細川ガラシャの生涯 [歴史ロマンシリーズ]
永禄6年(1563年) 細川ガラシャは越前の国で明智光秀と妻・煕子の三女として生まれました。
ガラシャと言う名は洗礼名ですが、明治期にキリスト教徒達が彼女を讃えて「ガラシャ」と呼ぶようになり、その名が一般的に広まったみたいです。
名は「明智 玉」(あけち たま)です。
福井県福井市の東大味町に明智神社があります。
【明智神社】
ここ明智神社のある場所は明智光秀の邸宅跡であり、明智 玉(細川ガラシャ)生誕の地といわれています。
明智光秀は信長の家臣となる前に朝倉家に鉄砲指南役として仕官し、一乗谷朝倉館から約4kmほど離れたこの東大味地区に数年間住んでいたそうです。
朝倉氏の一族や重臣の屋敷は、朝倉館がある一乗谷だけでなく、その周辺にも配置されていました。東大味地区は、文殊山榎峠から一乗谷に入る朝倉街道の大手道が通っていて、当時、家臣や重臣の屋敷が配置されていたそうです。
こうして実際に訪れてみると、山の麓の狭小な場所であり、屋敷の敷地もそれほど広くはなかったのではないかなとの印象をうけました。
明智光秀は、もとは美濃国の守護土岐氏の一族で、斎藤道三に仕えていたそうです。
玉の母・煕子(ひろこ)は幼い時から光秀と許嫁で美貌の娘でしたが、婚礼を間近に控えた頃、疱瘡を患い命は取り留めたものの醜い痘痕が顔にも首にも残ったそうです。思い余った凞子の父は偽って2才下の妹を婚礼に出しましたが光秀に見破られ、契りはできているとしてその妹を送り返したという逸話がのこっています。
1556年光秀28歳のとき、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、本拠を義竜に攻められて明智城はあえなく落城。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪しました、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子は自分の黒髪を売って、光秀を助け、光秀もまた、煕子存命中は1人の側室も置かず煕子を大切にしたといいます。
そんな父と母の元で玉はどのような幼少を過ごしたのでしょうか。
明智光秀は、朝倉氏を頼って越前にきた足利義昭と出会い、義昭に付き従う形で越前朝倉を離れました。やがて織田信長の家臣となり、各地を転戦し、元亀2年(1571年)頃、比叡山焼き討ちなどで武功を上げ、近江の国滋賀郡(約5万石)を与えられ、坂本城を築いて居城としました。
【坂本城址公園】
坂本城址公園に坂本城址の石碑や明智光秀の像がありますが、実際の坂本城はもう少し北にあったようです。
(坂本城址公園より北西へ約150mのところにあるもう一つの坂本城址の石碑です。)
坂本城は、琵琶湖の南湖西側、現在の大津市の北郊に位置しており、大天主と小天主をもつ水城で、宣教師のルイス・フロイスの記述によると、豪壮華麗で安土城に次ぐ名城だったそうです。現在城郭の大半は宅地化されており往時をしのぶことは難しいようです。
【西教寺の総門】
この西教寺の総門は坂本城の移築門と言われています。
【坂本城址公園から望む琵琶湖】
玉もこの雄大な琵琶湖の美しい風景を見たことでしょう。15歳までこの坂本の地で過ごしたようです。
玉は、教養人である父 明智光秀の影響を受けて育ったのか、好奇心旺盛で、明るく活発な女性であったと言われています。
聡明な美貌で知られた玉は、天正6年(1578年) 15歳のとき織田信長の縁組取り持ちで、細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁ぎ、丹波の国の勝龍寺城(京都府長岡京市)で新婚生活を送りました。
織田信長の覚えめでたき若武者と評判の美女。玉と忠興は、ともに15歳でした。
細川藤孝(幽斎)という当代一流の文化人を父に持つ忠興は、教養が高く、後に千利休の高弟7人(利休七哲)に挙げられました。武将としても数々の武勲を立てており、少々血の気も多かったようです。美しい上に頭も良く勝ち気な玉とは、仲のよい夫婦だったといいます。
