古今伝授の地で一首詠んじゃおうツーリング 後編 【京都 舞鶴 田辺城】 [歴史ロマンシリーズ]
慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は京都の伏見城で没しました。
時代の趨勢は次第に豊臣から徳川へと移っていきます。
そんな中、五大老の一人である上杉景勝が城郭を修築し始めたことに疑念を抱いた徳川家康が、景勝に上洛して弁明する事を求めましたが拒否された為、諸大名に会津征伐を発令し、慶長5年(1600年)6月、徳川家康は大阪城から軍勢を率いて出征しました。
この指令に従った大名は、細川忠興・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・山内一豊らです。
慶長5年(1600年)6月27日、丹後宮津城を出発した細川忠興は、総勢五千百名からなる大軍をもって、若狭から近江を抜けて中山道を目指しました。
同年7月、これを好機とかねてより家康に反感を抱いていた石田三成は、毛利輝元を総大将として擁立し挙兵。
石田三成らの西軍はまず家康側についた大名たちの妻子を大坂城に入城させ人質にとろうとします。
細川家の大阪屋敷にいた細川忠興の正室である細川ガラシャはこれを敢然と拒否して、家臣に命じて自らの命を絶たせます。
思惑のはずれた石田三成は畿内の武将に丹後の攻略を命じました。
細川家は当時、丹後一国を掌握するため、田辺城・宮津城・峰山城・久美浜城の四つの城を拠点としていました。
隠居をしていた忠興の父・細川幽斎は、ガラシャの死や田辺城侵攻の話を聞き、直ちに丹後国内の宮津・峰山・久美浜・中山・河守の各城を焼き払わせ、国中の武具や弾薬を集め、全兵力を田辺城に集中させ籠城することにしました。
そう、これが世に言う「田辺城籠城戦」の始まりです。
《昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館》
守る細川幽斎率いる城兵はわずかに五百。しかもこれは桂林寺・瑞光寺の僧兵や寺の和尚・弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数でした。
これに対して攻め手は丹波国福知山城主小野木重勝を総大将に、一万五千からの大軍で田辺城を取り囲み、海には軍船を浮かべて完全に包囲しました。
当初、戦いは圧倒的な兵力差ですぐに決着が着くかと思われましたが、籠城側の幽斎たちの抵抗は激しく善戦します。
戦いは長期戦となりますが、それには攻め手の戦闘意欲が低かった事情もあるようです。
細川幽斎は、武人としてだけではなく、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。
多くの弟子をもち、攻め手の敵軍の中にも幽斎の弟子は少なからずいました。
藤掛永勝、谷衛友、小出吉政、川勝秀氏などがそうで、銃撃戦の時には弾を込めずに空砲を撃っていたとの話もあります。
善戦してるとはいえ長期戦となれば、いずれ落城は必至。
幽斎は、自分が死ぬことによって古今伝授が途絶えてしまうことを心配し、伝授の途中であった皇弟である八条宮智仁親王へ、古今伝授の資料を献上したいと伝えます。
籠城のことを聞いた智仁親王は幽斎の身を案じ、五奉行のひとり前田玄以配下の者を案内役に侍臣大石甚助を田辺城へ派遣して開城を勧めますが、幽斎はこれを「武人として本意ではない」と拒否します。
そして7月29日、城内庭園の松の木の前で古今伝授を行います。
《田辺城跡の心種園に今も残る古今伝授の松》
古今相伝の書籍を入れた箱に証明状を付し、使者の大石甚助を通じて
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
の一首を添えて親王に対する古今伝授を完了させます。
幽斎の決死の覚悟は後陽成天皇の耳にも入りました。天皇は、大徳寺にいる幽斎の弟・玉浦(ぎょくほ)和尚に幽斎を説得するよう依頼をしますが、玉浦和尚は兄・幽斎の武人としての心情を汲み、辞退します。
そこで今度は京都所司代・前田玄以に勅使を出され、幽斎の説得を命じます。
玄以は勅命に従い、子の茂勝を田辺に遣わして幽斎を説得しますが、幽斎はこれも拒否。
幽斎の意志は固く、武人として最後まで戦い抜く決死の覚悟は変わりませんでした。
後陽成天皇は細川幽斎の身を案じるあまり、ついに直接田辺城に向けて勅使を派遣します。
両軍和睦の勅使として権大納言・烏丸光広、中院通勝、三条西実条の3名が、前田玄以の次男茂勝を召し連れて田辺に来着しました。
まず小野木重勝らに「城の囲みを解くように」と命じ、囲みを解かせたあと城内に入り後陽成天皇の勅諚をもって幽斎を説得。ついに幽斎は城を明け渡す決意をします。それは9月13日のことで、実際幽斎が田辺城を出て丹波亀山城に入ったのは9月18日でした。
こうして、52日に及ぶ長期間の籠城戦は幕を下ろします。
田辺城開城より2日後の慶長5年9月15日、関ヶ原において東西両軍主力は激突しますが、田辺城籠城戦において1万5千もの大軍を関ヶ原に向かわせず田辺にひきつけていたのは事実です。
18日にはすでに西軍は大敗しており、細川幽斎は勅命により田辺城を明け渡しましたが、結果として東軍の勝利に貢献したことになりました。
《田辺城城門(復元)》
現在、田辺城籠城戦が行なわれた田辺城跡は、舞鶴公園として市民の憩いの場所となっています。
平成4年(1997年)に復興された城門には田辺城資料館があります。
田辺城は日本100名城ではありませんが、資料館にスタンプがありましたので、とりあえず押してみた。^^
スタンプゲット!(^^)/
細川幽斎公の肖像画も発見!
