遠州にある安倍晴明公ゆかりの地 ~祈り~ 【静岡県 掛川市 水神宮】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
は~い、暑い暑い日々が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今回は掛川市にある「水神宮」への旅の続きです。^^
ワゴンRは天竜川を越えて、一路「水神宮」のある、静岡県掛川市横須賀へ・・・
磐田市、袋井市を通って、ようやく掛川市横須賀にやってまいりましたが・・・
地図を見ると、「水神宮」の境内社「月夜見神社」の近くに「横須賀城跡公園」があるのがわかると思います。
「水神宮」へ行く前に、まずは「横須賀城跡」に行ってみることにします。^^
【横須賀城跡】
なるほど・・・「横須賀城」は徳川家康が織田信長と同盟を結んでいたころ、武田軍に奪われていた「高天神城」を奪還するために、家康が家臣の大須賀康高に命じて築城させたお城だったのですね。^^
なんといっても、「横須賀城」の特徴といえば・・・
玉石垣~ ^^
これは珍しい「玉石垣」のお城です。初めてみました。^^
説明板に書かれていましたが、この玉石垣は平成6年~平成8年にかけて復元されたそうです。
本来の玉石垣は天竜川の石が使われていたみたいですが、復元された玉石垣の灰青色の石は大井川から採取された石を使っているそうです。
それでは、本丸の方へ・・・
そして、天守台跡です。^^
裏手にあたる北の丸から本丸・天守閣跡を眺めてみます。^^
あはは、見事な土塁ですね。玉石垣ではありません。^^
築城当時(1578年~1580年)は、砦のようなもので、天守はもちろん石垣等も築かれていない城だったようです。
横須賀城の城郭が形造られたのは、徳川家康の関東転封にともなって大須賀氏も関東へ移って、新たに城主となった渡瀬氏、または次の有馬氏の時代(1590年~1600年)の頃だといわれています。
江戸期には三層四階の天守閣があったそうです。
横須賀城図をよく見るとわかると思いますが、正面を向いた部分だけ玉石垣が積まれています。
丸っこくて不安定な河原の石を使っているところを見ると、この辺りでは石垣用の石材を調達することは難しかったようですね。
この図を見ると下の方に「入江」と書かれているのがわかると思います。
そうなのです、この横須賀城はかつて海に面していたお城だったのです。
説明文によれば宝永4年(1707年)の宝永大地震によって、地盤が隆起したとあります。
正直驚きました。だってここ横須賀城は海からかなりの距離がありますもん。
宝永の大地震でいったいどれだけ隆起したのでしょうか・・・・ 地図でみると海から2km位はありそうです。
宝永地震は東海・東南海地震と南海地震が同時に発生したM8.4 - 8.6の巨大地震で、今年の東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震だったそうです。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った・・・。そしてこの地震から49日後に富士山が大噴火して、江戸でも火山灰が降り積もったそうです。
宝永大地震が起きるまでは一帯が入江であり港町でもありました。港町時代は遠江航路の中継地でしたが、港が失われると陸上交通の中継地、宿場町へと変わっていったそうです。
当時の堀は埋められて、二の丸は宅地化され、現在では本丸周辺しか残っていません。
では、横須賀城の不開門が移築され現存しているという「撰要寺」に行ってみることにします。
ここ「撰要寺」は歴代の横須賀城主と関係が深い寺院みたいですね。
説明文によれば、宝永大地震だけではなく、嘉永7年(1854年)の安政東海地震でも土地が隆起したみたいですね。このときの津波による被害も甚大だったみたいです。
【不開門】(あかずの門) 横須賀城現存遺構
う~ん、やっぱり歴史を感じさせる古さですね。^^
そして、「撰要寺」の石垣も・・・
玉石垣でした~。^^
ただ、崩れやすい角だけは加工した石を使っての「算木積み」ですね。
玉石垣の古さから見て、かつての横須賀城もこんな感じだったのでしょうか。
さて、それでは、目的地の「水神宮」へ行くとしますか・・・
三の丸跡にワゴンRを停めて歩いていきます。「水神宮」へは近いです、三の丸跡から300m位です。
「水神宮」に到着~ ^^
やっぱり、ここも玉石垣ですね。
でも、階段がすごく急なんです。
仰角60度ぐらいあります。
手すりも無いし、落ちないように気をつけないと・・・
【水神宮】
水神宮は寛和元年(985年)、安倍晴明が勧請したといういい伝えがある小さな神社です。
主祭神は「水波能売命」で水神様です。
水神宮の横に、大正8年(1919年)にここに合祀された「月夜見神社」がありますね。
地図には「月夜見神社」しかのっていませんけど・・・(笑)
ここへ来る前には、海の近くにない「水神宮」に違和感を覚えたのですが、横須賀城に行ったときに、宝永・安政の大地震の土地隆起で海から離れてしまった事実を知って納得したのでした。
でも高名な陰陽師の安倍晴明がこの地へ来て、水神様を勧請したのには何か理由があったのでしょうか。
その謎を解くために、さらに5km位離れた掛川市の大渕地区にある晴明塚へ行ってみます。
晴明塚へGo!
