夏だ~ 涼だ~ 諏訪湖へGo!ツーリング 後編 【長野県 諏訪市 高島城】 [歴史ロマンシリーズ]
【高島城】
天正18年(1590年)当時の諏訪領主 諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移りますが、小田原征伐の功績により、日根野高吉(ひねの たかよし)が諏訪に転封、豊臣秀吉より2万7000石が与えられ諏訪の領主となりました。
日根野高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手だったそうで、文禄元年(1592年)に高島城の築城を開始し、慶長3年(1598年)まで7年ほどかかって完成させたそうです。
当時の高島城は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれました。
当時の高島城の城郭はこんな感じです。
本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をはぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と河川に囲まれた難攻不落の水城でした。現在は、二之丸、三之丸などは市街地となっており遺構は残っていませんが、図の赤丸の本丸部分とその面影を残すお堀が往時の高島城を偲ばせます。
関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に属した諏訪氏は、慶長6年(1601年)に旧領の諏訪領に封ぜられ、以後、諏訪氏10代 約270年の長きにわたってその威容を誇りました。
明治になって廃藩置県により城郭が撤去され、本丸跡は公園となりましたが、昭和45年(1970年)に天守閣が再建され、同時に冠木門・角櫓なども復興されました。
それでは冠木門から城内へ・・・。
冠木門脇にある大木が迎えてくれました。何百年というお城の歴史を見守って来たのでしょうか・・・。
本丸跡は高島公園となっており一般に開放されています。
趣のある日本庭園です。
おっ、こんなもの発見!
各地のお城でおなじみの「顔出しパネル」ですね。^^
武田信玄の側室であり、武田勝頼の母である「由布姫」と「山本勘助」ですか。あはは、豊臣時代の築城である高島城とはあまり関係がないんだけどなあ~。(笑)
2007年の大河ドラマ「風林火山」の影響でしょうね~。恐るべし大河ドラマ・・・。
なので、顔出しパネルで遊んでみた。^^
いかがでしょうか。ダースベーダーっぽくないッスカ。(笑)
それでは、天守閣へ・・・。
遠くからの見た目は木造っぽかったけど、鉄筋コンクリート製ですね。
昭和45年(1970年)に復元されているので、築40年ですか。すごいな~。^^
三層の天守閣ですが一階と二階は資料室となっています。残念ながら撮影禁止ですけどね~。(笑)
最上階の三階は展望室になっていたので、諏訪の街を撮ってみた。
築城当時は諏訪湖が城際まで迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城ですが、江戸期の干拓などによって諏訪湖が遙か向こうへ行っちゃってます。(笑)
まあ、江戸時代という平和な時代になって、敵から攻められる心配もなくなり、なによりも農地を広げ石高を増やすことこそが最重要課題になったので、しょうがないんですけどね~。
皆さん、屋根が瓦葺きでないことにお気づきでしょうか。
この、復興天守の屋根は銅版葺きですが、もともと築城当時の天守閣も瓦葺きではありませんでした。
天守閣は檜の薄い板を葺いた杮葺き(こけらぶき)という珍しいものだったそうで、これは、諏訪の寒冷に耐えられる瓦が調達出来なかったためと言われています。
さあ、ここでもう一度、当時の高島城の城郭図を見てみましょう。
赤丸で囲った南之丸が城郭の離れにあるのが解りますよね。
実はこの南之丸は、寛永3年(1626年)に徳川家康の六男 松平忠輝を預かったときに、増設したものです。
そうここは、幕府から預かった流人の監禁場所だったところです。松平忠輝以降も、赤穂浪士の討ち入りにより改易された吉良義周などの幕府から預かった流人の監禁場所となりました。
写真でいうと、歩道橋の左辺りに南之丸があったと思われる場所ですけど、現在では市街地となっていて遺構は残っていません。
【松平忠輝】(まつだいら ただてる)
徳川家康の六男に生まれたにも関わらず、数奇な運命をたどった悲運の人です。
