THE洗車DAY ~何気ない休日、ご近所ブラリン~ [日記]
今年もあと残りわずか・・・。あとは年末でお正月ですね~。^^
自分も忙しいけど、なんとか元気でやっています。
最近バイクにはあまり乗っていませんね~。TT
こないだの休日は午前中に用事を済ませて、午後からNinja250Rの洗車でもしようかなと・・・。
バイクカバーを外してみると、ホコリまみれだったので、隣町にある洗車場へ行きました。^^
ひどいドロドロ汚れのときはここで高圧ジェット洗車をします。
「ん!」 「高圧ジェット洗車」・・・
は~い、みなさん、今日は「高圧ジェット洗浄機 セルフスターフレッシャー」のご紹介ですよ~。(甲高い声で・・・)
愛車のひどいドロドロ汚れを洗い落とすのって、ヒッジョウに手間がかかりますよね~。
こんなときに便利なのが「高圧ジェット洗浄機 セルフスターフレッシャー」ですよ~。
使い方はものすごく簡単です。
お金を入れて、お好みの洗車コースを選んで、スタートボタンを押すだけですよ~。
それではみなさん実際にワタシほうでやってみたいと思います。
《人間工学に基づいた特殊ノズル》
何がスゴイかといいますと、人間工学に基づいて設計されました、この特殊ノズルの先端の角度なんです。
120度ですよ~。120度~。
それでは、ドパ~ッと噴きかけてみますよ~。
《水道圧力の約40倍の強力水流》 ←タブン
みなさん、どうです、スゴイですよね~。
水道の約40倍の圧力で手の届きにくいところの汚れまで洗い落としてくれますよ~。
ご覧下さい~。ピカピカです~ 。^^
はいっ。今回のご紹介はこれだけでは終わりませんよ~。
なんと今回はさらにもう一台お付けいたします~。
みなさん、ご覧ください。KSRもピカピカになりましたよ~。
今回は特に金利・手数料はありません~。
綺麗に拭き上げて出来上がり~。
じゃばネット洗車ゴッコも無事終了し・・・
そういえば、昼食べてなかったな・・・。腹へった~。
ラーメンでも食べに行くか~。九州へ!
へへへ、九州といっても三重県にある九州デス。
三重県いなべ市にある博多ラーメン 『半蔵』
そうです、Ninjaで『半蔵』にやって来ました~。あはは、わかるかな~。(笑)
店内に入ると、さすがに博多ラーメン屋さんですね・・・
博多のお酒がさりげなく置いてありました。^^
「博多っ子」に「博多小次郎」ですか。お酒はあまり詳しくはないのですが、博多のお酒なので焼酎なのでしょうか~。
今日はちょっと豪華に海苔とニンニクチップ入りの博多ラーメンを注文しました。
麺の固さは「かためん」で。やっぱり「はりがね」をたのむ勇気はありませんでした~。^^
さすがに麺は細めんですけど硬いです。これ以上硬い「はりがね」ってどんな麺なのでしょうか・・・。
ここはあっさり系の豚骨スープですね。もちろん替え玉しましたよ~。^^
お腹もいっぱいになりましたが、このまま帰るのはもったいないので、チョコットだけ寄り道します。^^
三重県いなべ市大安町にある『両ヶ池公園』です。
『両ヶ池公園』は上池と下池があり、下池の畔には草競馬のコースがあります。
ここでは毎年5月に「いなべ草競馬」が開催されます。
その昔、いなべ周辺では農耕馬による競争がさかんに行われていたそうです。
そのため地元の愛馬会が主催して、かつての農耕馬の競争を再現しようと毎年開催しているそうです。
今年の草競馬には仕事で行けなかったのですが、去年行ったときの写真がありましたので、どうぞ~。^^
草競馬ならではの迫力あるシーン。^^
かなり馬体を傾けてコーナーを駆け抜けていきます。馬も騎手も真剣そのものです。
コースが小さいのでおのずとコーナーのRがきつくなります。
中央競馬でもここまでは馬体を倒さないかな・・・。^^
こうしてみると騎手の乗馬姿勢はバイクのライディングフォームに似ている気がしますね。