と、その前に・・・
清水邸庭園で一服~ ^^
今日は表千家の先生のお茶が楽しめるようです。^^
千利休を祖をする千家流茶道は3代目の宗旦の次代のときに分派し、表千家・裏千家・武者小路千家の「三千家」となりました。
現在では裏千家が茶道諸流派中最大の流派です。
今日は本家の表千家の先生が点てたお茶をいただきます。^^
梅の御菓子も美味しゅうございました。^^
三千家の点前作法はそれぞれに少し違いがありますが、お茶に関していえば、裏千家のお茶はよく泡立てますが、表千家・綾小路千家ではそんなには泡立てません。
今日のお茶は表千家のお茶なのでそんなには泡立ってないですね。^^
表千家では茶杓に抹茶を一杯半ですが、裏千家では二杯入れますので、抹茶の量の違いもあるようです。
茶室の雰囲気も表千家の先生の所作や会話も素晴しく、けっこうなお手前でした。^^
それでは、晴明塚へ・・・
やってまいりました「晴明塚」。
あずき色の石が積まれている不思議な場所です。
うん、やっぱり安倍晴明は津波を防ぐためにこの地へ来たのですね。
過去より幾度となく繰り返されてきた悲劇を防ぐためにこの地で祈った・・・。
歴史を振り返れば、安倍晴明が生きているうちはこの地で大地震は起らなかったみたいです。
安倍晴明が千年前に祈ったこの地は、海の近くだったのでしょうが、今の海は遠くにあります。
ワゴンRで海へ・・・
海鳴りが怖いぐらいです。
今までたくさんの涙を流してきたけれど・・・
今の自分は祈ることぐらいしかできないけれど・・・
きっといつか乗り越えることが出来るよ。
では、また。
今回は掛川市にある「水神宮」への旅の続きです。^^
ワゴンRは天竜川を越えて、一路「水神宮」のある、静岡県掛川市横須賀へ・・・
磐田市、袋井市を通って、ようやく掛川市横須賀にやってまいりましたが・・・
地図を見ると、「水神宮」の境内社「月夜見神社」の近くに「横須賀城跡公園」があるのがわかると思います。
「水神宮」へ行く前に、まずは「横須賀城跡」に行ってみることにします。^^
【横須賀城跡】
なるほど・・・「横須賀城」は徳川家康が織田信長と同盟を結んでいたころ、武田軍に奪われていた「高天神城」を奪還するために、家康が家臣の大須賀康高に命じて築城させたお城だったのですね。^^
なんといっても、「横須賀城」の特徴といえば・・・
玉石垣~ ^^
これは珍しい「玉石垣」のお城です。初めてみました。^^
説明板に書かれていましたが、この玉石垣は平成6年~平成8年にかけて復元されたそうです。
本来の玉石垣は天竜川の石が使われていたみたいですが、復元された玉石垣の灰青色の石は大井川から採取された石を使っているそうです。
それでは、本丸の方へ・・・
そして、天守台跡です。^^
裏手にあたる北の丸から本丸・天守閣跡を眺めてみます。^^
あはは、見事な土塁ですね。玉石垣ではありません。^^
築城当時(1578年~1580年)は、砦のようなもので、天守はもちろん石垣等も築かれていない城だったようです。
横須賀城の城郭が形造られたのは、徳川家康の関東転封にともなって大須賀氏も関東へ移って、新たに城主となった渡瀬氏、または次の有馬氏の時代(1590年~1600年)の頃だといわれています。
江戸期には三層四階の天守閣があったそうです。
横須賀城図をよく見るとわかると思いますが、正面を向いた部分だけ玉石垣が積まれています。
丸っこくて不安定な河原の石を使っているところを見ると、この辺りでは石垣用の石材を調達することは難しかったようですね。
この図を見ると下の方に「入江」と書かれているのがわかると思います。
そうなのです、この横須賀城はかつて海に面していたお城だったのです。
説明文によれば宝永4年(1707年)の宝永大地震によって、地盤が隆起したとあります。
正直驚きました。だってここ横須賀城は海からかなりの距離がありますもん。
宝永の大地震でいったいどれだけ隆起したのでしょうか・・・・ 地図でみると海から2km位はありそうです。
