熊野本宮大社から吉野へ・・・ 日本一の吊り橋 『谷瀬の吊り橋』 【奈良県 吉野郡 十津川村】 [日記]
さてさて、今回は前回の熊野本宮大社を訪れてからの続きですね。^^
熊野本宮大社を後にして、安倍晴明の五芒星を求め一路奈良県の吉野へ向かいます。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
緑深き熊野川流域を北上します。
道の駅「奥熊野古道ほんぐう」で、休憩!
おみやげに「熊野古道麦酒」でも買って帰ろうかな~なんてよく見ると・・・
1缶300円なので3缶買うと・・・ 300円×3缶=900円・・・
えっ、3本セット1000円ですか~ 3缶まとめて買うと高くなっちゃうんだ~(笑)
結局、「熊野古道麦酒」1缶お買い上げ~。^^
熊野川沿いの道って走ってて気持ちいい~
何気に滝なんてあったりして・・・
そして奈良県吉野郡十津川村へ・・・
川の名前もいつの間にか熊野川から十津川に・・・
十津川第一発電所の水路橋ですね。^^
たぶんこの山の向こうに水力発電所があるのでしょうね。
山をぶち抜いている巨大な水路トンネルのド迫力に圧倒されます。^^
この水の色・・・なんて綺麗なのでしょうか・・・ 感動!^^
そして、やって来ました日本一の「谷瀬の吊り橋」~~。^^
全長297.7m 川からの高さ54m 生活用の吊り橋としては「日本一」と言われているそうです。^^
皆さんビビリながら渡っていますが、自分も渡ってみることにします。
それではGo!
「ああっ、メッチャ怖い~」 TT
ビビリながら写真撮ってます。
縦揺れだけじゃないんです。横揺れがメッチャ怖い・・・
時おり足元の板がゆがむのがわかります・・・
だんだんこの揺れに慣れてきますが、ときたま激しく揺れます。恐怖のあまり誰か走ってるんじゃないかと思います。
それにしても300mは長いです。「もう、ええやん」みたいな・・・(笑)
やっと渡りきりました。なんだかホッとしますね。
帰りはけっこう余裕で・・・ ^^
とても広い河原です。今は、オートキャンプ場になってるみたいですね。
かつて、この辺りの流域には、集落や耕地がありました。
前回の熊野本宮大社の記事のときに、明治22年(1889年)の大洪水で大斎原にあった本宮大社の社殿が大きな被害にあったお話をしましたが、そのときの豪雨でこの辺りも大変大きな被害をうけました。
明治22年8月奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲いました。
奈良県吉野郡十津川郷では、山や谷壁がなだれ落ちて渓谷をせき止め、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように襲い掛かっていった・・・。
十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であったそうです。
すべてを失った人々の多くは、ここを離れて北海道へ移り住みました。
そう、そこが現在の北海道の新十津川村なのです。
洪水ですべてを失って、北海道へ移り住んだけれども、美しいふるさとのことは忘れなかった・・・
だから、移り住んだ先に、「十津川」の名を付けたのかなって思います。
移り住んだ先でも、幾多の困難が待ち受けていました。
そんな苦しい生活のなかでも、十津川の人々は子供たちの教育には熱心であったそうです。
すべてを失ってからの復興や開拓は長い月日がかかり、何世代にも及びます。
そんななかで情熱や希望を失わずに立ち上がっていくためには、やっぱり子供たちへの教育はとても大切なことなのだと思います。
移り住んだ人々の不屈の精神で、やがて北海道の新十津川村は、道内でも第一級の米作地帯となりました。
十津川村に残った人々もがんばった・・・
戦後の復興期、昭和29年(1954年)に十津川村の谷瀬の人々は一戸あたり20~30万円という、当時としては破格の大金を出し合い、800余万円を投じてこの「谷瀬の吊り橋」を完成させました。
現在では日本一の吊り橋として多くの人々で賑わっています。^^
そんな「谷瀬の吊り橋」がある十津川村ってどこ?