細川幽斎公ってほんとにスゴイ人だと思います。
自分自身、細川幽斎って細川ガラシャの夫である細川忠興の父であるぐらいにしか知りませんでしたが、ガラシャの生涯を調べていくうちに幽斎公の凄さがわかってくるようになりました。
細川藤孝(幽斎)は天文3年(1534年)、京都の東山で室町幕府の重臣、三淵晴員の二男として誕生しました。でもね、実の父は第十二代将軍足利義晴だと言う説があるんですよね。^^
で、天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。
幕臣として将軍足利義輝に仕えますが、将軍の暗殺などで義輝の弟の足利義昭の将軍任官に奔走。
各地の有力大名を頼って各地を転々としますが、当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどだったそうです。
運命が変わったのは、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長と出会ったときからですね。
「姉川の戦い」「石山合戦」「長篠の合戦」「紀伊紀州征伐」など信長に助勢し、戦いに明け暮れる日々が続きます。
天正6年(1579年)、細川藤孝(幽斎)と明智光秀は信長の命により、丹後国を侵略し、一色氏を滅亡させまた。その功により細川藤孝(幽斎)には丹後国が与えられ、明智光秀には丹波国が与えられました。藤孝(幽斎)は宮津城を築き、ここを丹後経営の中心地としました。
「本能寺の変」をきっかけに細川藤孝(幽斎)は隠居し、「幽斎玄旨」と名乗ります。そして田辺に城を築き、隠居をするための城としました。幽斎は田辺城の築城者であり初代城主なんですね。^^
また幽斎は、武人としてだけではなく、和歌・連歌などの近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあり、その分野は太鼓・謡曲・乱舞・禅・囲碁・料理・茶道・書道・鞠などにおよぶ当代随一の教養人でもあったそうです。ほんとに凄いですよね~。^^
《彰古館》
昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館は、市指定文化財「糸井文庫」の錦絵資料から「酒呑童子」、「安寿と厨子王」、「浦島太郎」などが展示されています。
つらい水汲みをさせられている「安寿姫」と山のような荷物を担がされた「厨子王」です。
やっぱり丹後の国ならではの展示ですね。^^
それでは、田辺城跡である舞鶴公園をぶらっとしてみます。^^
本丸の石垣です。石垣自体はあまり高くありません。
石垣が高くないのは、城内から城外に向けて撃つ鉄砲の斜度の関係だそうで、当時の鉄砲は、筒先をあまり下げると弾がこぼれてしまうためなのだとか。(笑)
本丸石垣と本丸を囲んでいた内堀の名残のアヤメ池。
天守台の一部です。
さてさて、今回のお目当てである「心種園」へ行ってみます。
江戸時代の田辺藩主であった牧野氏が、細川幽斎の古今伝授の逸話に感銘を受けて、城内にある古今伝授の松を中心に築かせた日本庭園です。
この松の木の前で古今伝授が行なわれたんですね。^^
「古今伝授」ってご存知ない方も多いと思いますが、簡単に説明しますね。
醍醐天皇の勅命によって編まれた、わが国最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」。その古今和歌集の解釈に関する秘説などを中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を、師から弟子へ伝授することを「古今伝授」っていうそうです。
文人としても秀でていた細川幽斎は、当時の歌壇における最高峰「古今伝授」を、三条西実枝より、実枝の息子・公国が成長するまでの一時預かりとして相伝されます。三条西実枝より細川幽斎に伝えられたものを「二条流」といい、その他「堺伝授」や「奈良伝授」などがあったそうです。
そして幽斎は、約束どおり公国に対し古今伝授を行いましたが、幽斎の凄いところは、その後独自に研究を重ね、自身の二条流の古今伝授や、他流の古今伝授をまとめて集大成してしまいました。
