遠州にある安倍晴明公ゆかりの地 ~祈り~ 【静岡県 掛川市 水神宮】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
は~い、暑い暑い日々が続きますが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
今回は掛川市にある「水神宮」への旅の続きです。^^
ワゴンRは天竜川を越えて、一路「水神宮」のある、静岡県掛川市横須賀へ・・・
磐田市、袋井市を通って、ようやく掛川市横須賀にやってまいりましたが・・・
地図を見ると、「水神宮」の境内社「月夜見神社」の近くに「横須賀城跡公園」があるのがわかると思います。
「水神宮」へ行く前に、まずは「横須賀城跡」に行ってみることにします。^^
【横須賀城跡】
なるほど・・・「横須賀城」は徳川家康が織田信長と同盟を結んでいたころ、武田軍に奪われていた「高天神城」を奪還するために、家康が家臣の大須賀康高に命じて築城させたお城だったのですね。^^
なんといっても、「横須賀城」の特徴といえば・・・
玉石垣~ ^^
これは珍しい「玉石垣」のお城です。初めてみました。^^
説明板に書かれていましたが、この玉石垣は平成6年~平成8年にかけて復元されたそうです。
本来の玉石垣は天竜川の石が使われていたみたいですが、復元された玉石垣の灰青色の石は大井川から採取された石を使っているそうです。
それでは、本丸の方へ・・・
そして、天守台跡です。^^
裏手にあたる北の丸から本丸・天守閣跡を眺めてみます。^^
あはは、見事な土塁ですね。玉石垣ではありません。^^
築城当時(1578年~1580年)は、砦のようなもので、天守はもちろん石垣等も築かれていない城だったようです。
横須賀城の城郭が形造られたのは、徳川家康の関東転封にともなって大須賀氏も関東へ移って、新たに城主となった渡瀬氏、または次の有馬氏の時代(1590年~1600年)の頃だといわれています。
江戸期には三層四階の天守閣があったそうです。
横須賀城図をよく見るとわかると思いますが、正面を向いた部分だけ玉石垣が積まれています。
丸っこくて不安定な河原の石を使っているところを見ると、この辺りでは石垣用の石材を調達することは難しかったようですね。
この図を見ると下の方に「入江」と書かれているのがわかると思います。
そうなのです、この横須賀城はかつて海に面していたお城だったのです。
説明文によれば宝永4年(1707年)の宝永大地震によって、地盤が隆起したとあります。
正直驚きました。だってここ横須賀城は海からかなりの距離がありますもん。
宝永の大地震でいったいどれだけ隆起したのでしょうか・・・・ 地図でみると海から2km位はありそうです。
宝永地震は東海・東南海地震と南海地震が同時に発生したM8.4 - 8.6の巨大地震で、今年の東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震だったそうです。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った・・・。そしてこの地震から49日後に富士山が大噴火して、江戸でも火山灰が降り積もったそうです。
宝永大地震が起きるまでは一帯が入江であり港町でもありました。港町時代は遠江航路の中継地でしたが、港が失われると陸上交通の中継地、宿場町へと変わっていったそうです。
当時の堀は埋められて、二の丸は宅地化され、現在では本丸周辺しか残っていません。
では、横須賀城の不開門が移築され現存しているという「撰要寺」に行ってみることにします。
ここ「撰要寺」は歴代の横須賀城主と関係が深い寺院みたいですね。
説明文によれば、宝永大地震だけではなく、嘉永7年(1854年)の安政東海地震でも土地が隆起したみたいですね。このときの津波による被害も甚大だったみたいです。
【不開門】(あかずの門) 横須賀城現存遺構
う~ん、やっぱり歴史を感じさせる古さですね。^^
そして、「撰要寺」の石垣も・・・
玉石垣でした~。^^
ただ、崩れやすい角だけは加工した石を使っての「算木積み」ですね。
玉石垣の古さから見て、かつての横須賀城もこんな感じだったのでしょうか。
さて、それでは、目的地の「水神宮」へ行くとしますか・・・
三の丸跡にワゴンRを停めて歩いていきます。「水神宮」へは近いです、三の丸跡から300m位です。
「水神宮」に到着~ ^^
やっぱり、ここも玉石垣ですね。
でも、階段がすごく急なんです。
仰角60度ぐらいあります。
手すりも無いし、落ちないように気をつけないと・・・
【水神宮】
水神宮は寛和元年(985年)、安倍晴明が勧請したといういい伝えがある小さな神社です。
主祭神は「水波能売命」で水神様です。
水神宮の横に、大正8年(1919年)にここに合祀された「月夜見神社」がありますね。
地図には「月夜見神社」しかのっていませんけど・・・(笑)
ここへ来る前には、海の近くにない「水神宮」に違和感を覚えたのですが、横須賀城に行ったときに、宝永・安政の大地震の土地隆起で海から離れてしまった事実を知って納得したのでした。
でも高名な陰陽師の安倍晴明がこの地へ来て、水神様を勧請したのには何か理由があったのでしょうか。
その謎を解くために、さらに5km位離れた掛川市の大渕地区にある晴明塚へ行ってみます。
晴明塚へGo!