ここです。^^
さてさて、いつものように記事が長くなってきましたので、奈良県吉野の南朝の皇居「吉水神社」は次回のお楽しみということで・・・。
では、また。
熊野本宮大社を後にして、安倍晴明の五芒星を求め一路奈良県の吉野へ向かいます。
suzyさんのブログで見た、南北朝時代の南朝の皇居『吉水神社』にあるセーマン・ドーマンの五芒星を見に行こうと思います。^^
緑深き熊野川流域を北上します。
道の駅「奥熊野古道ほんぐう」で、休憩!
おみやげに「熊野古道麦酒」でも買って帰ろうかな~なんてよく見ると・・・
1缶300円なので3缶買うと・・・ 300円×3缶=900円・・・
えっ、3本セット1000円ですか~ 3缶まとめて買うと高くなっちゃうんだ~(笑)
結局、「熊野古道麦酒」1缶お買い上げ~。^^
熊野川沿いの道って走ってて気持ちいい~
何気に滝なんてあったりして・・・
そして奈良県吉野郡十津川村へ・・・
川の名前もいつの間にか熊野川から十津川に・・・
十津川第一発電所の水路橋ですね。^^
たぶんこの山の向こうに水力発電所があるのでしょうね。
山をぶち抜いている巨大な水路トンネルのド迫力に圧倒されます。^^
この水の色・・・なんて綺麗なのでしょうか・・・ 感動!^^
そして、やって来ました日本一の「谷瀬の吊り橋」~~。^^
全長297.7m 川からの高さ54m 生活用の吊り橋としては「日本一」と言われているそうです。^^
皆さんビビリながら渡っていますが、自分も渡ってみることにします。
それではGo!
「ああっ、メッチャ怖い~」 TT
ビビリながら写真撮ってます。
縦揺れだけじゃないんです。横揺れがメッチャ怖い・・・
時おり足元の板がゆがむのがわかります・・・
だんだんこの揺れに慣れてきますが、ときたま激しく揺れます。恐怖のあまり誰か走ってるんじゃないかと思います。
それにしても300mは長いです。「もう、ええやん」みたいな・・・(笑)
やっと渡りきりました。なんだかホッとしますね。
帰りはけっこう余裕で・・・ ^^
とても広い河原です。今は、オートキャンプ場になってるみたいですね。
かつて、この辺りの流域には、集落や耕地がありました。
前回の熊野本宮大社の記事のときに、明治22年(1889年)の大洪水で大斎原にあった本宮大社の社殿が大きな被害にあったお話をしましたが、そのときの豪雨でこの辺りも大変大きな被害をうけました。
明治22年8月奈良県吉野郡一帯をとてつもない豪雨が襲いました。
奈良県吉野郡十津川郷では、山や谷壁がなだれ落ちて渓谷をせき止め、せき止められた大量の水が堰を切って濁流となり、怒涛のように襲い掛かっていった・・・。
十津川郷は壊滅的な被害を受けるほどの大水害であったそうです。
すべてを失った人々の多くは、ここを離れて北海道へ移り住みました。
そう、そこが現在の北海道の新十津川村なのです。
洪水ですべてを失って、北海道へ移り住んだけれども、美しいふるさとのことは忘れなかった・・・
だから、移り住んだ先に、「十津川」の名を付けたのかなって思います。
移り住んだ先でも、幾多の困難が待ち受けていました。
そんな苦しい生活のなかでも、十津川の人々は子供たちの教育には熱心であったそうです。
すべてを失ってからの復興や開拓は長い月日がかかり、何世代にも及びます。
そんななかで情熱や希望を失わずに立ち上がっていくためには、やっぱり子供たちへの教育はとても大切なことなのだと思います。
移り住んだ人々の不屈の精神で、やがて北海道の新十津川村は、道内でも第一級の米作地帯となりました。
十津川村に残った人々もがんばった・・・
戦後の復興期、昭和29年(1954年)に十津川村の谷瀬の人々は一戸あたり20~30万円という、当時としては破格の大金を出し合い、800余万円を投じてこの「谷瀬の吊り橋」を完成させました。
現在では日本一の吊り橋として多くの人々で賑わっています。^^
そんな「谷瀬の吊り橋」がある十津川村ってどこ?
ここです。^^
さてさて、いつものように記事が長くなってきましたので、奈良県吉野の南朝の皇居「吉水神社」は次回のお楽しみということで・・・。
では、また。