この田辺城籠城戦のさなかに八条宮智仁親王に対して行なった「古今伝授」は幽斎が集大成したものであり、そしてそれはやがて、八条宮智仁親王から後水尾天皇へ伝授されます。以降「古今伝授」が御所に入り、宮中において伝えられるようになります。そして、古今伝授は代々の天皇に受け継がれていきます。そして近世の歌壇において最も権威あるものとして、後世にて、宮中における古今伝授を「御所伝授」とも呼ぶようになりました。
田辺城籠城戦のさなかに決死の覚悟で八条宮智仁親王へ古今伝授したときに添えられた歌・・・
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
『変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)』
人は生をうければいつかは必ず滅ぶ時がきます。
でもその人が残した心の種は後の人々の心の中で受け継がれて育ってゆくものなんですね・・・。
心からの感謝とともに・・・。
いつか田辺城の心種園を訪れたなら、幽斎公にちなんでぜひ一首詠んでみようと思ってました。
でもね~、普段歌なんて詠んだことないので無理です~。全然出てきません~。(笑)
田辺城にやってきたのはけっこう遅い時間でギリギリ資料館に入れる時間でした。寄り道し過ぎ~。^^
まあ、今回はお泊りツーリングなので、今晩ゆっくり考えて明日の朝にまた来ようと思います。
心種園の池でカモ君発見!
悠然と泳いでいます。気持ち良さそう。^^
こっちの庭石ではネコ君発見!
もしかすると君は田辺城の主ネコですか。^^
自分的には城跡にネコって大好きなんですよ。なので勝手に名前をつけてあげましょう。
舞鶴にちなんで「舞」ってのはどうですか。「舞にゃん」・・・気に入っていただけましたでしょうか。(笑)
そういえば三重県の津城跡に行ったときもネコに名前をつけてあげました。
藤堂高虎公にちなんでつけた名前「タカにゃん」です。
もちろん滋賀県の彦根城には・・・
「ひこにゃん」がいますけどね~。(笑)
田辺城に着いたのが夕方5時前で、お腹も空いてきたので、西舞鶴の街をブラブラしましょう。^^
商店街付近をブラブラしてると「こうちゃん」を発見しました!
ここでラーメンとお好み焼きと生ビールをしこたま飲んだんですけど、メッチャおいしかったです。
ラーメンはしょうゆラーメンですけど、スープが絶品です。麺も自分好みの細めんタイプでスープと良く絡んでウマ~。^^
お好み焼もふわふわアツアツでファーストフードというよりも料理に近い感じで、こんなお好み焼きもあるんだ~って感動でしたね。ビールがすすむわ~。(笑)
「こうちゃん」でお腹いっぱい食べて飲んだあとは、商店街をブラブラしてみます。
この日はお祭りなのかたくさんの露店が出てました。^^
夏祭り気分最高!(^^)/
西市民プラザで高校生たちの楽しいコンサートがありましたのでのぞいてみます。
歌あり、パフォーマンスありのホントに楽しいコンサートでした。見てる人たちも演奏してる高校生たちもメッチャ楽しそうでした。^^
こちらではおじさんバンドがベンチャーズを熱演してました。
自分も「ダイアモンドヘッド」は知ってますよ~。^^ もうノリノリで~す。(^^)/
人もメッチャ多くなってきました。
商店街で見つけた「博多寿司」さんで夜食を買って帰ります。
お寿司でもつまみながら、幽斎公に捧げる一首、考えないとね~。(笑)
そして翌朝、心種園にやって来ました。^^
今日は残念ながら雨模様。まあ、天気予報でわかっていたのでいいんですけどね。^^
さあ、昨日の晩に酔っ払いながら考えた一首をご披露します。^^
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に 咲き続けています こころの種」
あはは、へたくそな字でゴメンナサイ。 しかも、字あまりで字足らずの乱調ですけどね~。(笑)
きのうの高校生のコンサートやおじさんバンドのベンチャーズに感動して思ったんだけど、演奏を聴いてる人たちばかりでなく、演じてる人たちも心から楽しんでるな~って感じでした。