しっかりとニーグリップをし、脇を締め、視線はコーナーの出口へ・・・。馬もしっかりと出口を見つめています。^^
バイクのことを例えて「鉄馬」っていいますが、そのとおりですね~。
冬枯れの公園をブラリン・・・
さ、寂しい・・・ 誰もいません。(笑)
やっぱり寂しい・・・(笑)
寂しすぎるので上池へ・・・
おおっ、カモ君発見!^^
水に潜ったりして、忙しそうでした。^^
最近は鳥インフルエンザが流行っているみたいなので、体に気をつけてこの冬を過ごすんだぞ~。^^
さてさて、陽もかたむいてきましたので帰るとします・・・
今日の一冊・・・
以前から、ぜひ読んでみたいと思っていたこの本・・・
『関ヶ原 島津退き口 -敵中突破300里』
ネットで注文してたのが、届きました~。^^
慶長5年(1600年)天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」終盤、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなります。
敗色が決定的となった場面で島津隊を率いていた島津義弘は、前代未聞の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」を敢行します。
圧倒的な数の東軍に囲まれた中での敵中突破・・・
多大の犠牲を出しながら、薩摩までたどり着くことが出来たという「関ヶ原 島津退き口」のすべてがこの本には書かれています。
今度の正月休みは、~生き残った兵士の手記で綴る迫真の戦国ドキュメント~ 『関ヶ原 島津退き口』を十分に楽しみたいと思います。^^
みなさん、こんな興味本位なブログですが、ご訪問いただきまして、本当にありがとうございます。
みなさんの今年はどんな年だったでしょうか~。
来年も素晴しい年になりますようにお祈りいたします。^^
では、また。
自分も忙しいけど、なんとか元気でやっています。
最近バイクにはあまり乗っていませんね~。TT
こないだの休日は午前中に用事を済ませて、午後からNinja250Rの洗車でもしようかなと・・・。
バイクカバーを外してみると、ホコリまみれだったので、隣町にある洗車場へ行きました。^^
ひどいドロドロ汚れのときはここで高圧ジェット洗車をします。
「ん!」 「高圧ジェット洗車」・・・
は~い、みなさん、今日は「高圧ジェット洗浄機 セルフスターフレッシャー」のご紹介ですよ~。(甲高い声で・・・)
愛車のひどいドロドロ汚れを洗い落とすのって、ヒッジョウに手間がかかりますよね~。
こんなときに便利なのが「高圧ジェット洗浄機 セルフスターフレッシャー」ですよ~。
使い方はものすごく簡単です。
お金を入れて、お好みの洗車コースを選んで、スタートボタンを押すだけですよ~。
それではみなさん実際にワタシほうでやってみたいと思います。
《人間工学に基づいた特殊ノズル》
何がスゴイかといいますと、人間工学に基づいて設計されました、この特殊ノズルの先端の角度なんです。
120度ですよ~。120度~。
それでは、ドパ~ッと噴きかけてみますよ~。
《水道圧力の約40倍の強力水流》 ←タブン
みなさん、どうです、スゴイですよね~。
水道の約40倍の圧力で手の届きにくいところの汚れまで洗い落としてくれますよ~。
ご覧下さい~。ピカピカです~ 。^^
はいっ。今回のご紹介はこれだけでは終わりませんよ~。
なんと今回はさらにもう一台お付けいたします~。
みなさん、ご覧ください。KSRもピカピカになりましたよ~。
今回は特に金利・手数料はありません~。
綺麗に拭き上げて出来上がり~。
じゃばネット洗車ゴッコも無事終了し・・・
そういえば、昼食べてなかったな・・・。腹へった~。
ラーメンでも食べに行くか~。九州へ!