と、その前に・・・
清水邸庭園で一服~ ^^
今日は表千家の先生のお茶が楽しめるようです。^^
千利休を祖をする千家流茶道は3代目の宗旦の次代のときに分派し、表千家・裏千家・武者小路千家の「三千家」となりました。
現在では裏千家が茶道諸流派中最大の流派です。
今日は本家の表千家の先生が点てたお茶をいただきます。^^
梅の御菓子も美味しゅうございました。^^
三千家の点前作法はそれぞれに少し違いがありますが、お茶に関していえば、裏千家のお茶はよく泡立てますが、表千家・綾小路千家ではそんなには泡立てません。
今日のお茶は表千家のお茶なのでそんなには泡立ってないですね。^^
表千家では茶杓に抹茶を一杯半ですが、裏千家では二杯入れますので、抹茶の量の違いもあるようです。
茶室の雰囲気も表千家の先生の所作や会話も素晴しく、けっこうなお手前でした。^^
それでは、晴明塚へ・・・
やってまいりました「晴明塚」。
あずき色の石が積まれている不思議な場所です。
うん、やっぱり安倍晴明は津波を防ぐためにこの地へ来たのですね。
過去より幾度となく繰り返されてきた悲劇を防ぐためにこの地で祈った・・・。
歴史を振り返れば、安倍晴明が生きているうちはこの地で大地震は起らなかったみたいです。
安倍晴明が千年前に祈ったこの地は、海の近くだったのでしょうが、今の海は遠くにあります。
ワゴンRで海へ・・・
海鳴りが怖いぐらいです。
今までたくさんの涙を流してきたけれど・・・
今の自分は祈ることぐらいしかできないけれど・・・
きっといつか乗り越えることが出来るよ。
では、また。
今回は掛川市にある「水神宮」への旅の続きです。^^
ワゴンRは天竜川を越えて、一路「水神宮」のある、静岡県掛川市横須賀へ・・・
磐田市、袋井市を通って、ようやく掛川市横須賀にやってまいりましたが・・・
地図を見ると、「水神宮」の境内社「月夜見神社」の近くに「横須賀城跡公園」があるのがわかると思います。
「水神宮」へ行く前に、まずは「横須賀城跡」に行ってみることにします。^^
【横須賀城跡】
なるほど・・・「横須賀城」は徳川家康が織田信長と同盟を結んでいたころ、武田軍に奪われていた「高天神城」を奪還するために、家康が家臣の大須賀康高に命じて築城させたお城だったのですね。^^
なんといっても、「横須賀城」の特徴といえば・・・
玉石垣~ ^^
これは珍しい「玉石垣」のお城です。初めてみました。^^
説明板に書かれていましたが、この玉石垣は平成6年~平成8年にかけて復元されたそうです。
本来の玉石垣は天竜川の石が使われていたみたいですが、復元された玉石垣の灰青色の石は大井川から採取された石を使っているそうです。
それでは、本丸の方へ・・・
そして、天守台跡です。^^
裏手にあたる北の丸から本丸・天守閣跡を眺めてみます。^^
あはは、見事な土塁ですね。玉石垣ではありません。^^
築城当時(1578年~1580年)は、砦のようなもので、天守はもちろん石垣等も築かれていない城だったようです。
横須賀城の城郭が形造られたのは、徳川家康の関東転封にともなって大須賀氏も関東へ移って、新たに城主となった渡瀬氏、または次の有馬氏の時代(1590年~1600年)の頃だといわれています。
江戸期には三層四階の天守閣があったそうです。
横須賀城図をよく見るとわかると思いますが、正面を向いた部分だけ玉石垣が積まれています。
丸っこくて不安定な河原の石を使っているところを見ると、この辺りでは石垣用の石材を調達することは難しかったようですね。
この図を見ると下の方に「入江」と書かれているのがわかると思います。
そうなのです、この横須賀城はかつて海に面していたお城だったのです。
説明文によれば宝永4年(1707年)の宝永大地震によって、地盤が隆起したとあります。
正直驚きました。だってここ横須賀城は海からかなりの距離がありますもん。
宝永の大地震でいったいどれだけ隆起したのでしょうか・・・・ 地図でみると海から2km位はありそうです。
宝永地震は東海・東南海地震と南海地震が同時に発生したM8.4 - 8.6の巨大地震で、今年の東北地方太平洋沖地震が起こるまでは、記録に残る日本最大級の地震だったそうです。死者2万人余、倒壊家屋6万戸余、土佐を中心に大津波が襲った・・・。そしてこの地震から49日後に富士山が大噴火して、江戸でも火山灰が降り積もったそうです。
宝永大地震が起きるまでは一帯が入江であり港町でもありました。港町時代は遠江航路の中継地でしたが、港が失われると陸上交通の中継地、宿場町へと変わっていったそうです。
当時の堀は埋められて、二の丸は宅地化され、現在では本丸周辺しか残っていません。
では、横須賀城の不開門が移築され現存しているという「撰要寺」に行ってみることにします。
ここ「撰要寺」は歴代の横須賀城主と関係が深い寺院みたいですね。
説明文によれば、宝永大地震だけではなく、嘉永7年(1854年)の安政東海地震でも土地が隆起したみたいですね。このときの津波による被害も甚大だったみたいです。
【不開門】(あかずの門) 横須賀城現存遺構
う~ん、やっぱり歴史を感じさせる古さですね。^^
そして、「撰要寺」の石垣も・・・
玉石垣でした~。^^
ただ、崩れやすい角だけは加工した石を使っての「算木積み」ですね。
玉石垣の古さから見て、かつての横須賀城もこんな感じだったのでしょうか。
さて、それでは、目的地の「水神宮」へ行くとしますか・・・
三の丸跡にワゴンRを停めて歩いていきます。「水神宮」へは近いです、三の丸跡から300m位です。
「水神宮」に到着~ ^^
やっぱり、ここも玉石垣ですね。
でも、階段がすごく急なんです。
仰角60度ぐらいあります。
手すりも無いし、落ちないように気をつけないと・・・
【水神宮】
水神宮は寛和元年(985年)、安倍晴明が勧請したといういい伝えがある小さな神社です。
主祭神は「水波能売命」で水神様です。
水神宮の横に、大正8年(1919年)にここに合祀された「月夜見神社」がありますね。
地図には「月夜見神社」しかのっていませんけど・・・(笑)
ここへ来る前には、海の近くにない「水神宮」に違和感を覚えたのですが、横須賀城に行ったときに、宝永・安政の大地震の土地隆起で海から離れてしまった事実を知って納得したのでした。
でも高名な陰陽師の安倍晴明がこの地へ来て、水神様を勧請したのには何か理由があったのでしょうか。
その謎を解くために、さらに5km位離れた掛川市の大渕地区にある晴明塚へ行ってみます。
晴明塚へGo!