考えてみれば幽斎公があれだけ多彩な人だったのは、それぞれの道を極めようとしたのではなく、いろんなことに興味をもち、いろんなことを心から楽しんだ結果だったんじゃないかと思います。
そんな幽斎公がまいた「こころの種」は、舞鶴の地で若い人たちからお年寄りまでしっかりとその心の中に生き続けているようです。
舞鶴に来て本当に良かったと思います。幽斎公の「こころの種」はしっかりと自分の中にも育ち始めています。
命に限りはあるけれど、楽しみながら自分自身のこころの種を育てていこうと・・・。
そしていつか大輪の花を咲かすことができればいいかなって・・・。^^
《 雨と赤レンガとNinja君 》
では、また。
時代の趨勢は次第に豊臣から徳川へと移っていきます。
そんな中、五大老の一人である上杉景勝が城郭を修築し始めたことに疑念を抱いた徳川家康が、景勝に上洛して弁明する事を求めましたが拒否された為、諸大名に会津征伐を発令し、慶長5年(1600年)6月、徳川家康は大阪城から軍勢を率いて出征しました。
この指令に従った大名は、細川忠興・福島正則・加藤嘉明・黒田長政・浅野幸長・池田輝政・藤堂高虎・山内一豊らです。
慶長5年(1600年)6月27日、丹後宮津城を出発した細川忠興は、総勢五千百名からなる大軍をもって、若狭から近江を抜けて中山道を目指しました。
同年7月、これを好機とかねてより家康に反感を抱いていた石田三成は、毛利輝元を総大将として擁立し挙兵。
石田三成らの西軍はまず家康側についた大名たちの妻子を大坂城に入城させ人質にとろうとします。
細川家の大阪屋敷にいた細川忠興の正室である細川ガラシャはこれを敢然と拒否して、家臣に命じて自らの命を絶たせます。
思惑のはずれた石田三成は畿内の武将に丹後の攻略を命じました。
細川家は当時、丹後一国を掌握するため、田辺城・宮津城・峰山城・久美浜城の四つの城を拠点としていました。
隠居をしていた忠興の父・細川幽斎は、ガラシャの死や田辺城侵攻の話を聞き、直ちに丹後国内の宮津・峰山・久美浜・中山・河守の各城を焼き払わせ、国中の武具や弾薬を集め、全兵力を田辺城に集中させ籠城することにしました。
そう、これが世に言う「田辺城籠城戦」の始まりです。
《昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館》
守る細川幽斎率いる城兵はわずかに五百。しかもこれは桂林寺・瑞光寺の僧兵や寺の和尚・弟子をはじめ、農民町人に至るまで寄り集まった人数でした。
これに対して攻め手は丹波国福知山城主小野木重勝を総大将に、一万五千からの大軍で田辺城を取り囲み、海には軍船を浮かべて完全に包囲しました。
当初、戦いは圧倒的な兵力差ですぐに決着が着くかと思われましたが、籠城側の幽斎たちの抵抗は激しく善戦します。
戦いは長期戦となりますが、それには攻め手の戦闘意欲が低かった事情もあるようです。
細川幽斎は、武人としてだけではなく、藤原定家の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。
多くの弟子をもち、攻め手の敵軍の中にも幽斎の弟子は少なからずいました。
藤掛永勝、谷衛友、小出吉政、川勝秀氏などがそうで、銃撃戦の時には弾を込めずに空砲を撃っていたとの話もあります。
善戦してるとはいえ長期戦となれば、いずれ落城は必至。
幽斎は、自分が死ぬことによって古今伝授が途絶えてしまうことを心配し、伝授の途中であった皇弟である八条宮智仁親王へ、古今伝授の資料を献上したいと伝えます。
籠城のことを聞いた智仁親王は幽斎の身を案じ、五奉行のひとり前田玄以配下の者を案内役に侍臣大石甚助を田辺城へ派遣して開城を勧めますが、幽斎はこれを「武人として本意ではない」と拒否します。
そして7月29日、城内庭園の松の木の前で古今伝授を行います。
《田辺城跡の心種園に今も残る古今伝授の松》
古今相伝の書籍を入れた箱に証明状を付し、使者の大石甚助を通じて