【勝竜寺城】
天正7年(1579年)には長女が、同8年(1580年)には長男(細川忠隆後の長岡休無)が二人の間に生まれました。
この頃が玉にとって一番幸せな頃だったのでしょう。
天正6年(1578年)、織田信長の命を受けた、細川藤孝・明智光秀は丹後に侵攻し、建部山城主(京都府舞鶴市)一色義通を滅ぼして丹後を平定しました。
天正8年(1580年)細川藤孝は織田信長より丹後(京都府北部)を与えられ、藤孝・忠興父子は丹後に入国しました。藤孝は宮津城(京都府宮津市)を築き、ここを丹後経営の中心地としました。
現在は城郭そのものは完全に姿を消し、当時の面影はほとんど残っていません。
(本丸大手口くろがね門の袖石垣の一つ)
【太鼓門】
(宮津小学校に移築された太鼓門)
かつての宮津城は北は海に臨み、西に大手川が流れる平城で、城郭の規模は東西約500m~600m、南北約300m~350mであったといわれています。
宮津湾に面し、リアス式の美しい海岸線が広がります。近くには日本三景のひとつである天橋立も見ることができます。
玉も海辺の美しい風景を見るにつけ、父や母と過ごした坂本での生活を懐かしんだことでしょう。
忠興に嫁いでから3年余り、玉にとっての苦難のはじまりは突然やって来ました。
天正10年(1582年)6月、父の光秀が織田信長を本能寺で討つという「本能寺の変」が勃発。その後、中国攻めより急遽立ち戻って来た秀吉軍らに山崎の合戦で破れ、光秀をはじめ一族が滅んだため、玉は「逆臣の娘」となってしまいます。玉、18歳のときでした。
忠興は玉を丹後の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉しました。
政略結婚があたりまえだった戦国時代。実家が敵方となった嫁は実家に帰されたり、殺されたりするのが常だった時代です。まして謀反人の家族は根絶やしが「常識」でした。しかし、忠興は玉を隠しました。
「逆臣の娘」である玉を、幽閉というかたちではありますが、殺されないように守ったのは忠興が玉を愛していたからだと言われています。
【味土野の幽閉地 女城跡】
ここは丹後半島の奥深く、周りを山に囲まれた、まさに幽閉するにふさわしいところです。
谷の奥の細い道を登りきったところに玉が幽閉されていた女城(めじろ)跡があります。女城と向き合う斜面には護衛のための男城(おじろ)を設け、敵からの襲撃に備えたそうです。
この2年間の幽閉生活の中で詠んだ歌の中にこのような歌が残っています。
【身をかくす 里は吉野の 奥ながら 花なき峰に 呼子鳥啼く】
丹後半島は地理的に京都の奥になりますが、山の谷の奥深く、花など咲かない木々に囲まれた幽閉生活は、琵琶湖湖畔の坂本城や堀のある勝龍寺城、天橋立を望む海辺にある宮津城など、広々とした美しい水のある風景の中で暮らしてきた20歳の玉にとって、とても耐え難いものだったに違いありません。
本能寺の変以降、父と一族を失い、自らは「逆臣の娘」として幽閉され、二人の幼子と引き離されて過ごした2年間はどの様な気持ちだったのでしょうか。
幽閉が解かれる天正12年(1584年)までの2年間、この間の彼女を支えたのは、光秀が玉の結婚する時に付けた小侍従や、細川家の親戚筋にあたる清原家の清原いと(後のマリア)らの侍女達でした。
天正12年(1584年)3月、信長の死後に覇権を握った羽柴秀吉の取り成しもあって、忠興は玉を細川家の大坂屋敷に戻しました。玉、21歳のときでした。この年に次男の興秋が生まれています。
大阪城に程近い玉造界隈にある【越中井】
この辺一帯は大阪城の近くにあった細川家屋敷跡です。この「越中井」はその邸内の台所にあった井戸だと言われています。
昔はこの辺りから大阪城の雄大な姿を見ることが出来たのでしょうが、今は高い建物に遮られて大阪城を見ることは出来ません。
大阪城公園から望む【大阪城天守閣】