へへへ、九州といっても三重県にある九州デス。
三重県いなべ市にある博多ラーメン 『半蔵』
そうです、Ninjaで『半蔵』にやって来ました~。あはは、わかるかな~。(笑)
店内に入ると、さすがに博多ラーメン屋さんですね・・・
博多のお酒がさりげなく置いてありました。^^
「博多っ子」に「博多小次郎」ですか。お酒はあまり詳しくはないのですが、博多のお酒なので焼酎なのでしょうか~。
今日はちょっと豪華に海苔とニンニクチップ入りの博多ラーメンを注文しました。
麺の固さは「かためん」で。やっぱり「はりがね」をたのむ勇気はありませんでした~。^^
さすがに麺は細めんですけど硬いです。これ以上硬い「はりがね」ってどんな麺なのでしょうか・・・。
ここはあっさり系の豚骨スープですね。もちろん替え玉しましたよ~。^^
お腹もいっぱいになりましたが、このまま帰るのはもったいないので、チョコットだけ寄り道します。^^
三重県いなべ市大安町にある『両ヶ池公園』です。
『両ヶ池公園』は上池と下池があり、下池の畔には草競馬のコースがあります。
ここでは毎年5月に「いなべ草競馬」が開催されます。
その昔、いなべ周辺では農耕馬による競争がさかんに行われていたそうです。
そのため地元の愛馬会が主催して、かつての農耕馬の競争を再現しようと毎年開催しているそうです。
今年の草競馬には仕事で行けなかったのですが、去年行ったときの写真がありましたので、どうぞ~。^^
草競馬ならではの迫力あるシーン。^^
かなり馬体を傾けてコーナーを駆け抜けていきます。馬も騎手も真剣そのものです。
コースが小さいのでおのずとコーナーのRがきつくなります。
中央競馬でもここまでは馬体を倒さないかな・・・。^^
こうしてみると騎手の乗馬姿勢はバイクのライディングフォームに似ている気がしますね。
しっかりとニーグリップをし、脇を締め、視線はコーナーの出口へ・・・。馬もしっかりと出口を見つめています。^^
バイクのことを例えて「鉄馬」っていいますが、そのとおりですね~。
冬枯れの公園をブラリン・・・
さ、寂しい・・・ 誰もいません。(笑)
やっぱり寂しい・・・(笑)
寂しすぎるので上池へ・・・
おおっ、カモ君発見!^^
水に潜ったりして、忙しそうでした。^^
最近は鳥インフルエンザが流行っているみたいなので、体に気をつけてこの冬を過ごすんだぞ~。^^
さてさて、陽もかたむいてきましたので帰るとします・・・
今日の一冊・・・
以前から、ぜひ読んでみたいと思っていたこの本・・・
『関ヶ原 島津退き口 -敵中突破300里』
ネットで注文してたのが、届きました~。^^
慶長5年(1600年)天下分け目の決戦「関ヶ原の戦い」終盤、小早川秀秋の裏切りにより西軍は総崩れとなります。
敗色が決定的となった場面で島津隊を率いていた島津義弘は、前代未聞の敵中突破退却戦、いわゆる「島津の退き口」を敢行します。
圧倒的な数の東軍に囲まれた中での敵中突破・・・
多大の犠牲を出しながら、薩摩までたどり着くことが出来たという「関ヶ原 島津退き口」のすべてがこの本には書かれています。
今度の正月休みは、~生き残った兵士の手記で綴る迫真の戦国ドキュメント~ 『関ヶ原 島津退き口』を十分に楽しみたいと思います。^^
みなさん、こんな興味本位なブログですが、ご訪問いただきまして、本当にありがとうございます。
みなさんの今年はどんな年だったでしょうか~。
来年も素晴しい年になりますようにお祈りいたします。^^
では、また。
紅葉の郡上八幡城と2010年秋の想い出・・・ 【岐阜県郡上市 郡上八幡城】 [日記]
今年も残すところあと半月となり、寒い日々が続いておりますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。^^
さてさて、今回は郡上八幡城へ・・・