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
の一首を添えて親王に対する古今伝授を完了させます。
幽斎の決死の覚悟は後陽成天皇の耳にも入りました。天皇は、大徳寺にいる幽斎の弟・玉浦(ぎょくほ)和尚に幽斎を説得するよう依頼をしますが、玉浦和尚は兄・幽斎の武人としての心情を汲み、辞退します。
そこで今度は京都所司代・前田玄以に勅使を出され、幽斎の説得を命じます。
玄以は勅命に従い、子の茂勝を田辺に遣わして幽斎を説得しますが、幽斎はこれも拒否。
幽斎の意志は固く、武人として最後まで戦い抜く決死の覚悟は変わりませんでした。
後陽成天皇は細川幽斎の身を案じるあまり、ついに直接田辺城に向けて勅使を派遣します。
両軍和睦の勅使として権大納言・烏丸光広、中院通勝、三条西実条の3名が、前田玄以の次男茂勝を召し連れて田辺に来着しました。
まず小野木重勝らに「城の囲みを解くように」と命じ、囲みを解かせたあと城内に入り後陽成天皇の勅諚をもって幽斎を説得。ついに幽斎は城を明け渡す決意をします。それは9月13日のことで、実際幽斎が田辺城を出て丹波亀山城に入ったのは9月18日でした。
こうして、52日に及ぶ長期間の籠城戦は幕を下ろします。
田辺城開城より2日後の慶長5年9月15日、関ヶ原において東西両軍主力は激突しますが、田辺城籠城戦において1万5千もの大軍を関ヶ原に向かわせず田辺にひきつけていたのは事実です。
18日にはすでに西軍は大敗しており、細川幽斎は勅命により田辺城を明け渡しましたが、結果として東軍の勝利に貢献したことになりました。
《田辺城城門(復元)》
現在、田辺城籠城戦が行なわれた田辺城跡は、舞鶴公園として市民の憩いの場所となっています。
平成4年(1997年)に復興された城門には田辺城資料館があります。
田辺城は日本100名城ではありませんが、資料館にスタンプがありましたので、とりあえず押してみた。^^
スタンプゲット!(^^)/
細川幽斎公の肖像画も発見!
細川幽斎公ってほんとにスゴイ人だと思います。
自分自身、細川幽斎って細川ガラシャの夫である細川忠興の父であるぐらいにしか知りませんでしたが、ガラシャの生涯を調べていくうちに幽斎公の凄さがわかってくるようになりました。
細川藤孝(幽斎)は天文3年(1534年)、京都の東山で室町幕府の重臣、三淵晴員の二男として誕生しました。でもね、実の父は第十二代将軍足利義晴だと言う説があるんですよね。^^
で、天文9年(1540年)、7歳で伯父である和泉半国守護細川元常(三淵晴員の兄)の養子となりました。
幕臣として将軍足利義輝に仕えますが、将軍の暗殺などで義輝の弟の足利義昭の将軍任官に奔走。
各地の有力大名を頼って各地を転々としますが、当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどだったそうです。
運命が変わったのは、朝倉氏に仕えていた明智光秀を通じて尾張の織田信長と出会ったときからですね。
「姉川の戦い」「石山合戦」「長篠の合戦」「紀伊紀州征伐」など信長に助勢し、戦いに明け暮れる日々が続きます。
天正6年(1579年)、細川藤孝(幽斎)と明智光秀は信長の命により、丹後国を侵略し、一色氏を滅亡させまた。その功により細川藤孝(幽斎)には丹後国が与えられ、明智光秀には丹波国が与えられました。藤孝(幽斎)は宮津城を築き、ここを丹後経営の中心地としました。
「本能寺の変」をきっかけに細川藤孝(幽斎)は隠居し、「幽斎玄旨」と名乗ります。そして田辺に城を築き、隠居をするための城としました。幽斎は田辺城の築城者であり初代城主なんですね。^^
また幽斎は、武人としてだけではなく、和歌・連歌などの近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあり、その分野は太鼓・謡曲・乱舞・禅・囲碁・料理・茶道・書道・鞠などにおよぶ当代随一の教養人でもあったそうです。ほんとに凄いですよね~。^^
《彰古館》
昭和15年(1940年)に復興された二層櫓の彰古館は、市指定文化財「糸井文庫」の錦絵資料から「酒呑童子」、「安寿と厨子王」、「浦島太郎」などが展示されています。