と、その前に・・・
清水邸庭園で一服~ ^^
今日は表千家の先生のお茶が楽しめるようです。^^
千利休を祖をする千家流茶道は3代目の宗旦の次代のときに分派し、表千家・裏千家・武者小路千家の「三千家」となりました。
現在では裏千家が茶道諸流派中最大の流派です。
今日は本家の表千家の先生が点てたお茶をいただきます。^^
梅の御菓子も美味しゅうございました。^^
三千家の点前作法はそれぞれに少し違いがありますが、お茶に関していえば、裏千家のお茶はよく泡立てますが、表千家・綾小路千家ではそんなには泡立てません。
今日のお茶は表千家のお茶なのでそんなには泡立ってないですね。^^
表千家では茶杓に抹茶を一杯半ですが、裏千家では二杯入れますので、抹茶の量の違いもあるようです。
茶室の雰囲気も表千家の先生の所作や会話も素晴しく、けっこうなお手前でした。^^
それでは、晴明塚へ・・・
やってまいりました「晴明塚」。
あずき色の石が積まれている不思議な場所です。
うん、やっぱり安倍晴明は津波を防ぐためにこの地へ来たのですね。
過去より幾度となく繰り返されてきた悲劇を防ぐためにこの地で祈った・・・。
歴史を振り返れば、安倍晴明が生きているうちはこの地で大地震は起らなかったみたいです。
安倍晴明が千年前に祈ったこの地は、海の近くだったのでしょうが、今の海は遠くにあります。
ワゴンRで海へ・・・
海鳴りが怖いぐらいです。
今までたくさんの涙を流してきたけれど・・・
今の自分は祈ることぐらいしかできないけれど・・・
きっといつか乗り越えることが出来るよ。
では、また。
南朝の皇居 『吉水神社』 ~ 安倍氏ゆかりの地 『文殊院』へ・・・ 安倍晴明の五芒星を訪ねて 【奈良県 桜井市~吉野町】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
今回も前回からの続き、吉野への五芒星を訪ねての旅です。^^
大地に描かれた五芒星の旅は、熊野本宮大社から始まりました。
この日は4月30日です。^^
熊野本宮大社を訪れたあとは、こんな感じで熊野川沿いを北へ・・・
途中、生活用の吊り橋では日本一の「谷瀬の吊り橋」に寄り道しました。^^
今回は、この続きからですね。
お次の目的地は、奈良県の吉野です。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
いざ、吉野へ ~
フムフム、目指す『吉水神社』はもう少し先ですね。
はいっ、到着~ (笑)
吉野といえば、言わずと知れた桜の名所です。
春になれば3万本の桜が咲き誇り、古来より多くの人々の心を惹きつけてきました・・・
さすがに、この季節は桜は咲いてませんね~ (笑)
【吉水神社】
御祭神は後醍醐天皇で、楠 正成や吉水院宗信を合祀しています。
吉水神社は、今でこそ神社としての形態ですが、明治期の神仏分離令以前は「吉水院」という千三百年の歴史がある吉野修験宗の僧坊だった所です。
こちらは本社の脇にある楠公祠です。
また、ここは後醍醐天皇、源義経、静御前、豊臣秀吉公ゆかりの地でもあります。
【吉水院庭園】
説明文には豊臣秀吉が自ら基本設計を行なったと書かれていますね。^^
延元元年(1336年)京の花山院より逃れた後醍醐天皇はここ吉野に南朝を開きました。
これより吉野朝4代57年に及ぶ、南北朝の対立の歴史が始まりました。
吉水神社に現存する書院は日本建築史上最古の書院として、重要文化財に指定されています。
この書院に「後醍醐天皇玉座」があります。
それでは南朝の皇居に入ってみましょう。
【後醍醐天皇玉座】
この玉座は後に秀吉が盛大な吉野の花見を行なったときに、豪華絢爛な桃山風に修理したと伝えられています。後醍醐天皇の時代のものとは少し趣きが違うようですね。^^
【源義経所用 色々威腹巻】
後醍醐天皇が南朝を開く約150年前の鎌倉時代の初め、兄 頼朝に追われた源 義経が静御前、弁慶らとともに吉野へ逃れたときのゆかりの品みたいですね。
この「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)は鎧ではなくて、衣の下に付ける防具だそうです。
吉野へ逃れた義経と静御前でしたが、やがて悲しい別れへと・・・
さて、書院から外へ・・・
秀吉の花見といえば、晩年に京都で行なわれた「醍醐の花見」を思い浮かべる方も多いと思いますが、その4年前の文禄3年(1594年)にも、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らそうそうたる武将をはじめ、茶人、連歌師たち、総勢5千人ともいわれる盛大な花見を吉野山で行ないました。
(桜の季節ではありませんので雰囲気だけでも・・・)^^
吉野山の桜はいろんな種類の桜があり、色とりどりです。
秀吉は吉野の花見の前年に、山桜中心だった桜の山に彩りを加えるため、数千本の枝垂桜を植樹させたと言われています。
年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな (秀吉)
後醍醐天皇の玉座に座った秀吉の絶頂の瞬間だったのかもしれません。
さてさて、五芒星を見に行きますか・・・ 北闕門へ・・・
【北闕門】 (ほくけつもん)
この『北闕門』は京の都に望んでおり、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋する時のための門だったと言われています。
おおっ、北闕門の足元に「セーマン・ドーマン」がありました。^^
セーマン(五芒星)そしてドーマン(九字切印)ですね。
セーマンは陰陽師の安倍晴明から、そしてドーマンは芦屋道満の名に由来するといわれています。
ドーマンは九字護身法の略式形で、俗に「九字切り」と呼ばれてる「早九字護身法」の九字切印です。
そしてこの「早九字護身法」を編み出したのが芦屋道満なのです。
「早九字護身法」は主に陰陽道、修験道で使用されていたそうで、邪悪を切り裂く、または空に結界を張って邪悪の侵入を防ぐとされました。
簡単に出来ますので、精神集中や厄除けの手段として武士や忍者にも広く用いられたそうです。
「吉水神社」は今でこそ神社の形態をとっていますが、以前は「吉水院」という吉野修験宗の僧坊であり、修験道の聖地でした。
後醍醐天皇もこの『北闕門』に立って、京都の空を仰ぎながら九字を切ったとあります。
では、自分も邪悪を払い、日本の再生・甦りを願って九字を切りましょう。^^
邪気祓石の上で祈ります。
まずは、五芒星の上に乗って刀印で祈りを捧げます。
次に、九字切りの印の上に移り、九字を切ります。
こんな感じで九字を切っていきます。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
はいっ、任務終了~。^^
さて、それでは南朝の皇居「吉水神社」を後にして、次なる安倍晴明の五芒星を目指します。
吉野の残り桜、発見!