へへへ・・・といっても、こないだ帰雲城へ行ったときに、帰りに郡上八幡城へ寄り道したんですね~。^^
国道156号線を庄川沿いに南下・・・
いつ来てもこの道は素晴しいです。ちょっと寒いけどね~。^^
そんなわけで郡上八幡城へはちょっと遅めの登城となりました。閉門時間ギリギリです。(笑)
郡上八幡城は岐阜県郡上市八幡町にあります。
郡上八幡城へはまだ来たことなかったので、初登城となりました。^^
以前から郡上八幡城はぜひ訪れたいお城のひとつだったのですが、行くのなら絶対紅葉の季節に行こうと思っていました。
そうここ郡上八幡城は紅葉に映えるとても美しいお城です。
『天守閣はこちらデス!』
郡上八幡城はこんな感じになっています。それ程大きくはありませんね~。^^
郡上八幡城は永禄2年(1559年)遠藤盛数によって築かれたのが始まりみたいですね。
ちなみに遠藤盛数は山内一豊の妻 千代の父だそうです。^^
何とか天守丸へは入れましたが、見学時間は20分しかありません。
それでは、塀の狭間(さま)からの風景をどうぞ~。^^
いや~素晴しいデスネ。今まで見た狭間からの風景の中では一番でしょう。^^
それでは、天守閣へ・・・
この天守閣は昭和8年(1933年)に大垣城(当時)を参考に天守台跡に建てられた模擬天守です。
木造で建てられた模擬天守では最古のものだそうです。
天守閣の中はというと・・・
国宝や重要文化財の現存天守とはちょっと違った感じですが、木造の天守閣って趣があっていいですね。
駆け足で天守閣を見学して降りてきましたが、門はもうすでに閉まっていました。TT
門の横にある勝手口から無事出られました。天守閣はライトアップされているようです。^^
郡上八幡城は心に残る美しいお城でしたね。
またお城から見る城下町のたたずまいも素晴しいです。
今回は時間がなくてちょっと残念でしたが、郡上八幡へはぜひまた訪問しようと思います。
今度は、美味しいものでも食べて、のんびり町をぶらっとしたいな~。^^
【2010年秋の想い出】
では、また。
さてさて、今回は郡上八幡城へ・・・
へへへ・・・といっても、こないだ帰雲城へ行ったときに、帰りに郡上八幡城へ寄り道したんですね~。^^
国道156号線を庄川沿いに南下・・・
いつ来てもこの道は素晴しいです。ちょっと寒いけどね~。^^
そんなわけで郡上八幡城へはちょっと遅めの登城となりました。閉門時間ギリギリです。(笑)
郡上八幡城は岐阜県郡上市八幡町にあります。
郡上八幡城へはまだ来たことなかったので、初登城となりました。^^
以前から郡上八幡城はぜひ訪れたいお城のひとつだったのですが、行くのなら絶対紅葉の季節に行こうと思っていました。
そうここ郡上八幡城は紅葉に映えるとても美しいお城です。
『天守閣はこちらデス!』
郡上八幡城はこんな感じになっています。それ程大きくはありませんね~。^^
郡上八幡城は永禄2年(1559年)遠藤盛数によって築かれたのが始まりみたいですね。
ちなみに遠藤盛数は山内一豊の妻 千代の父だそうです。^^
何とか天守丸へは入れましたが、見学時間は20分しかありません。
それでは、塀の狭間(さま)からの風景をどうぞ~。^^
いや~素晴しいデスネ。今まで見た狭間からの風景の中では一番でしょう。^^
それでは、天守閣へ・・・
この天守閣は昭和8年(1933年)に大垣城(当時)を参考に天守台跡に建てられた模擬天守です。
木造で建てられた模擬天守では最古のものだそうです。
天守閣の中はというと・・・
国宝や重要文化財の現存天守とはちょっと違った感じですが、木造の天守閣って趣があっていいですね。
駆け足で天守閣を見学して降りてきましたが、門はもうすでに閉まっていました。TT
門の横にある勝手口から無事出られました。天守閣はライトアップされているようです。^^
郡上八幡城は心に残る美しいお城でしたね。
またお城から見る城下町のたたずまいも素晴しいです。