つらい水汲みをさせられている「安寿姫」と山のような荷物を担がされた「厨子王」です。
やっぱり丹後の国ならではの展示ですね。^^
それでは、田辺城跡である舞鶴公園をぶらっとしてみます。^^
本丸の石垣です。石垣自体はあまり高くありません。
石垣が高くないのは、城内から城外に向けて撃つ鉄砲の斜度の関係だそうで、当時の鉄砲は、筒先をあまり下げると弾がこぼれてしまうためなのだとか。(笑)
本丸石垣と本丸を囲んでいた内堀の名残のアヤメ池。
天守台の一部です。
さてさて、今回のお目当てである「心種園」へ行ってみます。
江戸時代の田辺藩主であった牧野氏が、細川幽斎の古今伝授の逸話に感銘を受けて、城内にある古今伝授の松を中心に築かせた日本庭園です。
この松の木の前で古今伝授が行なわれたんですね。^^
「古今伝授」ってご存知ない方も多いと思いますが、簡単に説明しますね。
醍醐天皇の勅命によって編まれた、わが国最初の勅撰和歌集である「古今和歌集」。その古今和歌集の解釈に関する秘説などを中心に、歌学や関連分野のいろいろな学説を、師から弟子へ伝授することを「古今伝授」っていうそうです。
文人としても秀でていた細川幽斎は、当時の歌壇における最高峰「古今伝授」を、三条西実枝より、実枝の息子・公国が成長するまでの一時預かりとして相伝されます。三条西実枝より細川幽斎に伝えられたものを「二条流」といい、その他「堺伝授」や「奈良伝授」などがあったそうです。
そして幽斎は、約束どおり公国に対し古今伝授を行いましたが、幽斎の凄いところは、その後独自に研究を重ね、自身の二条流の古今伝授や、他流の古今伝授をまとめて集大成してしまいました。
この田辺城籠城戦のさなかに八条宮智仁親王に対して行なった「古今伝授」は幽斎が集大成したものであり、そしてそれはやがて、八条宮智仁親王から後水尾天皇へ伝授されます。以降「古今伝授」が御所に入り、宮中において伝えられるようになります。そして、古今伝授は代々の天皇に受け継がれていきます。そして近世の歌壇において最も権威あるものとして、後世にて、宮中における古今伝授を「御所伝授」とも呼ぶようになりました。
田辺城籠城戦のさなかに決死の覚悟で八条宮智仁親王へ古今伝授したときに添えられた歌・・・
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
『変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです(そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)』
人は生をうければいつかは必ず滅ぶ時がきます。
でもその人が残した心の種は後の人々の心の中で受け継がれて育ってゆくものなんですね・・・。
心からの感謝とともに・・・。
いつか田辺城の心種園を訪れたなら、幽斎公にちなんでぜひ一首詠んでみようと思ってました。
でもね~、普段歌なんて詠んだことないので無理です~。全然出てきません~。(笑)
田辺城にやってきたのはけっこう遅い時間でギリギリ資料館に入れる時間でした。寄り道し過ぎ~。^^
まあ、今回はお泊りツーリングなので、今晩ゆっくり考えて明日の朝にまた来ようと思います。
心種園の池でカモ君発見!
悠然と泳いでいます。気持ち良さそう。^^
こっちの庭石ではネコ君発見!
もしかすると君は田辺城の主ネコですか。^^
自分的には城跡にネコって大好きなんですよ。なので勝手に名前をつけてあげましょう。
舞鶴にちなんで「舞」ってのはどうですか。「舞にゃん」・・・気に入っていただけましたでしょうか。(笑)
そういえば三重県の津城跡に行ったときもネコに名前をつけてあげました。
藤堂高虎公にちなんでつけた名前「タカにゃん」です。
もちろん滋賀県の彦根城には・・・
「ひこにゃん」がいますけどね~。(笑)
田辺城に着いたのが夕方5時前で、お腹も空いてきたので、西舞鶴の街をブラブラしましょう。^^
商店街付近をブラブラしてると「こうちゃん」を発見しました!