今回、ぜひ高島城を訪れたかった理由の一つは、悲運の人「松平忠輝」が高島城において人生の大半の時間を流人として過ごした場所を見たかったからなんですね。ただ、残念なことに今回訪れた高島城は南之丸の遺構はもちろん、資料館や城跡にも、忠輝に関する資料や解説は一切ありませんでした。TT
天正20年(1592年)1月4日、忠輝は徳川家康の六男として江戸城で生まれました。幼名は辰千代(たつちよ)です。
家康は誕生した辰千代を生母・茶阿局の身分が低かったため、素直に喜ばなかったといいます。そればかりか、家康は生まれたばかりの新生児である辰千代の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのです。辰千代は下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなりました。
家康が忠輝と再び面会したのは、慶長3年(1598年)のことですが、そのときも家康は忠輝を嫌ったと言われています。
茶阿局は天正20年(1592年)に辰千代を、文禄3年(1594年)に弟の松千代を出産したとされていますが、実は辰千代、松千代を双子で生んだという説もあるそうなんです。当時双子は「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われていて、そのために双子のうちの一人である辰千代は捨て子扱いされたのではないかとの説のほうが、個人的には説得力があるような気がします。あっ、あくまでも個人的意見ですけどね~。^^
弟の松千代には幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対して、同時期の辰千代はなにもなし~。う~ん、やっぱりね~。(笑)
ところが、慶長4年(1599年)1月に弟の松千代が早世してしまいます。そのため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷1万石を与えられました。
慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝を名乗ります。ちなみに、忠輝は織田信長を尊敬していて、生涯を上総介で通したそうです。
その後の忠輝は順調に加増移封されていきます。
慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚します。
慶長15年(1610年)、越後高田藩主に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられました。
忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人で、キリスト教の洗礼を受けキリスト教を信仰していたともされています。家康は当初貿易の実利を求めながらも、キリスト教宣教を黙認していたそうです。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では大坂に出陣しました。
元和2年(1616年)4月、父・家康が死去しますが、家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかったそうです。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかったそうです。
そして運命の元和2年(1616年)7月6日、忠輝は大坂夏の陣の際に不行跡があったことを譴責され、兄である将軍徳川秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪となりました。
その改易の理由というのは・・・
・大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。
・忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
・大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。
まあ、関ヶ原の戦いのおり遅参して家康から叱責された秀忠が、大阪夏の陣の遅参を理由に忠輝を改易するとはなんたる歴史の皮肉でしょうか。忠輝にしてみれば「あんたにいわれたくねぇ」っていう感じでしょうか。(笑)