今回は時間がなくてちょっと残念でしたが、郡上八幡へはぜひまた訪問しようと思います。
今度は、美味しいものでも食べて、のんびり町をぶらっとしたいな~。^^
【2010年秋の想い出】
では、また。
世界遺産『白川郷』と悲劇の城『帰雲城』 [歴史ロマンシリーズ]
世界遺産の『白川郷』合掌造り集落は岐阜県北部の庄川流域にあります。
とても美しい合掌造りの萱葺き屋根の民家は訪れる人の心を魅きつけます。
『白川郷』といえば城山展望台から撮った写真が有名ですが・・・
ここは、その名のとおり、かつて存在した荻町城(おぎまちじょう)の城跡なのです。
【堀切】
【土塁】
【本丸跡】
築城年代は未詳ですが、南北朝時代に南朝の公家達が隠れ住んだ城だと言われています。
江戸期は天領だった白川郷ですが、戦国期の荻町城はこの地を支配していた内ヶ島氏の支城として、家臣の山下氏が代々居城としていました。
白川郷にいつ頃から人が住むようになったのか定かではありませんが、源平合戦の初期に、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたと言われています。
もともと白川郷をはじめ飛騨の多くは、白山信仰を中心とする天台系密教の強い地域でありました。そんな中、鎌倉初期の建長5年(1253年)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊上人が庄川沿いに浄土真宗の布教を行います。
【嘉念坊善俊上人】
白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊上人は熱心に教えを説き、次第に農民たちの間に浄土真宗が広まってゆきます。
一方、寛政元年(1460年)信州より内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。豊富な金銀資源によって繁栄し、足利義政の「銀閣寺」造営のための献金をするほどだったといわれています。内ヶ島氏の居城は、現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる『帰雲城』(かえりくもじょう)でした。
当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るっていた時代でした。
白川郷でも浄土真宗のもとで団結した農民たちと領主の内ヶ島氏は激しく対立し、数度にわたって武力衝突しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。
白川郷は陸の孤島と呼ばれ攻め難く守りやすい地域であった為、戦国期内ヶ島氏の支配は120年続きます。
しかし織田信長が本能寺で討たれ、時代は豊臣秀吉の世と成りつつありました。
時の内ヶ島氏理は越中の佐々成政と関係を通じていたため、天正13年(1585年)秀吉による「富山の役」では佐々成政の援軍として越中に赴いていました。
天正13年(1585年)閏8月、豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて飛騨を攻撃しました。
内ヶ島氏理はただちに飛騨へ戻りましたが、金森長近は浄土真宗の照蓮寺勢力と手を結んだため、内ヶ島氏理はたまらず降伏します。
金森長近は内ヶ島氏の金銀資源に目を付けたのか、内ヶ島氏理の所領を安堵し居城の帰雲城に帰してやります。
そして、運命の天正13年(1585年)11月29日(旧暦)がやって来ます。
この時、帰雲城では所領安堵の祝いとして、能役者を招き、宴を催していたといわれています。
そして夜半、東海・北陸・近畿地方などを襲った巨大地震により、帰雲山に大崩落が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられています。