ここでラーメンとお好み焼きと生ビールをしこたま飲んだんですけど、メッチャおいしかったです。
ラーメンはしょうゆラーメンですけど、スープが絶品です。麺も自分好みの細めんタイプでスープと良く絡んでウマ~。^^
お好み焼もふわふわアツアツでファーストフードというよりも料理に近い感じで、こんなお好み焼きもあるんだ~って感動でしたね。ビールがすすむわ~。(笑)
「こうちゃん」でお腹いっぱい食べて飲んだあとは、商店街をブラブラしてみます。
この日はお祭りなのかたくさんの露店が出てました。^^
夏祭り気分最高!(^^)/
西市民プラザで高校生たちの楽しいコンサートがありましたのでのぞいてみます。
歌あり、パフォーマンスありのホントに楽しいコンサートでした。見てる人たちも演奏してる高校生たちもメッチャ楽しそうでした。^^
こちらではおじさんバンドがベンチャーズを熱演してました。
自分も「ダイアモンドヘッド」は知ってますよ~。^^ もうノリノリで~す。(^^)/
人もメッチャ多くなってきました。
商店街で見つけた「博多寿司」さんで夜食を買って帰ります。
お寿司でもつまみながら、幽斎公に捧げる一首、考えないとね~。(笑)
そして翌朝、心種園にやって来ました。^^
今日は残念ながら雨模様。まあ、天気予報でわかっていたのでいいんですけどね。^^
さあ、昨日の晩に酔っ払いながら考えた一首をご披露します。^^
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に 咲き続けています こころの種」
あはは、へたくそな字でゴメンナサイ。 しかも、字あまりで字足らずの乱調ですけどね~。(笑)
きのうの高校生のコンサートやおじさんバンドのベンチャーズに感動して思ったんだけど、演奏を聴いてる人たちばかりでなく、演じてる人たちも心から楽しんでるな~って感じでした。
考えてみれば幽斎公があれだけ多彩な人だったのは、それぞれの道を極めようとしたのではなく、いろんなことに興味をもち、いろんなことを心から楽しんだ結果だったんじゃないかと思います。
そんな幽斎公がまいた「こころの種」は、舞鶴の地で若い人たちからお年寄りまでしっかりとその心の中に生き続けているようです。
舞鶴に来て本当に良かったと思います。幽斎公の「こころの種」はしっかりと自分の中にも育ち始めています。
命に限りはあるけれど、楽しみながら自分自身のこころの種を育てていこうと・・・。
そしていつか大輪の花を咲かすことができればいいかなって・・・。^^
《 雨と赤レンガとNinja君 》
では、また。
2010-07-18 09:15
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コメント(12)
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舞鶴満喫出来た感じが伝わってきますね^^
それにしても 歴史詳しいですね~
ラーメンとお好み焼きと生ビールしこたま。。。
なのに夜食って (*≧m≦*)ププッ
すごく食べるんですね[壁])≡サッ!!
一首もいいと思いますよ
こころの種ですね
いつか大輪の花を咲かせることが出来たらいいですね^^v
by chie (2010-07-18 22:15)
記事を拝見して、感動としか言いようがありません。
ビックリしました。
郷土史家の先生にも紹介させて頂きたいと思います。
こうちゃんに博多寿司^^;^^;^^;
当店は、昔、平野屋商店街の写真の時計屋の横だったんです。
その当時は人が溢れかえっていまして・・・。
susumu様に
脱帽でございます。
本当にありがとうございます。^^;
by ソニックマイヅル (2010-07-18 22:16)
◇chieさんへ
舞鶴は本当に楽しかったデス。^^
出来ればもう一泊したかったな~。(笑)
ラーメンとお好み焼きと生ビールしこたま。。。
なのに夜食って ・・・言われてみればメッチャ食べてますよね。(笑)
普段はあまり食べないのですが、お泊りツーリングの今回は
生ビールが飲める嬉しさもあってついついっていう感じでしたね~。^^
一首はちょっと恥ずかしいデス。^^
幽斎公が見たら修行が足りんって怒られそうな感じですね。
同じ時代に生きていたら幽斎公に弟子入りしたいぐらいデス。(笑)
by susumu (2010-07-19 06:58)
◇ソニックマイヅルさんへ
大変に恐縮しております。^^
本当に自分の興味だけの長~い記事になっていますね。
もっとまとめられたらな~って思いますが、まとめるのがすごく苦手でして・・・。
でも、舞鶴に行って本当に良かったな~っていう感動を少しでも伝えたくてこうなっちゃいました~。お許しを~~。^^
ソニックマイヅルさんは、昔、平野屋商店街の時計屋さんの横だったんですか。その前をうろうろしてた自分がいたと思うと、なんだか嬉しいですね。
幽斎公に捧げる一首を書いた短冊は商店街のお店で購入しました。普通に短冊が売っているお店があるなんて、正直感動しました。自分の住んでる町にはそんなお店なんてありませんもん。
舞鶴にはこれからも行きますよ~。遊覧船にも乗りたいですから。(笑)
by susumu (2010-07-19 06:58)
初めまして。凄い大作ですね。続きが気になりますね。
by うつマモル (2010-07-19 22:34)
素晴らしいですね~。
お城の雰囲気もとってもいいし、そこを舞台に繰り広げらられたドラマにも心打たれます。気になっていた古今伝授についても分かりやすい説明嬉しかったですよ。
それにしても幽斎公、カッコいい~~(←こんな簡単な表現で申し訳ないくらい)。
文武両道で和歌などにも精通していたということはふんわりと知っていましたが、改めて人間国宝と言っても良いくらいの逸材だな~と思いました。
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」、心に染みるとてもよい句ですね。
それにsusumuさんの一句もなかなかじゃないですか^^
にゃんこや鴨ちゃん、ヒコにゃんまで登場して、susumuさんの優しさが伝わってくるような温かいブログですね!