シーズンは過ぎてしまいましたが、こうして吉野の桜を見ることが出来てなんだか嬉しいですね。^^
そして、奈良県の桜井市にある安倍文殊院へ・・・
ありました~ 五芒星。^^
ふむふむ、なるほど・・・ 安倍文殊院は古来よりご祈祷のお寺で、安倍晴明公の出生の地ですか・・・。
えっ、出生の地は、大阪阿倍野の安倍晴明神社あたりだったのではなかったかな・・・?
さ~て、どっちが本当の出生地でしょうか・・・ (笑)
ここには安倍晴明公の関連遺跡がいくつかあるようですね。
まずは、本堂へ・・・
拝観料を払って、本堂の中へ・・・
もちろん写真撮影は出来ませんので写真はありませんが、しっかりとご本尊の文殊菩薩様を拝見してきました。
約800年前の鎌倉時代に超有名な仏師 快慶によって造立されたそうです。
説明看板の写真ではわかりづらいですが、この文殊様は獅子にまたがっておられます。
高さ約7m、日本一大きい文殊様だそうです。
安倍晴明公は文殊様の生まれ変わりということから、この文殊菩薩が快慶の手により造立されたとのこと。
ちょっと前までは修理のため拝観出来ませんでしたが、修理を終え、本堂文殊館も改装されて、最新のLED照明で公開されています。^^
御本尊の文殊菩薩を拝観すると、もれなく御菓子付きのお抹茶がいただけます。
御菓子は五芒星の落雁です。嬉しい~。^^
安倍文殊院の境内をうろうろと・・・
【金閣浮御堂】
安倍一族を奉る御堂です。中には安倍仲麻呂公像や安倍晴明公像が秘像として奉られています。
安倍晴明堂へやって来ました。^^
【安倍晴明堂】
安倍晴明公を奉るお堂です。平成12年(2000年)に約200年ぶりに再建されました。
ここは神社ではありませんので拝み方が違いますね。
頭が良くなりますように!(笑)
はいっ、なでなで・・・ ^^
この晴明堂がある場所は晴明公が天文観測を行なった場所とされています。
さあ、この展望台から、花で作られた今年の干支のうさぎを見ることが出来ます。
そして、この五芒星の旅の締めくくりは、花で作られた五芒星~~。^^
本当によい旅でした・・・。^^
【おまけ】
今回の五芒星の旅で訪れた、安倍文殊院、吉野の吉水神社、そして熊野三山のうち二山(熊野本宮大社・熊野速玉神社)を、安倍晴明ゆかりの地に描かれた「謎の直線」に当てはめてみた・・・
ああっ、「謎の直線」がつながっちゃった。。。 本当に見事な直線です。。。
なんで、こうなるのでしょう。。。 これははたして偶然でしょうか。。。
青い目印は安倍晴明のゆかりの地で、赤い目印の吉野と熊野は修験道の九字護身法の地です。
吉野を訪れたとき、吉野は国軸だと書かれていましたが、こうして見るとそうなのかなって思ってしまいます。
陰陽道と修験道の接点なのでは・・・ わかりません・・・
謎は深まるばかりですね・・・
では、また。
大地に描かれた五芒星の旅は、熊野本宮大社から始まりました。
この日は4月30日です。^^
熊野本宮大社を訪れたあとは、こんな感じで熊野川沿いを北へ・・・
途中、生活用の吊り橋では日本一の「谷瀬の吊り橋」に寄り道しました。^^
今回は、この続きからですね。
お次の目的地は、奈良県の吉野です。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
いざ、吉野へ ~
フムフム、目指す『吉水神社』はもう少し先ですね。
はいっ、到着~ (笑)
吉野といえば、言わずと知れた桜の名所です。
春になれば3万本の桜が咲き誇り、古来より多くの人々の心を惹きつけてきました・・・
さすがに、この季節は桜は咲いてませんね~ (笑)
【吉水神社】
御祭神は後醍醐天皇で、楠 正成や吉水院宗信を合祀しています。
吉水神社は、今でこそ神社としての形態ですが、明治期の神仏分離令以前は「吉水院」という千三百年の歴史がある吉野修験宗の僧坊だった所です。
こちらは本社の脇にある楠公祠です。
また、ここは後醍醐天皇、源義経、静御前、豊臣秀吉公ゆかりの地でもあります。
【吉水院庭園】
説明文には豊臣秀吉が自ら基本設計を行なったと書かれていますね。^^
延元元年(1336年)京の花山院より逃れた後醍醐天皇はここ吉野に南朝を開きました。
これより吉野朝4代57年に及ぶ、南北朝の対立の歴史が始まりました。
吉水神社に現存する書院は日本建築史上最古の書院として、重要文化財に指定されています。
この書院に「後醍醐天皇玉座」があります。
それでは南朝の皇居に入ってみましょう。
【後醍醐天皇玉座】
この玉座は後に秀吉が盛大な吉野の花見を行なったときに、豪華絢爛な桃山風に修理したと伝えられています。後醍醐天皇の時代のものとは少し趣きが違うようですね。^^
【源義経所用 色々威腹巻】
後醍醐天皇が南朝を開く約150年前の鎌倉時代の初め、兄 頼朝に追われた源 義経が静御前、弁慶らとともに吉野へ逃れたときのゆかりの品みたいですね。
この「色々威腹巻」(いろいろおどしのはらまき)は鎧ではなくて、衣の下に付ける防具だそうです。
吉野へ逃れた義経と静御前でしたが、やがて悲しい別れへと・・・
さて、書院から外へ・・・
秀吉の花見といえば、晩年に京都で行なわれた「醍醐の花見」を思い浮かべる方も多いと思いますが、その4年前の文禄3年(1594年)にも、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗らそうそうたる武将をはじめ、茶人、連歌師たち、総勢5千人ともいわれる盛大な花見を吉野山で行ないました。