個人的には改易の本当の理由はキリスト教にあるのではないかとの説が大きいように思います。1612年に諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止令が出され、キリスト教への迫害が始まりました。忠輝自身が洗礼を受けていたかどうかはわかりませんが、キリスト教に深く関わっていたようです。
織田信長を尊敬していた忠輝ですが、粗暴な振る舞いが多かったと言われています。でも、改易させられた人の人物像って、この辺の話がけっこうクローズアップされるように感じますよね。
忠輝は伊勢朝熊(鳥羽藩)で2年流された後、飛騨高山(高山藩)に移され8年をそこで過ごし、そして寛永3年(1626年)に諏訪高島城に移されました。25歳で改易され、35歳のときに諏訪高島城南之丸に移り、その後58年の余生を諏訪でおくり天和3年(1683年)7月3日に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終えました。
92歳という長寿だったことから、それなりの遇され方だったのではないかと思いますが、諏訪の冬の厳しさは老齢の身にこたえたでしょう。失意のうちにこの長き時間を過ごしたのか、それともいつか赦免される日が来ることを願って待っていたのか・・・。いずれにせよ、とても長い時間だったことでしょう。
今回の高島城は、数奇な運命をたどった松平忠輝に思いを馳せながらの訪問でした。
長寿の象徴でもある亀さん。
さて、高島城を訪れた後は・・・
水陸両用バスで見かけた造り酒屋さんに寄ってみたりとか・・・。バイクじゃなかったら試飲したかったんですけど。(笑)
道を間違えて偶然見つけた上原城跡に行ってみたりとか・・・
諏訪に来たのなら当然、諏訪大社上社本宮にも行きました。
もちろん、信州といえば蕎麦ですよね。
手打ちだけれども細めんでつゆがよくからんで美味しかったです。でも、もうちょっと食べたかったかな・・・。(笑)
いや~よく遊んだ一日でした。言うことなし~。
でも、帰ろうとすると・・・
夕立にあいました。 レインウエア持って来てないし・・・。TT
帰りはすっかり夜になりました。
わかりますかね~・・・
長島スパーランドです。(笑)
では、また。
天正18年(1590年)当時の諏訪領主 諏訪頼忠が徳川家康の関東転封に従って武蔵国へ移りますが、小田原征伐の功績により、日根野高吉(ひねの たかよし)が諏訪に転封、豊臣秀吉より2万7000石が与えられ諏訪の領主となりました。
日根野高吉は安土城や大阪城の築城にも携わった築城の名手だったそうで、文禄元年(1592年)に高島城の築城を開始し、慶長3年(1598年)まで7年ほどかかって完成させたそうです。
当時の高島城は、城の際まで諏訪湖の水が迫り、湖上に浮いて見えたことから「諏訪の浮城」と呼ばれました。
当時の高島城の城郭はこんな感じです。
本丸、二之丸、三之丸などの主要な郭をはぼ一直線上に連続配置した連郭式で、諏訪湖と河川に囲まれた難攻不落の水城でした。現在は、二之丸、三之丸などは市街地となっており遺構は残っていませんが、図の赤丸の本丸部分とその面影を残すお堀が往時の高島城を偲ばせます。
関ヶ原の戦いで徳川方の東軍に属した諏訪氏は、慶長6年(1601年)に旧領の諏訪領に封ぜられ、以後、諏訪氏10代 約270年の長きにわたってその威容を誇りました。
明治になって廃藩置県により城郭が撤去され、本丸跡は公園となりましたが、昭和45年(1970年)に天守閣が再建され、同時に冠木門・角櫓なども復興されました。
それでは冠木門から城内へ・・・。
冠木門脇にある大木が迎えてくれました。何百年というお城の歴史を見守って来たのでしょうか・・・。
本丸跡は高島公園となっており一般に開放されています。
趣のある日本庭園です。
おっ、こんなもの発見!
各地のお城でおなじみの「顔出しパネル」ですね。^^
武田信玄の側室であり、武田勝頼の母である「由布姫」と「山本勘助」ですか。あはは、豊臣時代の築城である高島城とはあまり関係がないんだけどなあ~。(笑)
2007年の大河ドラマ「風林火山」の影響でしょうね~。恐るべし大河ドラマ・・・。
なので、顔出しパネルで遊んでみた。^^
いかがでしょうか。ダースベーダーっぽくないッスカ。(笑)
それでは、天守閣へ・・・。
遠くからの見た目は木造っぽかったけど、鉄筋コンクリート製ですね。
昭和45年(1970年)に復元されているので、築40年ですか。すごいな~。^^