そして商店街をぶら~~っと流すあたりもとても楽しくて・美味しそうで、私も行きたくなりましたよ~~。
by suzy (2010-07-20 00:31)
◇うつマモルさんへ
興味のおもむくままに書いていたら、とっても長い記事になってしまいましたね。^^
この後は雨の中バイクで帰りましたので、ネタはブログUPできるようなネタはありません。なので、今回はこれで終了ですね。^^
でも、舞鶴はとってもいいところで、まだ行っていないところもありますので、必ずまた訪れようと思います。ですので、続きはその時ということで・・・。(笑)
by susumu (2010-07-20 19:11)
◇suzyさんへ
幽斎公って、戦国期のみならず、長い歴史の中でも特筆すべき人物だと思います。でも、残念ながらいまいちメジャーではありませんね~。^^
幽斎公に細川忠興とガラシャ夫人の物語ってとってもドラマチックだと思うんですけどね~。いつか大河でやってくれないかな・・・。(笑)
「いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉」
幽斎公が死を覚悟して詠んだ歌ですね。辞世の句に等しいと思います。
「こころの種」ってよく言ったものだと思います。種は芽生え、育ち、やがて花を咲かせるものですね。そしてまた種を残してゆく・・・。
いい言葉です。同じ時代に生きていたら、絶対弟子入りしているんだけどな~。(笑)
今、地方都市の商店街って寂れているところが多いですよね。営業していない空店舗も多かったりして・・・。商店街をぶら~ってするのがけっこう好きな自分としてはちょっと残念なんですけどね~。でもここ舞鶴の商店街は、みんなで力をあわせて盛り上げてるな~って感じでしたよ。自分も酔っ払って盛り上がってましたけど・・・。(笑)
by susumu (2010-07-20 20:40)
こんばんは。
舞鶴を思いっきり堪能した旅だったんですね。
お城は自分も大好きです。
先週の土日自分は岩国城と広島城見てきましたよ。
いつも色々物知りなんだなって驚かされます。
次の旅もたのしみにしてますね
by かいかい (2010-07-21 21:18)
◇かいかいさんへ
お~っ、岩国城に広島城ですか~。
もしかするとかいかいさんもバイクでお泊りツーリングですか~。^^
錦帯橋から見る岩国城なんて最高でしょうね。
岩国城や広島城って一度は行きたいお城ですが、三重からちょっと遠いのでまだ、行けてません。やっぱりETC付けなきゃダメかな~。^^
自分は全然物知りではありませんが、お城にまつわる人間ドラマってけっこう好きなので、ものすごく長~い記事になっちゃいましたね。(笑)
次回は涼しいところに行きたいです。(笑)
by susumu (2010-07-22 20:40)
あ!猫もいけるのですか?
是非にも岩国に来てください!
by hanamura (2010-09-22 22:13)
◇hanamuraさんへ
猫も犬も大好きです。^^
ただ、城跡にはさすがに犬はいませんね。散歩犬ぐらいしか見たことありません。城跡の猫はの~んびりしていますね。
縞猫ちゃんのアクビ写真最高ですね。思わず微笑んでしまいます。^^
by susumu (2010-09-23 20:22)