(桜の季節ではありませんので雰囲気だけでも・・・)^^
吉野山の桜はいろんな種類の桜があり、色とりどりです。
秀吉は吉野の花見の前年に、山桜中心だった桜の山に彩りを加えるため、数千本の枝垂桜を植樹させたと言われています。
年月を心にかけし吉野山 花の盛りを今日見つるかな (秀吉)
後醍醐天皇の玉座に座った秀吉の絶頂の瞬間だったのかもしれません。
さてさて、五芒星を見に行きますか・・・ 北闕門へ・・・
【北闕門】 (ほくけつもん)
この『北闕門』は京の都に望んでおり、後醍醐天皇がいつの日か京都に凱旋する時のための門だったと言われています。
おおっ、北闕門の足元に「セーマン・ドーマン」がありました。^^
セーマン(五芒星)そしてドーマン(九字切印)ですね。
セーマンは陰陽師の安倍晴明から、そしてドーマンは芦屋道満の名に由来するといわれています。
ドーマンは九字護身法の略式形で、俗に「九字切り」と呼ばれてる「早九字護身法」の九字切印です。
そしてこの「早九字護身法」を編み出したのが芦屋道満なのです。
「早九字護身法」は主に陰陽道、修験道で使用されていたそうで、邪悪を切り裂く、または空に結界を張って邪悪の侵入を防ぐとされました。
簡単に出来ますので、精神集中や厄除けの手段として武士や忍者にも広く用いられたそうです。
「吉水神社」は今でこそ神社の形態をとっていますが、以前は「吉水院」という吉野修験宗の僧坊であり、修験道の聖地でした。
後醍醐天皇もこの『北闕門』に立って、京都の空を仰ぎながら九字を切ったとあります。
では、自分も邪悪を払い、日本の再生・甦りを願って九字を切りましょう。^^
邪気祓石の上で祈ります。
まずは、五芒星の上に乗って刀印で祈りを捧げます。
次に、九字切りの印の上に移り、九字を切ります。
こんな感じで九字を切っていきます。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
はいっ、任務終了~。^^
さて、それでは南朝の皇居「吉水神社」を後にして、次なる安倍晴明の五芒星を目指します。
吉野の残り桜、発見!
シーズンは過ぎてしまいましたが、こうして吉野の桜を見ることが出来てなんだか嬉しいですね。^^
そして、奈良県の桜井市にある安倍文殊院へ・・・
ありました~ 五芒星。^^
ふむふむ、なるほど・・・ 安倍文殊院は古来よりご祈祷のお寺で、安倍晴明公の出生の地ですか・・・。
えっ、出生の地は、大阪阿倍野の安倍晴明神社あたりだったのではなかったかな・・・?
さ~て、どっちが本当の出生地でしょうか・・・ (笑)
ここには安倍晴明公の関連遺跡がいくつかあるようですね。
まずは、本堂へ・・・
拝観料を払って、本堂の中へ・・・
もちろん写真撮影は出来ませんので写真はありませんが、しっかりとご本尊の文殊菩薩様を拝見してきました。
約800年前の鎌倉時代に超有名な仏師 快慶によって造立されたそうです。
説明看板の写真ではわかりづらいですが、この文殊様は獅子にまたがっておられます。
高さ約7m、日本一大きい文殊様だそうです。
安倍晴明公は文殊様の生まれ変わりということから、この文殊菩薩が快慶の手により造立されたとのこと。
ちょっと前までは修理のため拝観出来ませんでしたが、修理を終え、本堂文殊館も改装されて、最新のLED照明で公開されています。^^
御本尊の文殊菩薩を拝観すると、もれなく御菓子付きのお抹茶がいただけます。
御菓子は五芒星の落雁です。嬉しい~。^^
安倍文殊院の境内をうろうろと・・・
【金閣浮御堂】
安倍一族を奉る御堂です。中には安倍仲麻呂公像や安倍晴明公像が秘像として奉られています。
安倍晴明堂へやって来ました。^^
【安倍晴明堂】
安倍晴明公を奉るお堂です。平成12年(2000年)に約200年ぶりに再建されました。
ここは神社ではありませんので拝み方が違いますね。
頭が良くなりますように!(笑)
はいっ、なでなで・・・ ^^
この晴明堂がある場所は晴明公が天文観測を行なった場所とされています。
さあ、この展望台から、花で作られた今年の干支のうさぎを見ることが出来ます。
そして、この五芒星の旅の締めくくりは、花で作られた五芒星~~。^^
本当によい旅でした・・・。^^
【おまけ】
今回の五芒星の旅で訪れた、安倍文殊院、吉野の吉水神社、そして熊野三山のうち二山(熊野本宮大社・熊野速玉神社)を、安倍晴明ゆかりの地に描かれた「謎の直線」に当てはめてみた・・・
ああっ、「謎の直線」がつながっちゃった。。。 本当に見事な直線です。。。
なんで、こうなるのでしょう。。。 これははたして偶然でしょうか。。。
青い目印は安倍晴明のゆかりの地で、赤い目印の吉野と熊野は修験道の九字護身法の地です。
吉野を訪れたとき、吉野は国軸だと書かれていましたが、こうして見るとそうなのかなって思ってしまいます。
陰陽道と修験道の接点なのでは・・・ わかりません・・・
謎は深まるばかりですね・・・
では、また。
熊野本宮大社 ~大地に描かれた五芒星の旅~ その1 【和歌山県 田辺市 本宮町】 [ふしぎ探検隊シリーズ]
さ~て、いよいよ ~大地に描かれた五芒星の旅~ を始めようと思います。^^
始まりは鳥羽の「海の博物館」で見た、鳥羽の海女たちが身に付けていた不思議な魔除け「セーマン・ドーマン」からでした・・・。