三層の天守閣ですが一階と二階は資料室となっています。残念ながら撮影禁止ですけどね~。(笑)
最上階の三階は展望室になっていたので、諏訪の街を撮ってみた。
築城当時は諏訪湖が城際まで迫り、「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城ですが、江戸期の干拓などによって諏訪湖が遙か向こうへ行っちゃってます。(笑)
まあ、江戸時代という平和な時代になって、敵から攻められる心配もなくなり、なによりも農地を広げ石高を増やすことこそが最重要課題になったので、しょうがないんですけどね~。
皆さん、屋根が瓦葺きでないことにお気づきでしょうか。
この、復興天守の屋根は銅版葺きですが、もともと築城当時の天守閣も瓦葺きではありませんでした。
天守閣は檜の薄い板を葺いた杮葺き(こけらぶき)という珍しいものだったそうで、これは、諏訪の寒冷に耐えられる瓦が調達出来なかったためと言われています。
さあ、ここでもう一度、当時の高島城の城郭図を見てみましょう。
赤丸で囲った南之丸が城郭の離れにあるのが解りますよね。
実はこの南之丸は、寛永3年(1626年)に徳川家康の六男 松平忠輝を預かったときに、増設したものです。
そうここは、幕府から預かった流人の監禁場所だったところです。松平忠輝以降も、赤穂浪士の討ち入りにより改易された吉良義周などの幕府から預かった流人の監禁場所となりました。
写真でいうと、歩道橋の左辺りに南之丸があったと思われる場所ですけど、現在では市街地となっていて遺構は残っていません。
【松平忠輝】(まつだいら ただてる)
徳川家康の六男に生まれたにも関わらず、数奇な運命をたどった悲運の人です。
今回、ぜひ高島城を訪れたかった理由の一つは、悲運の人「松平忠輝」が高島城において人生の大半の時間を流人として過ごした場所を見たかったからなんですね。ただ、残念なことに今回訪れた高島城は南之丸の遺構はもちろん、資料館や城跡にも、忠輝に関する資料や解説は一切ありませんでした。TT
天正20年(1592年)1月4日、忠輝は徳川家康の六男として江戸城で生まれました。幼名は辰千代(たつちよ)です。
家康は誕生した辰千代を生母・茶阿局の身分が低かったため、素直に喜ばなかったといいます。そればかりか、家康は生まれたばかりの新生児である辰千代の顔が醜いという理由だけで、捨て子扱いしたのです。辰千代は下野栃木(長沼)城主で3万5000石の大名である皆川広照に預けられて養育されることとなりました。
家康が忠輝と再び面会したのは、慶長3年(1598年)のことですが、そのときも家康は忠輝を嫌ったと言われています。
茶阿局は天正20年(1592年)に辰千代を、文禄3年(1594年)に弟の松千代を出産したとされていますが、実は辰千代、松千代を双子で生んだという説もあるそうなんです。当時双子は「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われていて、そのために双子のうちの一人である辰千代は捨て子扱いされたのではないかとの説のほうが、個人的には説得力があるような気がします。あっ、あくまでも個人的意見ですけどね~。^^
弟の松千代には幼くして長沢松平氏を継ぐ形で武蔵深谷藩を与えられていたのに対して、同時期の辰千代はなにもなし~。う~ん、やっぱりね~。(笑)
ところが、慶長4年(1599年)1月に弟の松千代が早世してしまいます。そのため、その後を受けて長沢松平氏の家督を相続し、武蔵深谷1万石を与えられました。
慶長7年(1602年)に元服して上総介忠輝を名乗ります。ちなみに、忠輝は織田信長を尊敬していて、生涯を上総介で通したそうです。
その後の忠輝は順調に加増移封されていきます。
慶長11年(1606年)、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚します。
慶長15年(1610年)、越後高田藩主に任じられ、このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられました。
忠輝は海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に茶道、絵画、薬学に通じた文化人で、キリスト教の洗礼を受けキリスト教を信仰していたともされています。家康は当初貿易の実利を求めながらも、キリスト教宣教を黙認していたそうです。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では留守居役を命じられましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では大坂に出陣しました。
