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悲運の豊臣秀次が築城した『八幡山城址』 【滋賀県 近江八幡市】 [歴史ロマンシリーズ]

1月10日(日)に滋賀県の近江八幡市を訪れた際に八幡山城址へ行ってきました。(前回の続きですね)



八幡山へは登山道もあるのですが、今回もロープウェーで登ります。



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このゴンドラで山頂まで約4分です。




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朝一の出発だったため、貸切でした。(笑)



ロープウエーとかリフトとか乗るの大好きです。あのフワフワ・ユラユラ感がいいんですね。周りの景色も最高だし。



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近江八幡市が一望できます。




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もうすぐ山頂に到着です。





八幡山山頂はこんな風になっています。

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本丸のあったところをぐるっと回れます。




では、少し散策してみましょう。

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今は季節が冬なので、木々の葉が落ちて少し寂しい感じですが、春の桜や秋の紅葉の季節はとても綺麗です。




西の丸址です。

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ここから琵琶湖を望むことができますが、遠くに雪で彩られた琵琶湖の山々を見ることができ、最高の景色です。

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この日は、少し雲がかかっていて最高の景色とまではいかなかったのですが、それでも雄大な琵琶湖は圧巻でした。




ぐるっと回るかたちになりますが、本丸址にいってみます。

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石垣もしっかり残っているようです。




【八幡山城】

八幡山城は天正13年(1585年) 羽柴秀次(後の関白 豊臣秀次)によって築城されました。

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秀次は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、天正13年(1585年)の紀伊雑賀攻め、四国征伐では軍功を挙げ、近江国に43万石を与えられました。

安土城下の民を近江八幡に移し城下町を開き楽市楽座をつくりました。八幡堀と琵琶湖をつなぎ、往来する船を寄港させるなど、商いのまちとしての繁栄の基盤を築きました。

天正18年(1590)小田原征伐の軍功により、秀次は尾張・伊勢を与えられ、100万石の太守として尾張清洲城に移り、代わって京極高次が2万8千石で八幡城主となりました。

秀次は秀吉の養子として関白の地位にまで昇進し、秀吉の後継者とみられていましたが、晩年の秀吉に秀頼という実子が生まれたために運命は大きく狂っていきます。秀次は聚楽第で暴挙に及び、世に「殺生関白」と呼ばれたそうですが、この史実の程は明らかでないようです。ただ、折に触れて秀吉と衝突したことは確かで、1595年(文禄4年)最期は高野山で切腹させられ、28歳の短い生涯を閉じました。さらに、妻子など40人余が京都三条河原で処刑されました。


八幡山城の城主であった京極高次が大津城に移ると八幡城は廃城となりました。

八幡山城が築城されて廃城となるまで10年だったのですが、奇しくも、秀次が高野山で自刃したのと、八幡城が廃城になったのは、同じ年でありました。






秀次が高野山で自刃してから3年後に秀吉が伏見城で亡くなっていますが、もしも秀吉に秀頼が生まれずに、もう少し早くに秀吉が亡くなっていたなら、秀次が豊臣政権を継いでいたでしょう。不運としかいいようがありません。

近江八幡の水運を利用した八幡堀や楽市楽座などの町づくりの手腕をみてみると、後に続くしっかりとした豊臣政権ができていたかもしれません。


松平健の「暴れん坊将軍」も「暴れん坊関白」となっていたかも。(笑)





そんな八幡山城址には村雲御所瑞龍寺があります。

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(朝早かったのでまだ掃除されてますが・・・)



瑞龍寺は、1596年(文禄5年)、秀次の生母(秀吉の姉)日秀尼公により、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から寺号と京都村雲の地を賜り創建されたものです。1961年(昭和36年)に京都より八幡山へ主要建物が移築されました。




二の丸址には売店や資料館があります。

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さあ、帰りもロープウェーで降りていきます。

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せっかくですから、八幡山の城下町を少しうろうろと・・・

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「八幡堀」は遊歩道として整備されていて、堀の横を散策することができます。

とっても風情があっていいですね。




新町通りには古い町並みも残っています。

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カメラのおじさんもしっかり写っています(笑)




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さあ、城下町を散策したあとは、八幡堀を眺めながらコーヒーですね。

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では、また。



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コメント 4

suzy

八幡掘、凄く凄く良いですね~~。城下町の風情がぷんぷん漂ってきます^^。お堀と石垣を目の前に見ながらのコーヒーって、めちゃくちゃ贅沢ぅ。私も色々な本を読むにつけ、豊臣秀次はむしろ名君だったのでは?という気がしてなりません。老いてからの豊臣秀吉は、回りが見えなくなっていてあまり好きではないです。その理由の1つが秀次事件かも。2、3年前、秀次が切腹した高野山の金剛峯寺「柳の間」に行ったことを思い出しました。歴史の裏側にはどす黒い影が常につきまとっていますが、私はそういうところこそ色々知りたくなってしまいます。

  それにしても琵琶湖周りの山々、美しく写真が撮れてますがデジカメではなく一眼レフですか?ここまでくっきり撮れるとは!
by suzy (2010-01-17 23:22) 

susumu

◇suzyさんへ
八幡山城址を訪れて感じたのは、秀次の母である日秀の深い悲しみでした。日秀が秀次の菩提を弔うために創建した瑞龍寺が今日まで廃れずに存続したのは、その悲しみの深さゆえではないかなと思います。資料館の一説にもありましたが、秀次の妻子など40人余りが処刑されたとき、「太閤様の世も終わりじゃ」と人々が嘆いたそうですから、人々の気持ちも秀吉から離れていってしまったようです。ブログなのでそのへんは詳しくは触れてませんが、やっぱり人々の気持ちが離れてしまった豊臣は、滅びゆく運命だったんじゃないかなと思います。
話は変わりまして、カメラの話ですね。(笑)
自分が使っているのは、安いデジカメです。ほんとは一眼レフ欲しいんですけど・・・(笑)  バイクであちこち行くことが多い自分としては、コンパクトなデジカメが便利です。デジカメといっても全然使いこなせていません。とっても失敗作が多いです。なので、同じシーンでも複数枚撮るようにしています。名付けて「数打ちゃ当たる作戦」。数少ないましな写真をブログUPしてるんですね。で、琵琶湖の山々の写真ですが、これは自分のデジカメの光学ズームいっぱいの4倍で撮った写真です。他の写真は全然くっきりではないので、山々の雪の白さと岬の深緑とのコントラストのせいだと思います。やっぱり構図なのかな。自分的に意識して出来るものではないので、偶然ですね。(笑)

by susumu (2010-01-18 22:55) 

suzy

日秀は秀次以外にも自分の息子秀勝も無謀な朝鮮出兵で亡くしていますよね。実の兄の仕打ちを一体どういう思いで受け止めていたのでしょうか。秀次の妻妾しかり、権力という名の魔物に翻弄され大きなうねりに飲みこまれて散っていった女性の儚さを知ると切なくなってしまいます(:_;)。瑞龍寺にも足を運んでみたくなりました。

カメラの件、丁寧に回答して頂きありがとうございました。では頑張れば私のデジカメでもsusumuさんのような写真が撮れるということですね。いつもオートの設定で光学ズームって使ったことないのですが~~。またsusumuさんの美しい写真楽しみにしています~~^^
by suzy (2010-01-19 00:47) 

susumu

◇suzyさんへ
今回の返信ものすご~く長くなっちゃいましたね。(笑) ブログにしてもそうなんですけど、どうもまとめるのが苦手で、長くなってしまいます。これに懲りずにまた当ブログへ訪問していただけると嬉しいです。
by susumu (2010-01-19 20:27) 

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