2年間という過酷な幽閉生活で、仲のよかった夫婦仲にも微妙な影を落とし、玉自身もすっかり変わってしまったようでした。悲しみに心を閉ざし、怒りっぽく無愛想で、ときにはわが子にも会おうとしなかったそうです。
幽閉を解かれた玉でしたが、忠興によって外部との接触を禁じられていたようです。
玉は心の拠りどころを求めて、しだいにキリスト教に関心を寄せるようになりました。
天正14年(1586年) 玉が23歳のとき、三男の忠利が生まれています。
玉が24歳になった天正15年(1587年)春、豊臣秀吉の命により、忠興が九州征伐に出向いた留守の時、玉は意を決し、大阪屋敷を抜け出してイエズス会の教会を訪れました。その時、高井コスメ修道士にキリスト教の教理について鋭い質問をされ、修道士は大変驚かれたといいます。そのコスメ修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。
このとき玉は、「2度と教会には来れないから」と洗礼を授けて欲しいと懇願したそうですが、身分を隠していたため、それは許されませんでした。しかし、その後、侍女たちを口実を設けて教会に通わせ、16人が洗礼を受けたそうです。
天正15年(1587年)6月、秀吉はバテレン追放令を出し、玉が洗礼を受けることは困難になりましたが、イエズス会士グレゴリオ・デ・セスペデス神父の計らいで、侍女頭マリヤの手によって屋敷内で洗礼を受けることができまました。洗礼名は「ガラシャ」で、ラテン語で恩寵・神の恵みという意味です。
キリストの教えを知ってからの玉は、目を見張るほど明るく柔和で、辛抱強く愛らしく「別人のようになった」といいます。
忠興はその後、家中の侍女らがキリスト教に改宗したことを知って激怒し、改宗した侍女らを屋敷から追い出しました。
幸いにもガラシャ(玉)は発覚を免れましたが、拠り所を失ったガラシャは「夫と別れたい」と宣教師に打ち明けましたが、宣教師は「誘惑に負けてはならない」「困難に立ち向かってこそ、徳は磨かれる」と説いたそうです。
やがて、秀吉の天下統一は完成し、文禄元年(1592年)に朝鮮征伐(文禄の役)が諸大名に命ぜられ、忠興も朝鮮へ出陣します。翌年、明との講和が成立し、忠興らは帰国しますが、この後の慶長の役と共にこの朝鮮征伐は諸大名間の軋轢を生み、豊臣政権の弱体化につながりました。
秀吉のバテレン追放令から長い時間がたち、世間のキリシタンへの風当たりが多少和らいだことから、ガラシャは忠興にキリシタンであることを告白するに至ったようです。( 告白の時期は、1595~1598年頃と考えられます。)
イエズス会文書(ラウレス著『細川ガラシア夫人』に翻訳・引用されている)では、ガラシャが「世の人々が私をキリシタンであると言っていることをご存知でしょうか」と言うと忠興は「其方がキリスト教を奉じたければ構わない」と答えたとあります。
後に、忠興はガラシャのために大坂玉造邸内に聖堂を建てたそうです。
慶長3年(1598年) 豊臣秀吉が伏見城で亡くなります。
世の中の流れは、豊臣から徳川へ大きく変わって行き、ついに天下分目の合戦「関ヶ原の戦い」へつながっていきます。
慶長5年(1600年) 徳川家康が諸侯に会津征伐を命じ、忠興も出陣しました。
石田三成は畿内が手薄になったのを見計らい、徳川を討つべく動き始めます。
大坂玉造の細川屋敷にいたガラシャを、西軍の石田三成は人質に取ろうとしましたが、ガラシャはそれを敢然と拒否しました。
ガラシャはこのような事態になることをあらかじめ予期していたようで、武将の妻として、キリシタンとしてふさわしく死ぬにはどうしたらよいかと、神父に手紙で相談していました。
翌日、三成が実力行使に出て兵に屋敷を囲ませると、ガラシャは覚悟をきめ、邸内の礼拝堂で祈り、侍女たちを退去させました。侍女たちは共に死にたいと願いましたがゆるされなかったそうです。
ガラシャはキリスト教では自殺は大罪であるとの教えを守り、家老の小笠原秀清に槍で胸を貫かせて果てました。享年37歳でした。
辞世の句が残っています。