元和2年(1616年)4月、父・家康が死去しますが、家康は今際の際に秀忠・義直・頼宣・頼房らを枕元に呼びながら、忠輝だけは呼ばなかったそうです。拝謁を望む忠輝は駿府まで自ら馳せ参じたが、家康は最後まで面会を許さなかったそうです。
そして運命の元和2年(1616年)7月6日、忠輝は大坂夏の陣の際に不行跡があったことを譴責され、兄である将軍徳川秀忠から改易を命じられ、伊勢朝熊に流罪となりました。
その改易の理由というのは・・・
・大坂夏の陣のとき、大和から大坂に攻め入る総大将を命じられていたが、遅参したため。
・忠輝軍が大坂に向けて進軍中、近江守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の旗本、長坂信時らを斬り殺したため。
・大坂夏の陣の戦勝を朝廷に奏上するため、家康は忠輝に対して共に参内するように命じた。しかし忠輝は病気を理由に参内せず、しかもそのとき、嵯峨野に出向いて桂川で舟遊びをしていたため。
まあ、関ヶ原の戦いのおり遅参して家康から叱責された秀忠が、大阪夏の陣の遅参を理由に忠輝を改易するとはなんたる歴史の皮肉でしょうか。忠輝にしてみれば「あんたにいわれたくねぇ」っていう感じでしょうか。(笑)
個人的には改易の本当の理由はキリスト教にあるのではないかとの説が大きいように思います。1612年に諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止令が出され、キリスト教への迫害が始まりました。忠輝自身が洗礼を受けていたかどうかはわかりませんが、キリスト教に深く関わっていたようです。
織田信長を尊敬していた忠輝ですが、粗暴な振る舞いが多かったと言われています。でも、改易させられた人の人物像って、この辺の話がけっこうクローズアップされるように感じますよね。
忠輝は伊勢朝熊(鳥羽藩)で2年流された後、飛騨高山(高山藩)に移され8年をそこで過ごし、そして寛永3年(1626年)に諏訪高島城に移されました。25歳で改易され、35歳のときに諏訪高島城南之丸に移り、その後58年の余生を諏訪でおくり天和3年(1683年)7月3日に諏訪高島城南之丸で92歳の生涯を終えました。
92歳という長寿だったことから、それなりの遇され方だったのではないかと思いますが、諏訪の冬の厳しさは老齢の身にこたえたでしょう。失意のうちにこの長き時間を過ごしたのか、それともいつか赦免される日が来ることを願って待っていたのか・・・。いずれにせよ、とても長い時間だったことでしょう。
今回の高島城は、数奇な運命をたどった松平忠輝に思いを馳せながらの訪問でした。
長寿の象徴でもある亀さん。
さて、高島城を訪れた後は・・・
水陸両用バスで見かけた造り酒屋さんに寄ってみたりとか・・・。バイクじゃなかったら試飲したかったんですけど。(笑)
道を間違えて偶然見つけた上原城跡に行ってみたりとか・・・
諏訪に来たのなら当然、諏訪大社上社本宮にも行きました。
もちろん、信州といえば蕎麦ですよね。
手打ちだけれども細めんでつゆがよくからんで美味しかったです。でも、もうちょっと食べたかったかな・・・。(笑)
いや~よく遊んだ一日でした。言うことなし~。
でも、帰ろうとすると・・・
夕立にあいました。 レインウエア持って来てないし・・・。TT
帰りはすっかり夜になりました。
わかりますかね~・・・
長島スパーランドです。(笑)
では、また。
2010-08-01 11:27
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コメント(12)
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こんにちは。
高島城5年位前に行きましたよ。
その時はビーナスライン行ったりしたので1泊でしたが。
諏訪に泊まってののんびり旅でした。
この時期だと夕立にあうことありますね。
信州蕎麦食べたいな。
by かいかい (2010-08-01 13:25)
今回はバイクとの写真がいっぱいですね^^
顔出しパネルはいい感じですよね~(ノ∇≦*) キャハッッッッ♪
諏訪大社は。。。行ってみたいです
有名なお祭り見学に?