そして・・・
この不思議な大地に描かれた五芒星の存在を知りました・・・。
不思議ですよね。
この神々が祀られたのは遥か昔のことなのに、こんなに正確に五芒星を描いているなんて・・・。
そしてその不思議な気持ちはやがて、この五ヶ所の神域をぜひ訪れてみたいなって思うようになってきました。
春になり暖かくなって、さあ ~大地に描かれた五芒星の旅~ が始まります。^^
まず、この旅を始めるにあたって、この5ヶ所のどこから始めればいいんだろうって考えました。
そういえばって、京都の晴明神社に行ったときの五芒星の晴明井を思い出しました。
この晴明井の清水口は、その年の恵方の方角に向けてあるのです。
そうなのか・・・五芒星の頂点はその年の恵方の方角なんだ・・・。
というわけで、~大地に描かれた五芒星の旅~ は、今年の恵方「南南東」に近い「熊野本宮大社」から始めることにしました。
この日は、ゴールデンウィーク中の4月30日(土)・・・
やってまいりました 『熊野本宮大社』 ・・・
自分は伊勢路からはるばると・・・ですね。^^
それでは、神域に入ることにします・・・。
紀伊半島の南部「熊野」は、古来より神々が隠れ籠る聖域で、修験道の修行の地とされてきました。
ここに古代以来、祀られてきたのが、本宮、新宮、那智の熊野三山です。
本宮はかつて熊野川の中洲にあって、主神は家津御子大神(けつみこおおかみ)。新宮は熊野川の河口近くにあり、熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)が主神。那智は熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っています。
三社のそれぞれの神が三社共通の祭神とされるようになり、平安後期には神仏習合によって三社の神々にも本地仏(ほんじぶつ)があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所権現とよばれています。
神々はそのままでは俗世に姿を現すことは出来ないので、仮に仏様にお姿を変えて現れる(権現)ということなのだそうです。
「祈!熊野から日本の甦りを!」
東日本大震災という未曾有の大災害が起り、熊野本宮大社では毎朝に鎮魂の祈りを捧げているそうです。
この神門の向こうが本殿です。
この先は写真撮影は出来ませんでしたので写真はありませんが、神門をくぐると、檜皮葺きの社殿が向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいました。
自分も・・・ 「祈!日本の甦りを・・・」 ^^
拝殿へ・・・
【八咫烏】 (やたがらす)
三本足のカラスですね。^^
熊野では八咫烏は神の使者だと言われています。
方角を知るので未知の地へ行く道案内をする鳥とされており、その昔、神武天皇が奥深い熊野の山野に迷ったとき、八咫烏が導いたといわれています。
ちなみに・・・
日本サッカー協会のシンボルマークには八咫烏が使われています。
日本に初めて近代サッカーを紹介した人が熊野三山の熊野那智大社あたりの出身の人で、その人に敬意を表して、八咫烏をデザインしたそうです。
拝殿に飾られていた今年の一文字・・・
今年の一文字は 「根」 だそうで、原点に立ち返って飛躍して欲しいとの願いが込められているそうです。
ここで、この文字を書いた方の名前が気になりませんか・・・
「九鬼」・・・
九鬼といえば、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に使え、九鬼水軍を率いて戦国の荒海を戦い抜き、鳥羽城を築いた九鬼嘉隆を思い浮かべる方もいらっしゃるかと思います。自分もそうなんですけど・・・(笑)
Wikipediaによれば、九鬼氏の出自は詳しくわかっていないとのことなんですが、諸説によれば、九鬼氏のご先祖様は藤原氏の末裔で代々熊野三山を統括する役職についていたとか、熊野本宮大社の八庄司の一人で移住した先の九鬼浦に因んで九鬼と名乗ったなんて説があるそうです。
昔から九鬼氏とは名乗ってはいなかったみたいですけど、いずれにしても、九鬼氏のご先祖さまは、ここ熊野本宮大社にゆかりのある方みたいです。
ここで、面白い物語を・・・ ^^
時は南北朝時代、九鬼氏のご先祖さまは、はじめ北朝の足利尊氏方についていましたが、尊氏の後醍醐天皇に対する仕打ちがあまりにもひどかったため、これに憤慨し、京都の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇をお救いし、吉野へと逃し奉ったそうです。
途中、追っ手に追いつかれはしましたが、武術と修験道に長けたご先祖さまは、近づく敵は打ち倒し、遠くの敵は九字を切って制圧した・・・
後に三種の神器も回収することにも成功し、後醍醐天皇を大いに感激させました。
「汝の忠心、神の知ろしめすところなり。汝、今日より、藤原姓改め、九鬼と改む可し 」と・・・
九字を切って敵を征圧したことにちなみ、九鬼の「九」は九字の“九”を表し、「鬼」とは鬼神(おにがみ)様の意味で、これを“カミ”と読んだそうです。で、本来の文字は鬼の字の上に点(ノ)がない特殊な文字なのだそうです。
ね、宮司様の「九鬼」には鬼の字の上に点(ノ)がないでしょ。^^