【散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】
薄幸だった彼女が、唯一心の拠り所とした信仰を貫き通した死でした。
なぜ、ガラシャは死を選んだのでしょう。人質として自身の運命を天にゆだねることも出来たはずなのに・・・。
辞世の句を読む限り感じられることは、天下を二分する勢力が激突する時代のうねりの中で、戦国大名の妻として、「細川家の命運をかけた戦いに臨む夫・忠興のとるべき道の妨げには、断じてなりはしない」という強い思いが、ガラシャをして今こそ散りぬべき時だと悟らせたのではないかなと思います。
時代に翻弄され、はかなく消えていった女性が多い中でも、ガラシャの芯の強さが際立ちます。やはり、父・光秀と母・煕子に影響をうけた明智の娘だったと思います。そのガラシャをささえたのは最後の時まで信仰でした。
ガラシャの死後、焼け落ちた屋敷からオルガンティノ神父がガラシャの骨を拾って、堺のキリシタン墓地に埋葬したそうです。
細川忠興はガラシャの死を悲しみ、後にオルガンティノ神父に依頼して教会葬を行い、自身も葬儀に参加したそうです。その後、遺骨は細川家の菩提寺の一つである大坂の崇禅寺へ改葬されたとのことです。
【崇禅寺】
崇禅寺はJR新大阪駅の近く、大阪市東淀川区にあります。
現在の本堂は平成元年(1989年)に再建されたもので当時の面影はありませんが、とても落ち着いた雰囲気の中にあります。
ガラシャのお墓はこの崇禅寺の一画に今も残っています。
でも、ガラシャの魂はここにはないような気がします。
大阪城に程近い玉造にある大阪カテドラル【聖マリア大聖堂】
この大聖堂のある場所は細川家の大阪屋敷のあった場所です。
細川屋敷の井戸であった「越中井」のところから約100m程の場所ですが、この大聖堂あたりまでが細川屋敷の敷地だとすると、当時の細川屋敷がかなりの広さであったことがわかります。
大聖堂の前にガラシャの像があります。
聖堂内には「最後の日のガラシャ夫人」を描いた絵が飾られています。
聖堂内は静かでとても美しく、この場所にいるだけで心が洗われるような気がします。
ガラシャの魂はきっと神の御許にあるのでしょう。
Wikipediaに細川ガラシャに関する興味深い記述がありました。
ガラシャをモデルにした戯曲「気丈な貴婦人」(グラーシャ)の初演は神聖ローマ帝国のエレオノーレ・マグダレーナ皇后の聖名祝日の祝いとして、イエスズ会の劇場でオペラとして発表された。
この戯曲はオーストリア・ハプスブルク家の姫君達に特に好まれたとされ、彼女達は政治的な理由で他国に嫁がされるガラシャを自分達の身の上に重ね、それでも自らの信仰を貫いた気高さに感銘を受けたと言う。エレオノーレ・マグダレーナ、マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリーザベト等も尊敬と感銘を受け、その生き方に深く影響を受けたと言われる。
あのマリー・アントワネットも戯曲を通してガラシャの生き方に感銘を受けていたのかと思うと、感慨深いものがあります。
彼女もまた悲劇的な最後をむかえましたが・・・。
では、また。
2010-03-20 03:20
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コメント(6)
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細川ガラシャ・・・とても興味ある女性の一人です。いつもながらの分かりやすいレポ&画像でとても楽しく拝見させて頂きました~~~。忠興・ガラシャ夫妻もたくさんの逸話が残っていてとても気になるカップルですよね。忠興はガラシャを深く愛すると同時に嫉妬心の強い人で、庭師がガラシャに挨拶をしただけで、「無礼者!」と一喝し惨殺してしまったとかいう話もありますし。好色の秀吉に会わせるのを恐れたり、その美貌を人の目にさらすのが嫌で外出を禁じたり。すごーく束縛したがる彼氏とか旦那さんとか・・現代でもいそうですよね(^^ゞ。