蕎麦も美味しそう^^
by chie (2010-08-01 14:36)
高島城 閉館時間過ぎて資料館には入れなかった~(つд・)
高島城から歩いて諏訪湖まで行ってみましたが
結構遠いんですよね… っても徒歩10分ぐらいでしたが
by Sazaby (2010-08-01 18:54)
◇かいかいさんへ
高島城行かれましたか~。^^
バイクでの信州の旅いいですよね。
やっぱり泊りでのんびりツーリングかな~。
この時は信州に行ける嬉しさのあまり、
夕立なんてすっかり忘れておりました。(笑)
長距離はやっぱりレインウエアの携行は必須ですね。^^
by susumu (2010-08-01 19:35)
◇chieさんへ
顔出しパネルですが、大河ドラマが終わるとみんな興味なくなるのかな~。
みなさん素通りしてましたね。
なので、ちょっと遊んでみました。(笑)
諏訪大社の御柱祭は今年行なわれましたので、次は7年後ですね。(笑)
どデカイ御柱が社殿の前にそそり立っておりました。真近で見るとド迫力でした。あんなものに乗って坂を下るなんて凄いとしか言いようがありません。^^
by susumu (2010-08-01 19:59)
◇Sazabyさんへ
自分も寄り道しすぎて時間に間に合わないことがけっこうあります。(笑)
高島城の資料館は、今の資料館のトレンドであるビジュアルを駆使しての展示ではなく、昭和な感じがするレトロっぽい展示内容でした。もっともっと昭和な感じの演出をしたら、面白い資料館になると思いますけどね~。(笑)
徒歩10分ってけっこうありますよ。山城10分っていうよりは全然いいですけどね。(笑)
by susumu (2010-08-01 20:12)
すばらしい!本当に脱帽です。
私も、もっともっと勉強しなくてはいけません。
初心を改めて思い返してみます。^^;
by ソニックマイヅル (2010-08-01 23:03)
◇ソニックマイヅルさんへ
初心ですか・・・。
ブログを始めたのが去年の8月1日でしたので、もう一年経ったのですね。
早いものです。最初は何が何だかよくわからず、初めて記事がUP出来た時のあの感動は忘れません。^^
今では自分の興味本位の長~い記事だらけになってしまってますが、最初の頃はよくまとまってる気がします。(笑)
「初心忘るるべからず!」ですね。^^
これからもよろしくお願いしますヽ(*´∀`*)ノ
by susumu (2010-08-02 20:43)
おお~~。
お堀に水があって橋があって 素敵なお城風景ですね。
「諏訪の浮城」と呼ばれていた頃は どんなに幻想的な雰囲気だったのでしょうか。妄想が膨らみます。
こんなにも美しいお城であると同時に、ここは流人が流されてくる悲哀に満ちた場所でもあったのですね(T_T)
周りを水に囲まれているとはまさに天然の牢獄・・・・。
私が流罪で思い出すのは「江島生島事件」の江島ですが、彼女も高遠藩お預けとなりました(事実上の流罪)。
長野県は冬は雪深いし流罪の地としてはぴったりだったのでしょうか・・。
「由布姫」と「山本勘助」の顔出しパネルには笑ってしまいますが、諏訪御料人も悲劇の美しき姫という感じで興味あります~。
ダースベーダーとの落差ありすぎ!ぷぷ(^u^)
by suzy (2010-08-04 01:05)
◇suzyさんへ
諏訪湖に浮かぶ高島城、ぜひ見てみたかったですね。タイムマシーンがあればね~。(笑)
諏訪湖の干拓は江戸期に湖水位を下げる工事を何度か行なったようで、諏訪湖の大きさも現在の諏訪湖とはちょっと違っていたはずです。自分的には奥琵琶湖の湖面に山が迫っているあのイメージなんですけどね。^^
「天然の牢獄・・・」その通りだと思います。美しい高島城も違った角度から見ると、そんな一面も持ちあわせていたお城だったんですね。流されてくる流人が身分の高い人達だけに一層物悲しく感じます。
「江島生島事件」・・・大奥ですね。^^
大奥に渦巻くドロドロした権力争い。ドラマ的には最高ですよね。(笑)
高遠城も行ってみたいお城です。絵島囲み屋敷とかも行ってみたいなあ。^^
松平忠輝や吉良義周、そして江島など身分の高い流人の流刑の様子などを、幕府は把握しておく必要があったのでは・・・。信州は江戸からの流刑地としての距離や環境が最適だったのではないかと思います。預かる方は大変だったと思いますが・・・。(笑)
今回偶然にも上原城跡に行きましたが、諏訪惣領家・最後の当主だった諏訪頼重の娘だった諏訪御料人も幼い頃、上原城のお屋敷に住んでいたのでしょうか。これも何かのお導きかも~。(笑)
by susumu (2010-08-04 21:49)
行ってみたくなりますネ。特に興味があります。
by ばん (2010-08-07 20:59)
◇ばんさんへ
コメント&niceありがとうございます。
諏訪湖はとってもいいところでした。是非、是非!
冬は凄く寒いみたいですけど・・・。(笑)
by susumu (2010-08-08 10:13)