宝永地震は東海・東南海地震と南海地震が同時に発生したM8.4 - 8.6の巨大地震で、今年の東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震だったそうです。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った・・・。そしてこの地震から49日後に富士山が大噴火して、江戸でも火山灰が降り積もったそうです。
宝永大地震が起きるまでは一帯が入江であり港町でもありました。港町時代は遠江航路の中継地でしたが、港が失われると陸上交通の中継地、宿場町へと変わっていったそうです。
当時の堀は埋められて、二の丸は宅地化され、現在では本丸周辺しか残っていません。
では、横須賀城の不開門が移築され現存しているという「撰要寺」に行ってみることにします。
ここ「撰要寺」は歴代の横須賀城主と関係が深い寺院みたいですね。
説明文によれば、宝永大地震だけではなく、嘉永7年(1854年)の安政東海地震でも土地が隆起したみたいですね。このときの津波による被害も甚大だったみたいです。
【不開門】(あかずの門) 横須賀城現存遺構
う~ん、やっぱり歴史を感じさせる古さですね。^^
そして、「撰要寺」の石垣も・・・
玉石垣でした~。^^
ただ、崩れやすい角だけは加工した石を使っての「算木積み」ですね。
玉石垣の古さから見て、かつての横須賀城もこんな感じだったのでしょうか。
さて、それでは、目的地の「水神宮」へ行くとしますか・・・
三の丸跡にワゴンRを停めて歩いていきます。「水神宮」へは近いです、三の丸跡から300m位です。
「水神宮」に到着~ ^^
やっぱり、ここも玉石垣ですね。
でも、階段がすごく急なんです。
仰角60度ぐらいあります。
手すりも無いし、落ちないように気をつけないと・・・
【水神宮】
水神宮は寛和元年(985年)、安倍晴明が勧請したといういい伝えがある小さな神社です。
主祭神は「水波能売命」で水神様です。
水神宮の横に、大正8年(1919年)にここに合祀された「月夜見神社」がありますね。
地図には「月夜見神社」しかのっていませんけど・・・(笑)
ここへ来る前には、海の近くにない「水神宮」に違和感を覚えたのですが、横須賀城に行ったときに、宝永・安政の大地震の土地隆起で海から離れてしまった事実を知って納得したのでした。
でも高名な陰陽師の安倍晴明がこの地へ来て、水神様を勧請したのには何か理由があったのでしょうか。
その謎を解くために、さらに5km位離れた掛川市の大渕地区にある晴明塚へ行ってみます。
晴明塚へGo!
と、その前に・・・
清水邸庭園で一服~ ^^
今日は表千家の先生のお茶が楽しめるようです。^^
千利休を祖をする千家流茶道は3代目の宗旦の次代のときに分派し、表千家・裏千家・武者小路千家の「三千家」となりました。
現在では裏千家が茶道諸流派中最大の流派です。
今日は本家の表千家の先生が点てたお茶をいただきます。^^
梅の御菓子も美味しゅうございました。^^
三千家の点前作法はそれぞれに少し違いがありますが、お茶に関していえば、裏千家のお茶はよく泡立てますが、表千家・綾小路千家ではそんなには泡立てません。
今日のお茶は表千家のお茶なのでそんなには泡立ってないですね。^^
表千家では茶杓に抹茶を一杯半ですが、裏千家では二杯入れますので、抹茶の量の違いもあるようです。
茶室の雰囲気も表千家の先生の所作や会話も素晴しく、けっこうなお手前でした。^^
それでは、晴明塚へ・・・
やってまいりました「晴明塚」。
あずき色の石が積まれている不思議な場所です。
うん、やっぱり安倍晴明は津波を防ぐためにこの地へ来たのですね。
過去より幾度となく繰り返されてきた悲劇を防ぐためにこの地で祈った・・・。
歴史を振り返れば、安倍晴明が生きているうちはこの地で大地震は起らなかったみたいです。
安倍晴明が千年前に祈ったこの地は、海の近くだったのでしょうが、今の海は遠くにあります。
ワゴンRで海へ・・・
海鳴りが怖いぐらいです。
今までたくさんの涙を流してきたけれど・・・
今の自分は祈ることぐらいしかできないけれど・・・
きっといつか乗り越えることが出来るよ。
では、また。