本能寺の変では、細川藤孝・忠興親子は光秀の加勢の誘いを断りますが、それを知った時 玉はどんな思いだったのでしょう。結果的に頼るべき実家も失い「逆臣の娘」のレッテルを貼られ、山深い味土野に幽閉・・・。まさに幸せな生活から一転、奈落の底に落ちる思いだったことでしょう。直接的にではないにしても、父を殺した(見捨てた。先見の明があるともいう・・)夫に対して複雑な心境を抱かざるを得なかったと思います。人里離れた味土野の地では、貧しい時代から支え合い仲睦まじかった父と母、姉妹たち、雄大な琵琶湖を望む坂本城など、失われた懐かしい面影を胸に浮かべ涙したはず(/_;)。色々な悲しみ、苦悩、絶望があったけれども(ノイローゼ気味になったという話もあるし)、その中でキリスト教という救いを見つけられて本当に良かった。信じる者は救われる・・人の目からすれば壮絶な最期ではあるけれどもガラシャの心は安らかだったのではないかな、とも。
by suzy (2010-03-21 01:17)
◇suzyさんへ
ガラシャの記事を書こうと思ったきっかけは、昨年の12月に西教寺を訪れた際、総門脇に「小説 細川ガラシャ夫人」の説明看板を見つけたときでした。この時は、唐門の工事が終わっているかなって西教寺に寄り道したのですが、説明看板の「ガラシャ夫人」の文字を見たとき、子供の頃に「細川ガラシャ?ガラシャってなんだろう。」って、不思議に感じたことを思い出しました。もちろん、歴史好きになるにしたがい、ガラシャは明智光秀の娘であり、細川忠興の正室だったこと、そして壮絶な最後をとげたことなど知ってはいましたが、ガラシャも西教寺からの美しい風景を見たのかななんて思っているうちに、「それなら、ガラシャの一生を追ってみようかな」って考えたのが始まりです。
今年の1月1日に記事を書きはじめ、約2ヶ月半かかってようやくBlog UPすることができました。もちろん一生を追うのですから、各地を訪れなければならないし、時間もかかるのはわかっていましたが、日本海がわの味土野や一乗谷は天候不順で雪のため、なかなか訪れることが出来ませんでした。やっと訪れることが出来たのは、2月の終わり頃から3月に入ってからでした。それでも味土野や一乗谷には残雪が残っており、ほんとに冬の厳しさを感じさせられました。
特に味土野への道は険しく、案内看板がなければとても行くことが出来ないところでした。本当にこの道でいいのか不安になりながら、ようやく味土野にたどり着いた時は思わずガッツポーズ。Ninja君もドロドロでしたが・・・。(笑)
明智神社を訪れたときも、光秀が住んでいたところが一乗谷ではなく、ゆるい峠を越えた東大味地区だったことから、朝倉氏との微妙な距離感を感じることができ、「こりゃきっかけがあれば主を代えるよな」なんて思いましたね。^^
まだまだ、書きたいことがいっぱいあるのですが、長くなりそうなので・・・。(すでに長いですが。)^^
本当に今回ガラシャの足跡をたどることができてよかったと思っています。suzyさんのブログを拝見しなければ、西教寺を訪れることもなかったし、味土野へ行くこともなかったでしょう。これからもステキな記事を楽しみにしています。あ、夜更かし気味のsuzyさんですのでもちろん無理はなさらずに・・・^^
by susumu (2010-03-21 09:07)
しつこくすみません。またまたsuzyです。バイクで日にちをかけたレポ大変でしたね~~~。いつ行かれたのかな?と思っていたのですが、そうですよね、何カ月もかけないと、こんな充実した内容のBlogをUpできないですよね。私もsusumuさんのように一人の人物を追って各地を巡る旅、してみたいです。でも根気とマメさがなく、なかなか叶いません。しかもマメさがない上に飽きっぽく面倒臭がりな性格なので(最低な人間やな)、susumuさんのように分かりやすく丁寧な記事が書けない(^^ゞ。書いてる途中で疲れて&飽きてきて、内容が雑になります。あはは~。