こんな九鬼伝説があるみたいですけど、物語としてはとっても面白いので、そういうことにしときます。「九鬼」と名づけたのは、後醍醐天皇だったってね・・・。(笑)
「日本城」~ ^^
お城好きの方、申し訳けありません!今回の旅ではお城は出てきませんので、これでご勘弁を~~。(笑)
おやっ、面白いもの発見!^^
【八咫ポスト】
黒いポストって初めて見ますが・・・
このポスト、本当に手紙を出すことが出来るんです。^^
八咫烏さま~ お導きを~~ ^^
綺麗だね~ ^^
階段を下りていると・・・
境内に、なんと世界遺産の「熊野古道」を発見! えっ、本当に?(笑)
ちょっと想像と違っていましたが・・・(笑)
「熊野古道」って熊野三山へと通じる山深い紀伊山地の参詣道のことなのですが、まあこの道も熊野古道の一つなのでしょうか~。^^
ちなみに京都から熊野への参詣道はこんな感じです。
やっぱり熊野あたりの道は凄そうだなあ。^^
鳥居から入って、鳥居から出る~ ^^
さて・・・ 大斎原(おおゆのはら)へ・・・
あ~っ、Sazabyさんのブログ見てて良かった~。スムーズに廻れるわ~。^^
のどかな参道をてくてくと・・・
日本一の大鳥居~ 高さ33.9m~ デカッ・・・ ^^
【大斎原】 (おおゆのはら)
そう、かつてはここに熊野本宮大社が鎮座していました。
明治22年(1889年)8月、熊野川の大水害により、熊野川の中洲にあった熊野本宮大社の社殿の多くは流されてしまいました。現在の熊野本宮大社はここ大斎原より北西の高台に移されたものです。
鳥居より先は神聖な場所なので写真撮影は出来ませんが、とても静かで厳かな雰囲気に満ちている場所でした。今は2つの石祠が祀られています・・・
かつては、こんな感じだったみたいです。
熊野本宮の創建は、御由緒によれば崇神天皇六十五年(西暦 紀元前33年)とのことなので、2000年以上の昔からこの地に鎮座してたのですね。すごいなあ・・・。^^
熊野三山を目指して、多くの人が熊野古道を通ってやって来ました。
後白河上皇にいたっては34回もここを訪れているそうです。
明治22年(1889年)の大水害の原因は、明治の世になり、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われてしまったからなのだそうです。
大雨は古来より降ってきたけれども、人の手によりその自然のバランスを崩してしまったがために、大災害となってしまった・・・
そんな苦難のときを乗り越えて、熊野本宮大社は今でも人々の信仰の地であり続けていますね。
苦難を乗り越えて、甦る・・・
今の日本の姿と重なって、熊野本宮大社は旅の始まりにふさわしい場所だったように思います。
旅はまだまだ続きます。
ねっ。 ^^
~大地に描かれた五芒星の旅~ 熊野本宮大社・・・
1ケ所目コンプリート! v(^^)v
では、また。
始まりは鳥羽の「海の博物館」で見た、鳥羽の海女たちが身に付けていた不思議な魔除け「セーマン・ドーマン」からでした・・・。
そして・・・
この不思議な大地に描かれた五芒星の存在を知りました・・・。
不思議ですよね。
この神々が祀られたのは遥か昔のことなのに、こんなに正確に五芒星を描いているなんて・・・。
そしてその不思議な気持ちはやがて、この五ヶ所の神域をぜひ訪れてみたいなって思うようになってきました。
春になり暖かくなって、さあ ~大地に描かれた五芒星の旅~ が始まります。^^
まず、この旅を始めるにあたって、この5ヶ所のどこから始めればいいんだろうって考えました。
そういえばって、京都の晴明神社に行ったときの五芒星の晴明井を思い出しました。
この晴明井の清水口は、その年の恵方の方角に向けてあるのです。
そうなのか・・・五芒星の頂点はその年の恵方の方角なんだ・・・。
というわけで、~大地に描かれた五芒星の旅~ は、今年の恵方「南南東」に近い「熊野本宮大社」から始めることにしました。
この日は、ゴールデンウィーク中の4月30日(土)・・・
やってまいりました 『熊野本宮大社』 ・・・
自分は伊勢路からはるばると・・・ですね。^^
それでは、神域に入ることにします・・・。
紀伊半島の南部「熊野」は、古来より神々が隠れ籠る聖域で、修験道の修行の地とされてきました。
ここに古代以来、祀られてきたのが、本宮、新宮、那智の熊野三山です。
本宮はかつて熊野川の中洲にあって、主神は家津御子大神(けつみこおおかみ)。新宮は熊野川の河口近くにあり、熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)が主神。那智は熊野夫須美大神(くまのふすみおおかみ)を主神に祀っています。
三社のそれぞれの神が三社共通の祭神とされるようになり、平安後期には神仏習合によって三社の神々にも本地仏(ほんじぶつ)があてられ、仏が権(かり)に現れたものとして、熊野三所権現とよばれています。
神々はそのままでは俗世に姿を現すことは出来ないので、仮に仏様にお姿を変えて現れる(権現)ということなのだそうです。
「祈!熊野から日本の甦りを!」
東日本大震災という未曾有の大災害が起り、熊野本宮大社では毎朝に鎮魂の祈りを捧げているそうです。
この神門の向こうが本殿です。
この先は写真撮影は出来ませんでしたので写真はありませんが、神門をくぐると、檜皮葺きの社殿が向かって左から第一殿・第二殿の相殿(あいどの)、第三殿、第四殿と3棟並んでいました。