【帰雲城址】(かえりくもじょうあと)
この時の巨大地震はM8.0~M8.1とも言われ、帰雲城は、内ヶ島一族、在家三百余軒、男女数百人とともに、埋没してしまったそうです。
450年近く経った今日でも、帰雲山の大崩落ははっきりと見て取れます。阪神・淡路大震災の時はM7.3、関東大震災の時はM7.9ですので、それ以上の、わが国の内陸直下地震としては最大規模の大地震だったみたいです。
越中では木舟城が倒壊し、前田利家の弟である城主の前田秀継夫妻など多数が圧死しました。美濃では、大垣城が崩れ焼失、城下で多数の家屋が倒壊し、また近江では、山内一豊の居城である長浜城が全壊し、一豊と千代との間に生まれた一人娘で、6歳になる与弥姫が、乳母とともに圧死したそうです。
戦国期に白川郷を支配した内ヶ島氏が、各地に多大な被害をもたらしたこの「天正大地震」により、一瞬のうちに滅亡した事実を知ったとき愕然としました。
敵に攻め滅ぼされ歴史から消えていった戦国武将はあまたいますが、巨大地震によりその居城、一族、城下町もろとも一瞬に消えていった戦国武将は、内ヶ島氏理だけでしょう。
内ヶ島氏はその豊富な金銀資源により、大きな勢力を誇っていました。天正大地震によりその金銀財宝もろとも地下深く埋もれてしまった・・・。そうです、ここには埋没金伝説があります。
現在この地には「帰雲城址」の石碑が立てられていますが、崩落し地中深く埋まっていますので、「帰雲城」が何処にあったのかはわかっていません。
近くに「帰り雲神社」が建立されています。
『流れる雲は常にこの山頂に至り もと来た空に帰るという』・・・帰雲山の由来ですね。
さっきまで帰雲山に雲はありませんでしたが、雲がかかってきました。
この雲ももと来た空に帰るのでしょうか・・・。
Ninjaで庄川の河原に降りてみました。
山が半分ありません。
450年前のこの地は内ヶ島氏の帰雲城の城下町として賑わっていたでしょうが、現在は荒涼とした風景が広がります。
かつて白川郷を支配した内ヶ島氏とその一族、そしてその城下に住んでいた人々が一瞬のうちに消えてしまったか思うと、祈らずにはいられません。
では、また。
【おまけ】
白川郷で疲れたネコ発見!
まるで、オレみたい・・・。
でも、前向きにガンバルぞ~。^^
とても美しい合掌造りの萱葺き屋根の民家は訪れる人の心を魅きつけます。
『白川郷』といえば城山展望台から撮った写真が有名ですが・・・
ここは、その名のとおり、かつて存在した荻町城(おぎまちじょう)の城跡なのです。
【堀切】
【土塁】
【本丸跡】
築城年代は未詳ですが、南北朝時代に南朝の公家達が隠れ住んだ城だと言われています。
江戸期は天領だった白川郷ですが、戦国期の荻町城はこの地を支配していた内ヶ島氏の支城として、家臣の山下氏が代々居城としていました。
白川郷にいつ頃から人が住むようになったのか定かではありませんが、源平合戦の初期に、越中倶利伽羅峠の戦いで木曽義仲に敗れた平氏の落ち武者が住み着いたと言われています。
もともと白川郷をはじめ飛騨の多くは、白山信仰を中心とする天台系密教の強い地域でありました。そんな中、鎌倉初期の建長5年(1253年)親鸞聖人の弟子である嘉念坊善俊上人が庄川沿いに浄土真宗の布教を行います。
【嘉念坊善俊上人】
白川郷の鳩ヶ谷に道場を構えた善俊上人は熱心に教えを説き、次第に農民たちの間に浄土真宗が広まってゆきます。
一方、寛政元年(1460年)信州より内ヶ島氏が進出して白川一帯を治める豪族になりました。内ヶ島氏は庄川流域で金鉱山を経営し、農業に向かない乏しい土地ながら、大きな勢力を誇りました。豊富な金銀資源によって繁栄し、足利義政の「銀閣寺」造営のための献金をするほどだったといわれています。内ヶ島氏の居城は、現在の岐阜県大野郡白川村保木脇(ほきわき)にあったとされる『帰雲城』(かえりくもじょう)でした。