まぁ、忘れっぽくもあるので、「書くのが嫌にならないよう覚え書きのメモ程度の内容で」というのが私のブログのコンセプトです(←言い訳)!でもこうして過去に生きた人物の足跡を辿っていると、その人と関わりをもった人物の事をもっと知りたくなったり、その人の生まれ育った土地でその人が見たであろう同じ景色を見てみたくなったり、イモ蔓式に好奇心が湧いてくるのです。特に戦国時代は、常に「命」のやりとりがあり「死」が隣り合わせにあった時代。今の時代の常識が常識でないのは当たり前ですよね。主君を次々と変えたり、家族を人質として送ったり、側室を設けたり、神様仏様・占いにすがったり、自分や一族が生き残って行くためにはそれぞれにやり方は違うものの皆必死に生きていたのだと思います。その中でも夫婦がお互いを思いやる気持ちとか、親が子を大切に思う気持ち、嫉妬や欲望など、人間の根本としての感情はやはり今昔も変わらないと思うので、どのようにその時代の厳しい環境の中で、自分の気持ちをコントロールして折り合いをつけていたのかなって。折り合いがつかないからこそ、仏門や信仰にすがりたくなるのかなって思ったり。歴史の奥に潜む戦国時代の人々の在り方が、私の想像力を掻き立ててやみません。susumuさんのBlogとコメント↑拝見して、またまた好奇心がうずうずしてしまったので長いコメしてしまいました。(気持ち悪くて)申し訳ありません。
これからバイクのベストシーズンですね!花粉と黄砂に気を付けて!
by suzy (2010-03-21 11:40)
◇suzyさんへ
そうですよね。ひとりの人物を追っていくとその周りの人達も知りたくなっていきますね。今回のガラシャの父である明智光秀にしても、東大味地区では「あけっつぁま」といってとても慕われていたりして、世間の裏切りものや逆臣といったイメージとはかけ離れていたりで興味がつきません。細川忠興も、天下一気の短い人物と評されながらも、千利休の高弟7人に挙げられるなど文化人としても一流だったなんて・・・。忠興の父、細川藤孝は古今和歌集の「古今伝授」の継承者として天皇も一目置く人物だったそうで、スゴイなあって感じデス。
今回のガラシャの記事には書きませんでしたが、大阪玉造の「聖マリア大聖堂」のガラシャ像に並んでキリシタン大名の高山右近像もありました。この高山右近は信仰のためにすべてを捨ててしまった人物でとても興味深いです。
本当に歴史の興味がどんどん広がっていきます。^^ 歴史好きでよかったなぁ~。
バイクライフも4月から新たなるステージへ・・・。4月から自動2輪の大型教習へ行ってきます。入校手続きは1月に申し込みしてたんですが、なにせ菰野の自動車学校は小さくて、12月から高校生のための自動車の教習しかやってなくて4月からの教習になってしまいました。
それにしても黄砂がすごいですね。せっかく昨日ワゴンRを洗車したのに、黄砂まじりの雨でドロドロ。黒色は汚れが目立ちマス。TT
さあ、今から大河の「龍馬伝」を見ます!土佐も大変なことになっています。龍馬にも興味がつきません!(笑)
by susumu (2010-03-21 19:54)
先輩のすすめで昨日「細川ガラシャ」を読み終えたところです。
歴史は疎いのですが、本の影響かとても興味深く読ませていただきました。
歴史上の場所の今が写真で見られるなんてとっても嬉しいです。
大阪玉造の聖マリア大聖堂や越中井には行ってみます。
ありがとうございました。
by saboten (2011-11-16 14:21)
◇sabotenさんへ
ご訪問&コメントありがとうございました。^^
ふとしたきっかけで始めたガラシャの旅でしたが、ガラシャの人生を追っていくうちに自分にとってもガラシャは特別な存在になりました。
時代に翻弄された細川ガラシャの生涯をたどってみると、キリスト教に出会わなければ、過酷な運命にはとても耐えられなかったかもしれませんね。
聖マリア大聖堂のガラシャ像の穏やかな表情を見たとき、なんだかホッとして自分も救われた感じがしました。^^
by susumu (2011-11-20 08:12)