自分も・・・ 「祈!日本の甦りを・・・」 ^^
拝殿へ・・・
【八咫烏】 (やたがらす)
三本足のカラスですね。^^
熊野では八咫烏は神の使者だと言われています。
方角を知るので未知の地へ行く道案内をする鳥とされており、その昔、神武天皇が奥深い熊野の山野に迷ったとき、八咫烏が導いたといわれています。
ちなみに・・・
日本サッカー協会のシンボルマークには八咫烏が使われています。
日本に初めて近代サッカーを紹介した人が熊野三山の熊野那智大社あたりの出身の人で、その人に敬意を表して、八咫烏をデザインしたそうです。
拝殿に飾られていた今年の一文字・・・
今年の一文字は 「根」 だそうで、原点に立ち返って飛躍して欲しいとの願いが込められているそうです。
ここで、この文字を書いた方の名前が気になりませんか・・・
「九鬼」・・・
九鬼といえば、戦国時代に織田信長や豊臣秀吉に使え、九鬼水軍を率いて戦国の荒海を戦い抜き、鳥羽城を築いた九鬼嘉隆を思い浮かべる方もいらっしゃるかと思います。自分もそうなんですけど・・・(笑)
Wikipediaによれば、九鬼氏の出自は詳しくわかっていないとのことなんですが、諸説によれば、九鬼氏のご先祖様は藤原氏の末裔で代々熊野三山を統括する役職についていたとか、熊野本宮大社の八庄司の一人で移住した先の九鬼浦に因んで九鬼と名乗ったなんて説があるそうです。
昔から九鬼氏とは名乗ってはいなかったみたいですけど、いずれにしても、九鬼氏のご先祖さまは、ここ熊野本宮大社にゆかりのある方みたいです。
ここで、面白い物語を・・・ ^^
時は南北朝時代、九鬼氏のご先祖さまは、はじめ北朝の足利尊氏方についていましたが、尊氏の後醍醐天皇に対する仕打ちがあまりにもひどかったため、これに憤慨し、京都の花山院に幽閉されていた後醍醐天皇をお救いし、吉野へと逃し奉ったそうです。
途中、追っ手に追いつかれはしましたが、武術と修験道に長けたご先祖さまは、近づく敵は打ち倒し、遠くの敵は九字を切って制圧した・・・
後に三種の神器も回収することにも成功し、後醍醐天皇を大いに感激させました。
「汝の忠心、神の知ろしめすところなり。汝、今日より、藤原姓改め、九鬼と改む可し 」と・・・
九字を切って敵を征圧したことにちなみ、九鬼の「九」は九字の“九”を表し、「鬼」とは鬼神(おにがみ)様の意味で、これを“カミ”と読んだそうです。で、本来の文字は鬼の字の上に点(ノ)がない特殊な文字なのだそうです。
ね、宮司様の「九鬼」には鬼の字の上に点(ノ)がないでしょ。^^
こんな九鬼伝説があるみたいですけど、物語としてはとっても面白いので、そういうことにしときます。「九鬼」と名づけたのは、後醍醐天皇だったってね・・・。(笑)
「日本城」~ ^^
お城好きの方、申し訳けありません!今回の旅ではお城は出てきませんので、これでご勘弁を~~。(笑)
おやっ、面白いもの発見!^^
【八咫ポスト】
黒いポストって初めて見ますが・・・
このポスト、本当に手紙を出すことが出来るんです。^^
八咫烏さま~ お導きを~~ ^^
綺麗だね~ ^^
階段を下りていると・・・
境内に、なんと世界遺産の「熊野古道」を発見! えっ、本当に?(笑)
ちょっと想像と違っていましたが・・・(笑)
「熊野古道」って熊野三山へと通じる山深い紀伊山地の参詣道のことなのですが、まあこの道も熊野古道の一つなのでしょうか~。^^
ちなみに京都から熊野への参詣道はこんな感じです。
やっぱり熊野あたりの道は凄そうだなあ。^^
鳥居から入って、鳥居から出る~ ^^
さて・・・ 大斎原(おおゆのはら)へ・・・
あ~っ、Sazabyさんのブログ見てて良かった~。スムーズに廻れるわ~。^^
のどかな参道をてくてくと・・・
日本一の大鳥居~ 高さ33.9m~ デカッ・・・ ^^
【大斎原】 (おおゆのはら)
そう、かつてはここに熊野本宮大社が鎮座していました。
明治22年(1889年)8月、熊野川の大水害により、熊野川の中洲にあった熊野本宮大社の社殿の多くは流されてしまいました。現在の熊野本宮大社はここ大斎原より北西の高台に移されたものです。
鳥居より先は神聖な場所なので写真撮影は出来ませんが、とても静かで厳かな雰囲気に満ちている場所でした。今は2つの石祠が祀られています・・・
かつては、こんな感じだったみたいです。
熊野本宮の創建は、御由緒によれば崇神天皇六十五年(西暦 紀元前33年)とのことなので、2000年以上の昔からこの地に鎮座してたのですね。すごいなあ・・・。^^
熊野三山を目指して、多くの人が熊野古道を通ってやって来ました。
後白河上皇にいたっては34回もここを訪れているそうです。
明治22年(1889年)の大水害の原因は、明治の世になり、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われてしまったからなのだそうです。
大雨は古来より降ってきたけれども、人の手によりその自然のバランスを崩してしまったがために、大災害となってしまった・・・
そんな苦難のときを乗り越えて、熊野本宮大社は今でも人々の信仰の地であり続けていますね。
苦難を乗り越えて、甦る・・・
今の日本の姿と重なって、熊野本宮大社は旅の始まりにふさわしい場所だったように思います。
旅はまだまだ続きます。
ねっ。 ^^
~大地に描かれた五芒星の旅~ 熊野本宮大社・・・
1ケ所目コンプリート! v(^^)v
では、また。