をもっと見たかったデス。残念!











【おまけ】



福井市のとある歴史資料館で壁に貼られていたポスターに目がとまりました。



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「ん!」

「演歌のポスターですか。」


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よく見ると、わが三重県が誇る大スター「鳥羽一郎」さんではないですか。


しかも、「光秀の意地」ってですか。

「光秀」と書いて「おとこ」と読むらしいです。(笑)



で、どんな曲なのか知りたくて、試聴できないかネットで調べてみたらありました。





鳥羽一郎 「光秀の意地」 ←ココをクリックすると試聴できるよ!





試聴なので冒頭の語りの部分しか試聴できませんが、その語りがけっこうおもしろい。

おもわずフイちゃいました。自分の笑いのツボを直撃です。(笑)

いや~ 歴史好きな鳥羽一郎さんが大好きになりそうです。^^






では、また。




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