当時、越前や加賀、越中といった北陸諸国では真宗門徒が武家勢力を追い出し、農民が実権を奪い取る一向一揆が猛威を振るっていた時代でした。
白川郷でも浄土真宗のもとで団結した農民たちと領主の内ヶ島氏は激しく対立し、数度にわたって武力衝突しますが、本願寺・蓮如上人の仲裁で和解し、それ以降は共存共栄を図ることになりました。
白川郷は陸の孤島と呼ばれ攻め難く守りやすい地域であった為、戦国期内ヶ島氏の支配は120年続きます。
しかし織田信長が本能寺で討たれ、時代は豊臣秀吉の世と成りつつありました。
時の内ヶ島氏理は越中の佐々成政と関係を通じていたため、天正13年(1585年)秀吉による「富山の役」では佐々成政の援軍として越中に赴いていました。
天正13年(1585年)閏8月、豊臣秀吉は配下の武将・金森長近に飛騨侵攻を命じ、金森長近の軍勢は越前から白山の山脈を越えて飛騨を攻撃しました。
内ヶ島氏理はただちに飛騨へ戻りましたが、金森長近は浄土真宗の照蓮寺勢力と手を結んだため、内ヶ島氏理はたまらず降伏します。
金森長近は内ヶ島氏の金銀資源に目を付けたのか、内ヶ島氏理の所領を安堵し居城の帰雲城に帰してやります。
そして、運命の天正13年(1585年)11月29日(旧暦)がやって来ます。
この時、帰雲城では所領安堵の祝いとして、能役者を招き、宴を催していたといわれています。
そして夜半、東海・北陸・近畿地方などを襲った巨大地震により、帰雲山に大崩落が起こり、帰雲城とその城下集落が一瞬にして埋没したと伝えられています。
【帰雲城址】(かえりくもじょうあと)
この時の巨大地震はM8.0~M8.1とも言われ、帰雲城は、内ヶ島一族、在家三百余軒、男女数百人とともに、埋没してしまったそうです。
450年近く経った今日でも、帰雲山の大崩落ははっきりと見て取れます。阪神・淡路大震災の時はM7.3、関東大震災の時はM7.9ですので、それ以上の、わが国の内陸直下地震としては最大規模の大地震だったみたいです。
越中では木舟城が倒壊し、前田利家の弟である城主の前田秀継夫妻など多数が圧死しました。美濃では、大垣城が崩れ焼失、城下で多数の家屋が倒壊し、また近江では、山内一豊の居城である長浜城が全壊し、一豊と千代との間に生まれた一人娘で、6歳になる与弥姫が、乳母とともに圧死したそうです。
戦国期に白川郷を支配した内ヶ島氏が、各地に多大な被害をもたらしたこの「天正大地震」により、一瞬のうちに滅亡した事実を知ったとき愕然としました。
敵に攻め滅ぼされ歴史から消えていった戦国武将はあまたいますが、巨大地震によりその居城、一族、城下町もろとも一瞬に消えていった戦国武将は、内ヶ島氏理だけでしょう。
内ヶ島氏はその豊富な金銀資源により、大きな勢力を誇っていました。天正大地震によりその金銀財宝もろとも地下深く埋もれてしまった・・・。そうです、ここには埋没金伝説があります。
現在この地には「帰雲城址」の石碑が立てられていますが、崩落し地中深く埋まっていますので、「帰雲城」が何処にあったのかはわかっていません。
近くに「帰り雲神社」が建立されています。
『流れる雲は常にこの山頂に至り もと来た空に帰るという』・・・帰雲山の由来ですね。
さっきまで帰雲山に雲はありませんでしたが、雲がかかってきました。
この雲ももと来た空に帰るのでしょうか・・・。
Ninjaで庄川の河原に降りてみました。
山が半分ありません。
450年前のこの地は内ヶ島氏の帰雲城の城下町として賑わっていたでしょうが、現在は荒涼とした風景が広がります。
かつて白川郷を支配した内ヶ島氏とその一族、そしてその城下に住んでいた人々が一瞬のうちに消えてしまったか思うと、祈らずにはいられません。
では、また。
【おまけ】
白川郷で疲れたネコ発見!
まるで、オレみたい・・・。
でも、前向きにガンバルぞ~。^^